『フェル・アルム刻記』 第一部 “遠雷”

§ 第二章 帰路にて

一.

 翌日、ルードは扉をノックする音で目を覚ました。
[ルード君ー。食事だよー。来なさーい!]
 明朗に、まるで歌うような感じで扉の向こうから声をかけたのは、ハーン。
[……んぁ……分かったぁ……]
 眠そうな声を発したルードは上半身を起こし、目をこする。
 天気は昨日と同様、すがすがしく晴れ渡っているようだ。カーテンを開けたルードは片方の窓を開け、朝の空気を身に浴びると背伸びして起き上がった。
[ふぁあ……。いい天気……]
 ルードは眠そうにぼりぼりと頭を掻いた後、寝間着から着替えて部屋から出た。
 小さな食堂ではハーンがすでに席についてお茶を口に運んでいた。ルードはハーンに朝の挨拶をし、彼の正面に座った。
[おはよう。よく眠れたかい?]
 お茶を運んできたナスタデン婦人が、にこっと笑ってルードに聞いてくる。
[ああ、おかげさんで……]
 あくびを一つ、ルードは答えた。
[そりゃあよかった。あんた達は今日出るんだろ?]
[そう、スティン高原にね]
 癖のある金髪を掻き揚げハーンがそれに答える。
[気を付けなさいよ!]
 夫人は元気にそう言うと、食事を取りに厨房へ戻った。同時に、廊下からライカが出てきて彼らに会釈した。
[あ、ライカ。おはよう]
 ルードが声をかける。ライカはにこりと笑うとルードの隣に座った。

 三人が〈緑の浜〉を後にしたのは、朝食がすんで半刻ほど経ったあとだった。
 二頭の馬のうち、一頭にはルードとライカが乗り、もう一頭にはハーンが騎乗し、荷物を鞍の両側に提げた。ハーンの身なりは、まるで当分は冒険を続けるようにもみえる。旅に必要なさまざまな装備のほか、愛用していると思われる長剣が一振り、短剣が一本、そのほか盾などもぶら下げている。もちろんタールも忘れてはいなかったが。
[クロンの宿りから君の村までは普通に行くと……そう、大体三日ってところだね]
 ハーンが隣の馬に乗っているルードに話しかけた。
[んー、やっぱりそれくらいはかかっちまうかぁ]
 ルードは渋い顔を見せる。
[寝る間も惜しんで無茶苦茶に馬を駆れば一日で着けなくもないんだけどさ、それはきついと思ってね!]
[でも、なるたけ早く着きたいんだよな……]
 と、ルードが言う。
[そうだねえ。じゃあ、一日に動く時間を長くしよう。そうすると二日目の昼過ぎくらいかな……ちょっと強行だけど……大丈夫かなあ]
[うん、それでいこう]ルードが強く推す。
[よおし! なら、今日は日が暮れるまで移動だ!]

 午後に入って、それまで平坦だった街道の路面は徐々に荒れ、石が目立つようになってきた。眼前にそびえるのはスティンの山々だ。その向こうに、ルードの故郷がある。
 ルード達は山に入る前に食事を取るため半刻ほど休息を取り、スティンの山を登っていった。道は徐々にその傾斜を強くしていく。街道は山腹をくり貫く感じで通っており、山越えという言葉から連想されるようなきついものではないにせよ、いかんせん山道の距離が長いのだ。
 ハーンは折りあるごとに、ルードとライカを元気づけるように音楽を奏でた。ルードも『疲れた』というような態度をおくびにも出さず、夕方まで馬の手綱を頑張って握り締めていた。
 日が暮れようとする頃に、ルード達は開けた平坦な場所を見つけ、そこにテントを張った。そうして彼らの旅の一日目は暮れていったのだ。何事も無く、平穏のうちに。

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二.

 その夜。ルードは浅い夢からふと目が覚めた後、まったく寝付けないでいた。大きな何かが自分の周りをぐるぐると回り、自分を見つめているような感覚に陥っていたからである。ルードがまだ小さい頃、人には見えないものを見た時の不思議な感覚によく似ていた。
 ハーンの寝床は空いていた。彼は確かに寝入っていたはずなのに、いつのまにか目を覚まして外に行ってしまったようだ。ルードは起き上がって、テントから出ることにした。

