『フェル・アルム刻記』 第一部 “遠雷”

§ 第六章 意識の彼方にて

一.

 広大な大地があった。それがどこまで続いているのか定かではない。周囲を覆うものは何一つなく、ただうすぼんやりと霧が立ちこめているのみ。空には太陽と呼べるものはなかったが、やけに明るかった。曇り空の向こうがわに陽の光がある、そんな曖昧《あいまい》な感じだ。
 不思議なことに、空は特定の色を持たず、七色に常に移ろい、大地にほのかにその色を映し出していた。時として、極光《オーロラ》のように妖しく揺らめいたりもする。そんな空から時折舞い降りる小石ほどの透明な水晶は、透明感のある音をたてて空中で砕ける。砂粒ほどの大きさの水晶は、煌めきながら大地にゆっくりと落下していった。
 大地そのものも、実のところ一定ではなかった。今まで山があったところに、今度は森が出現し、次には大河が流れる、といった具合で、世界の様相というのは決して留まることなく、常に変化していた。
 〈幻想的〉という言葉は、この空間を説明するためにあるのかもしれないと思わせるほど、現世《うつしよ》とはかけ離れていた。
 もしかすると、時や、場所という明確な概念が存在しないがために、このような不自然な形態を持ち得ているのかもしれない。だが、この世界に住人が存在するというのなら、彼らにとってこの〈不自然〉こそが〈当然〉なのだろう。

* * *

 その〈意識〉は、今まで聞いたこともないような大地にひとりたたずんでいることを認識した。また〈意識〉そのものが、ルード・テルタージ――今までと変わり無い自分のものである、ということも。
 ルードには、ここがフェル・アルムのどこかでも、ライカの住む“アリューザ・ガルド”でもないことが、何となく分かっていた。
 ルードは自分の身体を触って確かめた。姿かたちこそ旅を続けていた時と同じだが、肌の感触はどこか異質であった。
(ここは……死後の世界? 伝承とかに出てくる、“幽想の界《サダノス》”とか言われるところなのか?)
 次にルードは、自分の最期を思い起こした。自分の負った傷のことより、なるべくルードを安心させようと努めていたハーン。ライカは――自分の軽率な行動を泣きながら悔いていた。しかしライカの働きがなければ、ハーンはまちがいなく疾風にとどめを刺されていたろうし、そのあとで自分達も殺されていた、ということは想像に難くない。
(後悔の気持ちはないさ。だって、ライカを守れたんだから……けど、もう一度彼女に会いたい!)
 ひとりぼっち。ライカや、ハーンはもちろん、ケルンやシャンピオ達友人、村の人々も。この空間に人がいるという気配がまったく無い。
「どうしようかなぁ……」
 ルードがそんなふうに弱気にひとりごちた時。

「……誰?」
「え!?」
 艶のある、大人びた女性の声が背後から聞こえた。ルードは、はっとなって振り向いた。ルードのいるところから十ラクほど離れたところにその女《ひと》は腰掛けていた。
(ライカ?)
 彼女の銀色の髪は、一瞬ライカを連想させた。むろんライカがいるはずもない。よく見れば、腰掛けている彼女の髪は白銀に輝いている。ライカの髪は紫銀だった。何より、あどけなさの残るライカとは違い、大人の女性の顔立ちをしていた。美女、という形容が似合う。
 落ち着いた茶色の服を着た彼女は腰掛けていた。
 しかし、どこに?
 椅子のようなものは座している位置には見あたらないのだ。ルードが訝しがると、突如、周囲の様相はめまぐるしく移り変わりはじめた。
 山、森、海――空間は音もなく瞬時に転移し、多様に変化する。やがて変化はゆっくりとある方向性をとりはじめた。

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二.