 あたりは木々に覆われている。ルード達のテントが張られている周囲だけがぽっかりとひらけていた。それは夕方、ここに着いた時と変わるはずのない情景だが、今は夜の闇にどっぷりと暗く包み込まれている。音は何も聞こえない。ただ風にゆれる木の葉の音のみ。それが夜の山をより一層恐ろしく、神秘的に見せている。
 テントから出たルードは、近くに人の影を見つけた。おそらくハーンであろう。だがルードには、それが本当にハーンなのか怪しかった。昔のように、超常的な存在がふと自分の前に姿を見せたのかもしれない。ルードはしばらくテントの外で立ち尽くしていた。するとその影が近寄り、声を発した。
[ルード? ……目が覚めちゃったのかい?]
 白い服を着たハーンは、いくらか小声で話しかけてきた。ルードはハーンのいたところまで行くと少し身震いをした。
[寒いな……]
[夜はまだまだ冷え込むからね、それにここは山の中だしさ]
 ハーンはテントに戻ると、中から毛皮の上着を持って来てルードに渡した。
[ああ、ありがとう……]
 ルードはそれを着ると、ふと空を見た。高くそびえる木々のせいで視界は狭いものの、満天の星空が見てとれる。スティンの高原からも、これと同じくらい星がよく見えるものだが、周りの情景が違うせいか、まったく異質なもののようにルードには感じられた。
[今はこの周りを見張っていたんだ。でも、まったくもって異常は無いね]
 ルードはその言葉にただうなずくだけ。
 しばし、沈黙が周囲を覆う。
[……あのさ、ハーン……]
 小声で話しかけたのはルードだった。
[……うん?]
[なんでこんなことに……なっちゃたんだろうか]
 ハーンは前を見据えたまま、黙っている。
[すごく不安なんだ……俺……]
[それで目が覚めちゃったのかい?]
[いや、俺にまとわりつく雰囲気がなんというか……すごく大きなものに覆われているような、そんな気がして寝付けなくなっちゃったんだ。こんな感じがしたのは久しぶりでさ。物陰で何かが動いているのを見たり、暗闇に小さな光が飛んでいくのを見たり……小さい頃はそんなものを見たんだ]
 ルードの真横に立っているハーンは、静かに聞いている。
 風が吹き、草原を囁かせ、木々をざわざわと鳴らす。それが止むと、周囲の静けさはいや増す。
[でもさ。そんなこと誰も信じてくれなかった。俺もそれがまやかしであると思い込んで、いつの頃からか見えなくなっていた、はずなのに――]
[それが今はまた感じられる……というのかい?]
 ルードはうなずいた。
[そう。……僕はね、時々そういう気配を感じている。風の中を何かが流れていく感じ――大地の持つ確かな力――そういうある種、日常から超越していると思われるものをね]
 ハーンにしては珍しく、真摯な口調で語る。
[へぇ、いたんだ。俺以外にもそういう人が……]
[超常的な何かを感じ取る力。いつの間にか人々は忘れてしまったんだろうけどね。でも、それを覚醒させた人は、ほかの人には使えない力、記憶の断片に存在している内なる意識を開放させることが出来る]
[俺は、そういう人間だと……?]
 ルードは身を乗り出して訊いた。
[ひょっとしたらだけど、そうかもね。ライカと遇ったことで、封じられていた何かが開かれて、ルードが生来持っていた力を顕在化させるようになったんじゃないかなぁ?]
[ライカ……。あの娘って、一体何なんだろう……]
[それが不安なのかい?]
[あの子自身もそうだけれど――あの出来事全体が、俺なんかにはとうてい分かんないような、とてつもなく大きな何かによって起こされた事件で……世界の全てを変えてしまうんじゃないかって……]
[……言葉を知らない……。ライカ……銀髪の……娘……か]
 ハーンは眉をひそめ、ひとりごちた。
[何か、心当たりあるのか?]ルードはハーンに訊き返す。
[いやよくは分からない。だけど、あの人なら――]
[え? 誰?]と、ルード。
[うん。“遥けき野”に大賢人というべき人がいてね。僕も昔会ったことがある、というより、結構なお世話になったんだよ。彼なら分かる、と思うんだ。僕も彼から色々と貴重なことを教わったところがあるしね。だからライカのことも、そして奇妙な出来事が、どういう意味を持つのかってことも分かると思う。……多分だけどね]ハーンは言った。
[へえ……そんな人がいるのか。俺も会ってみたいな]
[……でね、僕は高原まで君らを送り届けたらさ、行ってみようと思ったんだ。彼のところにね]
 ルードは顎に手をやり、しばしの間考えた。
[俺も、行きたい!]
 押し殺した声で、しかし強い意志を込めてルードは言った。
[そんな……無理して行かなくていいよ。……君の家を空けるわけにも行かないだろうし、道中安全とは言えないんだよ? 僕がスティンの村にまた来た時、彼から聞いたこと全部を話すからさ]
[でも、もやもやしたままじゃあ嫌なんだ! 俺も行くよ!]
 ルードは決意した。自分の身に起きた一連の事件を自分の手で解明することと、密かに自分が好意を持ちつつある銀髪の少女、ライカの身元を明らかにすることを。それが自分にとって、いやひょっとしたら世界にとってもあまりに重大なことのような予感がしたのだ。
 理解の枠から逸脱した出来事。言葉の通じない銀髪の少女の出現。これらは世界の常識では考えも及ばないことである。
[しっ……! ライカが起きちゃうかもしれない]
 再び小声になってハーンが諭す。
[分かったよ、ルード。でも村に戻ってみんなの心配を解くこと。まずはそれだよ。今の話はその後で考えよう]
[ああ……]多少不満ながら、ルードは同意する。

 今まで雲に隠れていたのだろう、半円型の月がその姿を現し、淡い光で野原を包む。
 ハーンは大きなあくびをした。
[……さすがに僕も眠くなったかな。ふぁ……おやすみぃ]
 彼は言うと、ひとり歩き出した。
[なあハーン、見張りは? やらなくていいのかい?]
 ルードがハーンの背中に声をかける。
[……ああ、もう今日は大丈夫だよ、問題無し!]
 にこやかにそう言って、ハーンはテントへと戻っていった。
 しばらく後、ルードも寝床についた。が、奇妙な不安感に苛まれている彼は、なかなか寝付けなかった。
 ライカは何者なのだろうか? ハーンの言うように、自分は覚醒しようとしているのか? だとすればその行き着く先は何なのだろう? そして――自分を取り巻く、あまりに大きな流れとは果たして――?

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三.

 旅程の二日目。
 何か大きな音がしたために、ルードは目を覚ました。一体なんだというのだろう? 半ば寝ぼけた面持ちで顔を横に向けると、何か固いものが頭に当たった。
[痛てて! ……ん?]
 顔に当たったものはタールの端だった。それを抱えているのは、なんとライカ。彼女は一瞬驚いたふうにみえたが、小悪魔的に微笑むと、再び無造作にタールの弦をかき鳴らした。慈悲のない音圧がルードの耳に響く。
[わ、分かったよ、起きるからさ!]
 これ以上やられたらたまらない。ルードが急いで起き上がると、ライカはタールを立てかけ、くすりと笑ってテントの外に出ていってしまった。
 やれやれ、とルードはテントの外に這い出す。朝の森の匂いが嗅覚を刺激する。あたりは多少霧が出ているようだが、やがて晴れるだろう。ようやく今日の夕方には村に帰れる。
 ルードは笑みを浮かべた。ライカがあんなふうに自分の世話をやいてくれるなんて。彼女の心が徐々に開かれつつあるのが分かり、それがルードにとってたまらなく嬉しかった。

 スティン高原への旅は、今日も順調である。森を抜けた後しばらく、高原の花咲く草原が続いていたので、ルード達はその風景を楽しみながら馬を進めた。太陽の注ぐ正午の森は昨晩とは違った穏やかな雰囲気を見せ、一行を和ませていた。ハーンの口調はいつもどおり。昨晩のような真摯な口調はまったくみせない。
 やがて街道は再び深い森の中へと入り込む。前を行くハーンは両手で手綱をぎゅっと握り締める。それまでの平坦な道から転じて、勾配のきつい下りとなったからだ。もう一頭の馬の手綱を握るルードに、ライカがしがみついてくる。
 道が再び緩やかな下りになり、大きく右に曲がる時、前方の視界が開けた。
[ああ、見えるよ、ほら! 君の知ってる場所だ!]
 ハーンが、前方を指差す。
[おお!]
 ルードは間髪入れずに感嘆の声をあげた。右斜め前にはムニケスなどルードの知っているスティンの山がある。そして山々の裾野をつうっと伝っていくと、見慣れている開けた土地が見える。
 早く村に帰りたい、そんな気持ちで満たされたルードは馬を急がせた――。
 そんな矢先のことだった。異変が起きたのは。