 ルードがふと気がつくと、そこは薄明かりの射す、大きな閉ざされた空間となっていた。ルードと、その女性の体勢は変わっていない。ルードは立ち尽くし、女性は――意匠の凝った大きな木の机の向こう側に座していた。聡明そうな彼女の青い双眼がきらりと光る。彼女はルードを興味深そうに値踏みするかのように眺め、言うのだった。
「ようこそ。あなたはここに何をお求め?」
「あ、あなたは一体? ここは……どこなんだ?」
「それを私に問うというのなら、まずはあなた自身のことを先に話すのが順序ではなくて? “バイラル”の子よ。――いえ……不思議ね、あなたは。察するに偶然に迷い込んでしまった様子だけれど。これはどういうこと?」
 思慮深さを連想させるような声色で彼女は語った。
「お……俺はルード・テルタージ。それから俺はバイラルとかいう人の子じゃない。親父はヤール、お袋はリレエっていうんだ。もうずっと前に死んじゃってるけどね……」
 ルードは彼女の持つ、不思議でありながらどこか心地よい雰囲気に戸惑いながらも答えた。
 女性は、くっくっと喉で笑うと穏やかに告げた。
「そういう意味で申したのではありません。バイラルとは、人の種の中で最も多い……そう、あなた達の言うところの人間を指す言葉。当然知ってているかと思っていたのに」
「いや、俺は知らなかったよ。少なくとも、俺の住んでいるフェル・アルムでは使われていない言葉だから。――そうだ! 俺の連れに――ここにはいないけど――ライカって娘がいて、彼女のもといた世界なら、ひょっとしたら知られているのかも」

 ルードの言葉を聞いて、女性の顔色が変わった。
「なんと? フェル・アルムと言ったかしら、今?」
 ルードはうなずく。
「そんな、ありえないことが……。私達でさえあそこには干渉出来なかったというのに――」
 ルードは、彼の最初の質問を訊き返した。
「それより、ここがどこなんだか教えてほしいんだ。ここは、死後の世界なのかい? それと、あなたは誰?」
「いいえ、“幽想の界《サダノス》”ではないわ」
 顔をあげて彼女が言う。
「ここは“次元の狭間”。私はこの“イャオエコの図書館”の司書長を務める、マルディリーンといいます」
 図書館、と聞いて、ルードはあたりを見回した。なるほど、窓からこぼれる明かりを遮るように、重々しい本棚がずらりと林立している。だが、書架がどこまで続いているのか、皆目見当がつかない。それほどこの図書館は大きいのだ。ひょっとすると、限りなど存在しないのかもしれない。
「ここには、世界のありとあらゆる本が置いてあるわ。それはそれは、私でさえ把握しきれないくらいにね。こうしてあなたと語らっている今ですら蔵書は増えているし、書き足されている書が幾つもある。
「今までも、真実を探求する者達がここを訪れたわ。しかしながら、数々の試練を乗り越えてきた人ですら、必ずしも図書館に辿り着けるとは限らない。
「ルード、と言ったわね。あなたのように、偶然に迷い込んできたバイラル、というのは永い年月を経てもはじめてね。それも、あの空間からの来訪者とは……何か運命の導きというものかしら?」

 その時、本棚の並ぶ奥の影のほうから子どもが歩いてきた。従姉のミューティースの幼い頃を何となく連想させる彼女は、一冊の本を抱え込んでいた。少女はルードの前を通り過ぎると、マルディリーンの机の前にとことこ歩いていく。マルディリーンは机の前にでて、少女の目線にしゃがみこむと、本を受け取った。マルディリーンが笑って少女の頭を撫でてやると、彼女ははにかんだ笑いをみせ、どこかへ走り去ってしまった。マルディリーンとルードは、その様子を目で追う。
「あの子は、ここの司書をしている一人なのだけれど」
「え? あんな小さな子が?」
 ルードが驚いている間に、マルディリーンはもとの場所に戻り、ゆったりした椅子に腰掛けた。
「さすが、と言いたいわね。どうやらあなたのことが載っている書を見つけてきたみたいだわ」
 ルードは唖然とした。
「俺のことが、本に書いてあるだって!?」
 にわかに驚くルードを、マルディリーンは制止した。
「大声を立てないで。司書の中には騒音を嫌う者もいるわ。それに、本達も静けさを好むもの。……これは、現在進行中の歴史を記している書物。そう驚く必要は無いわ。あなた方流に言うのならば、なんでもあり、の世界なのよ、ここはね」
 そう言って彼女は本をめくっていく。ルードは、釈然としない感覚を強く抱きながら、それでもこの異次元の感覚に納得せざるを得なかった。

「ふうん……そう……」
 すばやく読み終え、彼女は本をぱさりと閉じた。そして、その蒼眼でルードを見つめる。
「ルード」
「は、はい?」
「あなたとは……またいずれお目にかかることになると思うわ。今はまだその時ではない。だから、今はお帰りなさいな」
「でも、帰れって言われても、帰るところなんてないんだ」
「あら、何故?」
 ルードは肩を落として言った。
「なぜって、俺は死んでしまっているんでしょう? だからさ、もとの世界には戻れないわけで……行くとするなら死者の世界だと思うんだけど?」
 マルディリーンは目を閉じ、かぶりを振った。