* * *

(な……なんだ、あれ?!)
 二十ラクほど先の空間が一部、渦を描くようにぐにゃりと歪んだのだ。目の前に真っ直ぐ伸びているはずの道が、円状に渦を巻いているように見える。ルードは手綱を引き、馬を止めた。
[どうしたの、ルード? ……ふむう……]
 ハーンが異変に気付き、馬を下りて駆け寄ってきた。彼の左手には円盾が、右手には剣が握られている。長い刃の中心部は柄の部分から刃先まで、宝飾品のごとく奇麗な意匠がなされており、儀仗《ぎじょう》用のものにすら見える。太陽が当たってもいないのに、その刀身は銀色に鈍く光って見えるようだった。
 奇妙な円状の空間はそして、歪んだ風景を一切写さなくなった。暗黒の宇宙をそこだけ円形に切り抜いたかのような、漆黒の空間と化したのだ。
 かちゃり、という金属の音。ハーンが彼の剣を両の手でしっかりと握り直したのだ。ハーンは戦士の表情に変わり、じっと円を見つめている。

 ひゅっ!
 円の中から音がしたかと思うと、何かがうち放たれた。それに驚いたルードの馬が嘶《いなな》く。
[ルード、下がっていて!]
 ハーンの指示にルードは従い、少し後ろに下がる。ルードは馬から下りると、鞍に備えてある自らの短剣を持ってハーンの斜め後ろまで来た。
 しゅるる……、というおぞましい息遣いが漆黒の向こうから聞こえてきた。
[ルード君はライカを守ってやってくれないか?]
 ハーンが円を見据えたまま、ルードに囁く。落ち着いたその声は、戦いを前にした戦士の声だった。
 ルードは二、三歩下がり、ライカを見る。彼女も馬を下り、目の前の異常な光景に怪訝そうな表情をしている。
 再び、ひゅっ、という音がすると、側にあった木にそれが巻き付いた。
 長く、人の腕ほどの太さを持つ紫色をした触手。吸盤のない蛸《たこ》の足のようなそれは、どくんどくんと脈打っていた。触手に巻き付かれた幹は、みしみしと音を立てる。円の中の『もの』が外に這いだそうとしているのだ。しゅるる、という不快な息遣いが次第に近くなってきている。
[ば、化け物……]ルードは顔をしかめた。

 機を見つけ、ハーンが動いた!
 盾を構え、足下の土を軽やかに蹴り、走る。そして剣を振りかざすとすぐさま、紫の触手にむけて振り下ろした。風を切る唸りとともに、銀色の光が曲線を描く。ハーンは剣を叩き付けて触手を一刀両断にした。触手の切り口から体液のようなものがほとばしる。触手の先端は幹に巻き付いたままだが、残りは暗黒の空間の中へと消え、中から悲鳴のような声が聞こえた。貪欲な獣のような咆哮《ほうこう》だ。
 ハーンは勝利を確信したように黒い円を見る。が、黒い円の中から紅に光る二つの瞳らしきものを見た時、ハーンの表情は変わった。
[まだか。この魔物め……何てこったい!]
 悪態をつきながらハーンは円のほうへ、得体の知れない何かのほうへ駆けていく。
 その時、ルードは自分の背後に風を感じた。後ろを振り返ると同時に、風は空気を切り裂く音とともにルードの横を通り過ぎ、まっすぐ標的――瞳を爛々《らんらん》と輝かせる黒い円――へと正確に走っていった。時を同じくして、強烈な風圧がルードを通り抜けていった。
 そう。彼の背後から、化け物めがけて。
(これは――かまいたちか?)
 ルードはなびく髪を手で押さえつつ、後ろを振り向いた。構えた姿勢で両腕をまっすぐ前に突き出し、両の手を開いているライカの姿があった。風を受けた彼女の長い銀髪は乱れ、後ろへなびいている。
(まさか、ライカがやったのか?)

 ハーンは化け物に斬りかからんとしていた。しかし、円の中からひゅっ、という音が聞こえてきた。ハーンが気付いた時には遅かった。伸びてきたもう一本の触手をかわせず、胴体に巻き付かれてしまったのだ。
[……っ!!]
 ハーンは声にならない悲鳴をあげた。怪力で締め上げられているハーンは体勢を崩し、剣を離してしまった。

 ちょうどその時、かまいたちが標的に命中した。剣で何回も切り付けるような音がする。円の中の化け物は、忌々しい叫び声をあげ、もがき苦しんだ。
 ハーンの身体は触手から解放されたが、ハーンの意識は朦朧《もうろう》としており、立ち上がることすら叶わなかった。ハーンは二、三歩ふらついて、ばたりと地面に倒れ込んだ。
[ハーン!!]
 ルードはハーンのもとへ走った。触手が再びハーンを捕捉しようとしている。ルードは自分の短剣で構えると、伸びてくる触手を薙ぎ払った。しかし、ルードの思いとは裏腹に、傷を負わせたという手応えは感じられなかった。所詮は刃こぼれした短剣だったのだ。触手は一瞬引っ込んだが、今度はルードのほうへ照準を絞ったようだった。ルードは敵の威圧にのまれて引き下がった。こつんと、何か固いものが彼のかかとに当たった。

 ルード!!

 ライカの声がしたかと思うと、次の瞬間にはまたしても暴風がルードの横を通り過ぎ、強烈な圧力でもって敵を切り裂いた。触手がずたずたに分断され、黒円の中の相手は悲鳴をあげた。
 それを見て、ルードは意を決した。異質な円の中にいる敵本体を叩こうと決めたのだ。ルードはなまくらな短剣を放り、足下にあったものを――ハーンが落としてしまったハーンの剣をつかんだ。ルードは長い柄を両手で握り締め、敵に向かって構えた。きらりと、銀の刃が輝く。ルードの予想に反して、その剣は意外なまでに軽かった。
[ハーン! 悪いけど、こいつを借りるよ!]
 ルードは横たわっているハーンに呼びかけた。それを聞いて、ハーンが声を振り絞るようにうめいた。
[……! ルード、……それだけは……駄目だ!!]
 ハーンのうめく声の意味がルードには分からなかった。剣を構え、恐怖を払拭するために雄叫びをあげる。そして黒い円に向かって斬りかかった――!

 それは剣を振り下ろすまでの、きわめて短い時間だった。
 ルードは瞬間、知った。剣はルードに圧倒的なものを与えようとしている。超常の“力”は剣を握る両腕から伝播し、ついには彼の脳髄へと達していた。同様に、彼の両足からは大地の力の流れが、血管を伝って流れ込んできた。
 これらは人間ひとりの身に余るほど、絶大な“力”だった。
(あの時と一緒だ――ライカと“遭遇”して、光の玉が俺を包んだ時――いや、それ以上だ!! この押しつぶされるような感じ――俺ひとりが抱え込むには大き過ぎる力だ!)
 身体と精神に、洪水のごとく洗い流さんと渾然《こんぜん》一体となって襲いかかる“力”。ルードは必死で抗うものの、ルードの精神は悲鳴を上げ、ほどなくして彼は気を失った。黒い円に確かな手応えで剣を振り下ろしたと同時に。
 そして――

 ルードの中の、何かが弾けとんだ。
 彼の奥底にある扉が一つ、確実に開いた。

* * *

 ルードは夢を見ていた。模糊《もこ》とした情景が頭の片隅へと消え去ると、ルードはゆっくりと目を覚ました。
 そこは森の中だった。先ほど意識を失った場所で、彼は横になっていたのだ。ライカがそばで付き添っていたが、ハーンもルードの目覚めに気付いたようだ。
[やあ、気分のほうはどう?]
 ハーンが気遣う。ルードは先ほどの戦いの様子を徐々に思い出した。
[……大丈夫……でも……あの……化け物……は?]
[ああ、やっつけたよ。とどめを刺したのは僕だけど、致命傷を与えたのはなんと、君だよ!]
 ハーンは喜々としてルードの手柄を褒めた。彼自身、触手に巻き付かれたために怪我を負っているというのに。
[そうか……]
 ルードは再び意識が遠のくのを感じた。
[もう少し横になってたら?]ハーンが気遣う。
[……あ、いや。……行こう。今日中に着きたいんだ]
 ルードはのろのろと立ち上がると、ふらついた足取りで馬に乗った。続いてライカも彼の後ろに座す。
 ルードが手綱を握り締めたところで、再び疲労感に襲われ、くたりと、馬の首にもたれた。
[ルード!]
 ハーンの声が聞こえた。
「ハーン、いいよ、このまま行こう……。ライカ、すまないが手綱をよろしく……って言っても分かんないかな……俺の言ってる言葉が……」
 ルードには、発した“音”が今までの言葉と異質なものであると気付くはずもなかった。
「もう……馬を操るのなんて久しぶりなのに――」
 ライカの意味の無いはずのつぶやきが、そのように言っているように聞こえた。

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四.