「あなたは死んでいないわ。確かに最初に見た時にはあなたの活力は根こそぎ失われていた――そう、まるで死者のごとくにね。でも、死んでいるというのなら、あなたがはじめて立った地、“慧眼《けいがん》のディッセの野”に来るわけがない。罪無き死者の魂は等しく、果ての山々を越えて月に向かい、そして“幽想の界《サダノス》”の門に赴くのよ。それに、あなたはその後、活力をいや増している。私にも信じられないくらい、今では生命力に満ち満ちているわ」
「俺は……死んでいない、というの?」
 ルードは嬉々として言った。確かに、今まで感じたことのないほど、自分が生きている、というのが分かる。生命の力が充実している。
 マルディリーンは言った。
「……どうやら急を告げる事態が起きようとしている。そして、あなたはその鍵を握っているらしいわ」
「俺が、なぜ?」
「分からないわ。私は今から、この歴史書を解読してみます。私が本の中身を把握し、そして、私のほうからフェル・アルムへ干渉出来るようになったら――その時こそこれから起こること、あなたが為すべきことを語りましょう。今の私達の出会いは、まったくの偶発で一時的なもの。私には予期出来なかったこと。だから、あなたの姿もここから消え失せようとしている――」
 美女はそっと微笑んだ。
 と同時にルードの身体が、すっと透き通っていく。それとともに、今までいた情景が消え失せ、白一色になった。多くの本も、マルディリーンも、もはや見えない。
 ルードは、今までどおりの自分の感覚――肉体の感覚が徐々に強まっていくのをその純白のなかで知った。
「では。おそらく近いうちにまた会いましょう」
 マルディリーンの声だけが、反響して聞こえる。
「ちょっと待って! 最後に一つ、訊きたいんだ! あなたはなぜそんなに、俺の考えもしないことを知っているんだ? あなたは――なんなんだ?」
 マルディリーンが、微かに笑ったような気がした。
「そうね……おそらくあなたが考えているとおりの存在なのよ。伝承の中にしかいないと考えていた、そんな存在が本当にいる、ということに混乱するでしょうけどね。――フェル・アルムに戻って、あなたが再び目覚めた時、ここでの出来事は夢であったかのように漠然としているでしょう。頭の中に抽象的なイメージがわいても、それを口から語れない。全てが鮮明になるのは、私との接点が明確になってから。……そう、次に会う時にね――」
 ルードは純白の中、手を伸ばした。マルディリーンをつかまえようとするかのように。それが無駄であると分かっていながら。
 すでに彼の躰は消え失せ、精神のみがそこにあった。だがそれもまた、この神秘的な世界から消え失せようとしている。

 ――そして、空虚。

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三.

 視界に広がる蒼。それは空。
 爽やかなものは、かすかに吹く乾いた風。
 どっしりとしたもの。大地と、肌をくすぐる草の感触。

 ルードは気が付くと、両の眼を見開き空を見つめていた。次に感じたのは身体の感覚。肉体の重みを確かに感じる。
(生きてる……。なんでだ?)
 両手はハーンの剣を握ったままだ。手を剣から離すと、短刀が刺さった胸をさすった。胸には止血のための包帯が巻かれており、血痕がどろりと手に付くものの、傷を負った感じや、痛みが全く感じられない。
 ふと脳裏に、巨大な薄暗い空間と、神秘的な女性の姿が一瞬浮かんだ。だが、今のルードにはそれが何なのか分からなかった。夢での出来事を思い出そうとしても思い出せない、でも閃きのような何かは感じる、という感覚に似ていた。
 ルードは首を横に動かしてみた。