 次にルードが目覚めた時、そこは部屋の中だった。視点の定まらない寝ぼけまなこで周囲を一瞥した。
[俺の……家だ……]そう言ってほくそ笑む。
 いつもの景色。いつもの匂い。四歳の時からずっと暮らしてきたナッシュの家にいるのだと、すぐに分かった。もう夕刻だろう。部屋は薄暗くなってきている。
 ルードはしばらく、ベッドの上でぼうっとしていたが、家族に早く会いたいという想いが沸き上がってきて、起き上がった。旅の疲労のためか、身体の節々が痛む。が、それを気にしてもいられなかった。

 居間にはナッシュ一家――叔父のディドル、叔母のニノ、従姉のミューティース――とハーン、そしてライカがいた。ルードが恐縮して入ってくると、一同の視線は彼に集まった。それはルードを非難するようなものではなく、暖かいものだった。
[おお、ルード、大丈夫か?]ディドルがまず声をかける。
[大体の話はティアーさんからうかがったよ]
[すまない、叔父さん。俺は――]
 ルードは窓側の椅子に腰掛ける。
[なあに、お前が無事だってんなら、それでいいのだよ]
 ディドルは言葉を切り、茶をすする。
[村のみんなにも本当に迷惑をかけてしまっただろうね……]
 ルードはうつむいて謝罪する。ニノとミューティースも無言でうつむく。
[……そうだ、みんなは?]
 しばらくあって、ルードが訊いた。
[ケルン達のこと? 夕べ遅くに君が戻った、っていうからちょっと前まで家に来ていたのよ。村のみんなも気になって集まってきたんだけど、君が眠っているから帰っていったわ]
[そうか……ふう……]ルードは溜息を洩らした。
[まあさ、明日にしようや。お前が帰って来たのが昨日、それからお前はずっと眠っていたわけだけども、それでも疲れているだろうから、休んでおくのがいいだろうて、なあ?]
 ディドルの言葉にルードはうなずいた。
(……まる一日も眠ってたんだ……)

 ルードが再び自分の部屋に戻ろうとしたその時、記憶が鮮烈によみがえってきた。
 ――禍々しい化け物。かまいたち。そして圧倒的な“力”がハーンの剣を介してルードを襲ったこと――。
 あれらは一体何だったのだろうか?
[……なあ、ハーン]
 扉の取っ手に手をかけ、振り向いてルードは言った。
[何だい?]
[部屋まで来てくれるかな? 訊きたいことがあるんだ]
[……ああ、分かったよ]
 ハーンは席を立った。一緒にライカもついてきた。彼らはナッシュ家の人々に会釈して、ルードの部屋へ向かった。

[ええと、俺の家まで馬の手綱を預けていたのはライカだったよね?]
 部屋に入り、ルードはハーンに訊いた。ハーンはうなずく。
すまない、ありがとう、ライカ
 ルードはいつものとおり、意思表示の身振りとともに、ライカに礼を言った。
 言った?
(これは……言葉なのか?)
 ルードは唖然《あぜん》とした。ルードが今、口にしたのは、彼の知らない『音』にほかならない。しかしそれが無意味に羅列されたものではなく、[ありがとう]という感謝の意味を持つ『言葉』であることも分かった。ルードはハーンを、そしてライカを見る。やはり二人とも驚いている。
 そして、ライカがゆっくりと口を開く。

「分かるの?」
 ライカは言った。明確な言葉を伴って。
 ルードが知らないはずの『音』の列はまったく自然に聞こえた。何気ない会話をしている時のように。
「あ、ああ。何だ、これは……一体何なんだよ?」
 言ってルードは呆然と立ち尽くした。地面がぐるぐる廻っているようだ。
「俺……疲れてるのかな? いや、これもまだ夢なのか?」
 発する音はやはり、意味が分かる『言葉』だ。
「ううん、夢じゃない。やっと……やっと話せるようになったのね!」
 ライカは破顔し、本当に嬉しそうな面持ちをしてルードの両の手首をぎゅっと握り締めた。少し照れくさくもなったルードはちらとハーンを見た。彼は笑っている。
 ぽとり、と何かがルードの手の甲に落ちた。それはライカの涙だった。
「ライカ……?」
「わたし、不安でしようが無かった……。“あそこ”から落ちて……気付いてみたら自分のまったく知らないところにいて……言葉も通じなかった……」
 鳴咽をこらえ、ライカは言う。安心感からくる涙は、しかし止まらない。
「ねえ、ここは一体どこなの? あなた達の言葉って、ユードフェンリルの古い言葉に似てるけど……」
 涙をぬぐい、ライカが訊いてくる。
「どこって……スティン高原だよ。ユードフェンリルって……? いったい何のことだ?」
……そうだね。僕達が話しているこの言葉は、僕らがすでに失って久しい言葉さ……。そういう伝承があるんだよ
 そこではじめて、ハーンが口を挟んだ。
「ハーン!?」
 ルードとライカは再び驚いた。ハーンもまた、それまでとは別の『言葉』を話したのだから。
「あなたまで……どうして?」ライカがぽつりと言う。
 ハーンは一呼吸おいてからまた話し始めた。
「ルード、さっき訊きたいことがあるって言ったよね?」
「そう。そうだよ、ハーン。あなたは今までの一連の事件――それに、今起きたばかりの出来事についてどう思う? いや……、何か知っているんじゃないか?」
 ルードはじっとハーンを見据える。ハーンは黙ったままルードの、そしてライカの顔を見た。それからしばらくが経ち、ハーンは口を開いた。
「さあて、と。どうしたもんでしょう。まさか、こういう事態にまでなるとは予想してなかったなあ。これはどうやら本当に、とんでもないことが起きつつあるのかもしれないな」
 ルードはハーンの次の言葉を待ちながら、ゆっくりとライカの手を離し、ベッドに腰掛けた。
 そして、ハーンが口を開いた。
「あの触手の化け物……あれはこの世界、つまりフェル・アルムのものじゃあない。そしてライカ。君は、違う世界から迷い込んだんだと思う。おそらくは、ね」
「フェル・アルム? それが今、わたしのいるところなの?」
 ルードとハーン、両者が首を縦に振る。
「フェル・アルム……“永遠の千年”よね? 古いエシアルルの言葉では」
(永遠の千年とはよく言ったもんだ)
 ルードは思った。千年を経た今、世界はどこへ向かうのだろうか? 今までどおりの平穏か、それとも――。
「君の住んでたところが“果ての大地”の向こう側にあるのか、海を越えたところにあるのか、あるいは――。まあ、僕の知識じゃあ見当もつかないけれども、どちらにしてもライカにとってここは、まったく知らない場所なわけなんだよね」
 ハーンが言う。
「でもハーン。なんで俺やあなたが、ライカの言葉を分かるようになったんだ?」ルードは尋ねた。
「昨日の夜、君に話したように、覚醒したことによるんだと思う。記憶の断片が甦り、力を発揮出来るようになると、ね。実のところは、僕はもっと以前にライカの言葉を話せるようになっていたんだけどさ」
「俺が子供の時に体験した不思議な感覚っていうのは、ハーンの言ったように、ライカと出会ってから急によみがえったかのようだよ。でもさ、俺がこうしてしゃべっているこの言葉は何なんだ? 今までまったく知らなかったのに、さも当たり前のようにこうやって話せてる……」
 ルードが狼狽《ろうばい》しながら言う。
「この言葉――アズニール語は、わたしの世界では最も広く使われているのよ」
「アズニール……?」
 ライカの説明を反芻《はんすう》するルード。先ほどから“エシアルル”とか“ユードフェンリル”など、何やら知らない事柄が出てくる。ライカの世界ではごく当たり前に使われているのだろうが、ルードにはつかめるものではない。
 ハーンは腕を組み、唸りながら考えていたようだったが、不意に顔を上げた。
「ルードがアズニール語をしゃべれるようになった今回の件。鍵になっているのは多分、剣だよ」
「剣? ……それって、ハーンの持ってた、あの……」
 とのルードの言葉に、ハーンはうなずいた。
「そうだよ! それについても訊きたかったんだ。化け物を倒そうとあの剣を握った時、物凄い“力”が身体の中に入ってきて、ひきちぎられるかと思ったんだ」
 身振りを交え、ルードが言う。
「そう。あの剣はずっと前に“果ての大地”で見つけたものでね……たしかに尋常ならざる剣だよ。人間では創りようのない凄まじい“力”が込められている。だけど、その反動も恐ろしいものなんだ。人の魂を消し去ってしまいかねないほどにね。でもルードにとっては、剣の与えた衝撃のおかげで、封印のようなものがさらに解けたんだろうね」
 ハーンが答えた。
「フェル・アルム人が失っていた言葉を、俺達は取り戻した、っていうこと?」
「でもなあ。あの剣を手にして大丈夫だったなんて、一体どういうことなんだろうか?」訝るハーン。
「うん? 何が?」ルードが訊き返す。
「さっき言ったように、普通の人間じゃあ耐えられないよ、あの反動には。下手をすれば衝撃で死んでしまうかもしれないからね。だからあの時――化け物を前にして君が剣を握った時、僕は警告したんだけども……」
「じゃあハーンは、あの剣を持っていて平気だったのか?」
 と、ルード。
 ハーンは一瞬言葉に詰まり、返答に躊躇したようだった。
「ふっふっふ。きっと、僕とは相性が悪いんだろうねえ。なんならルード君にあげようか?」
 ハーンは冗談めいて言葉を返した。それを聞いてルードはかぶりを振る。身体が八つ裂きになる体験はもうこりごりだ。
「そうかあ、あの化け物を一刀両断にするくらいだから、よっぽど僕より使いこなせるんじゃないかなあ、なんて思うんだけど……」
 冗談交じりなのだろう、ハーンはさも残念がってみせた。
 ライカはハーンのほうへ向き直る。
「でもハーン、あなたは前からアズニールをしゃべれたんでしょ? なら、どうしてわたしと話してくれなかったのよ?」
 少しすねたようにライカが言った。
「いや……ごめん。でもライカだって僕に会ってからは今まで一言もしゃべってないでしょ?」
「そ、それはそうだけど……」
「まあとにかく」ルードが二人に割って入った。
「お互い不安を抱いていたんだから、しようの無いことじゃないのか? 俺もライカのことを不安に思っていたし、ライカもそうだと思う。でもさ、今はこうやって話し合い、お互い分かるようになったんだ。それでいいじゃないか。それよりさ……」
 と、いったん言葉を切った。
「それよりハーンはなんでこの言葉を――アズニールだっけ? ――しゃべれるんだ?」
「僕も覚醒した身だからさ。奥深い封印が解けたっていうこと。まあ僕の場合は、今回のルード君とはまた違った状況だったんだけどね」
「ふうん……」ルードは唸る。
「それで、ルード、ライカ」
 滅多に聞けない、力強い真摯なハーンの声に二人は顔を彼のほうに向けた。
「知りたいかい? 一連の出来事の真実を……」
「もちろん!」
 ルードとライカは異口同音に言う。強い意志を込めて。
 ハーンはそんな二人の心を読むかのような目でじっと見た。
「――じゃあ、行こうか! 遥けき野の賢者のところへ」
「それは、誰?」とライカが聞き返した。
「ああ、ライカには話してなかったよね。このスティン高原の遙か西には“遥けき野”と呼ばれる荒野があるんだ。人が住むような場所じゃないんだけども、そこに賢者とも呼べる人がたったひとりで住んでる。彼にことの顛末《てんまつ》を話せば真実のいくらかは――いや、全て明らかになるかもしれないな。そして僕達がその後どうすべきなのか。彼なら分かると思う」
「しかしさあハーン、昨晩も言ったけれども、あのへんぴな荒野にそんな大人物がいるなんて知らなかったぜ? あなたはなんで知ってるんだい?」
 ハーンは少し考えるようなそぶりをして答えた。
「……ずうっと昔、大怪我をして死にそうだった僕を助けてくれたのがその人だったんだ。僕が……自分の“力”を知りえたのはその頃で、そのことについても色々教えてくれたんだ。……まあ、いずれにしてもややこしい話はそこに着いてからにしない? 今日も色々あり過ぎたし、ね!」
 彼はいつもの口調で締めくくったが、そこにはルード達の問いかけを拒絶する雰囲気があった。
「そうね、わたしも疲れたし、あなた達はそれ以上でしょ? もう、夜だし……」
 ライカは窓のほうへ歩いていく。涼しくなった高原の風を受け、彼女の銀色の髪がなびく。ライカは窓の手すりに両手をついた。
「夜、か……。知らない場所といっても、こういう自然や人の生活っていうのは、どこでも変わんないものなのね……」
 その言葉は淋しげだった。そうでなくともライカの背中がそう語っていた。
 それを聞いたルードは彼女を温かく迎えいれ、そして彼女のためにも真相を明らかにせねば、とあらためて決意するのだった。そしていずれ彼女をもとの世界に戻す手立てを見つけねばならないだろう。
「そうだ、ハーン」と、ルード。
「その賢者は何ていう名前なんだい?」
「名前、ねえ……」ハーンは一瞬天井を見やる。
「その人は名前を呼ばれるのを嫌がっていて……そう、もっぱら〈帳《とばり》〉と名乗っていたよ」
 帳――カーテン。そして、空間を隔てるもの――。その人物がそう名乗るのに、どんな意味があるのだろうか?
「僕は確信している。真実は〈帳〉のもとにある、とね」

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