 ライカがいる。彼女は力無く座って顔を伏せたまま、嗚咽をあげている。
 あれからどのくらいの時間が経ったのだろうか。ハーンは? ここからでは彼がどこにいるのか分からない。自分の見えない場所で、やはり悲しんでいるのだろうか?
(でも、俺は生きてる……!)
 突如、ルードは生きていることの喜びに溢れた。充足感、幸福。どんな言葉でも足りないくらい、彼は生きていることを精一杯に感じ取っているのだ。自然と笑みがこぼれる。そうだ、俺が生きていることをライカに知らせなくちゃ。早く彼女の悲しみを取り除いてやらなきゃ!
「ライカ!」
「……え?」
 ライカは涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと上げる。そして、ルードと目があった。
 ライカは目をしばたたき、呆然としている。
「俺は――ルードは生きてるよ。だからもう泣かないでくれ」
「ル……ルード? ルード?」
 彼女の中では今、驚きと喜びとが混ざっているようだ。
 ルードはやおら、立ち上がった。やはり痛みはまるで感じない。むしろ爽快な感すらあった。
「ほら、このとおり大丈夫だ!」
 ハーンの剣を地面に置くと、その手でどん、と胸を叩いた。
「ルードぉ!」
 ライカはそう叫ぶと、また泣き出してしまった。ルードはひざまずき、右手で彼女の手を握り、左手を肩にぽんと置くと、優しく語りかけた。
「なぜ、泣くのさ?」
「だって、だって、……驚いたのと……うれしい! ……うん、嬉しいんだもの……!」
 ライカはしばらく泣いていたが、それが収まると、ルードのほうへ顔を上げた。目は真っ赤に腫れているが、真摯な顔で彼を見つめる。
「……本当に、ルードなのよね? 幽霊じゃないわよねえ?」
「ああ、俺は生き返ったんだ。どうしてだか分かんないけど、でも、今までのことだって分からないことだらけだからさ、こういうことがあってもいいんじゃないか?」
「よかった!」
 そう言うなり、彼女は抱きついてきた。ルードは少し狼狽《ろうばい》したが、それでも彼女をいとおしく受け止めた。ライカの暖かさを全身に感じる。
「よかった……」
「……うん……」
 二人はそれだけ言うと、黙ってしまった。何も言わずとも、二人は十分過ぎるほど、喜びを分かち合ったのだから。

 しばらくして、駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。ルードはそちらのほうへ顔をやる。ハーンだった。ライカは涙を拭いながら、それでもルードから離れようとはしなかった。
 今まで、ハーンは泣き崩れるライカの様子に見かねて彼女から見えないところにいたのだ。そして上衣を脱ぎ捨て、ハーン自身が先ほどの戦闘で負った傷の手当をしていた。胴体に巻かれた包帯が未だ痛々しい。
「……はあ……」
 ハーンが最初にあげた声は、拍子抜けしたものだった。
「ハーン!」ルードは相対するように、快活な声を出した。
「そんな……そんなことが起こるなんて……」
 ハーンは座り込むと、さも考え込んでいるように、指でこめかみを押さえてみせた。
「ほら、俺は無事なんだよ。傷もなくなったみたいで……。まるで快調なんだ」
 どん、と胸を叩いてルードは笑う。だが、ハーンは生返事をしながら、ルードの脇に横たえてある剣を拾い上げた。
「……とにかく、何事もなかったかようで、よかったよねえ」
 ハーンはそう言って笑ったが、すぐまた思い詰めた表情になって、剣をじっと見つめた。
 ルードには、ハーンの今の感情をくみ取れなかった。いつもどおりのハーンなら、間違いなく大喜びするはずなのに。
 ハーンは、半ば放心しながら剣を見つめていたようだが、ややあってしんみりと言った。
「本当によかったよ。……でもごめん。……君らを守り抜けなかった。そりゃあ、こうしてルードが生きてて、……万事がいい方向に収まったからよかったものの、僕にとっては取り返しのつかない失敗だったから……本当にごめん、僕自身、自分に奢っていたのかもしれない。自分の力にね。
「今日は早いけど、ここで休もう。色々あって疲れたよ……。ルードが生きていてくれたっていうのが何より嬉しいよ」
「短剣が刺さった時のことを思い起こすとぞっとするさ。でも今は傷一つないし、かえって快調なんだぜ?」
「え? 傷一つないだって?!」
 形相を変えてハーンが問いただす。
 「ちょっと見せてごらん……ふぅん、本当だ……」
 ルードが胸の包帯を解くと、ハーンとライカは、傷があっただろう箇所をまじまじと見つめた。
「傷が……ないなんて……」
 ライカはそう言うと、無造作に置いてあった件《くだん》の短刀をかざしてみた。刃先には血痕がこびりついたままとなっている。ハーンは今し方取り去った包帯をじっと見つめていた。彼の手は、包帯から滲むねっとりとした血で汚されてしまった。
 ルード自身もおかしいと思った。あれだけ血を吹き出していた胸元は、傷一つないのだから。まるで剣を胸に受けていなかったか、もしくは傷が完全に塞がってしまったかのような――。
「どうしたのさ?」
 訝っているハーンに、ルードは尋ねた。
「……ううん、……そう、そうなのか?」
 ハーンの返事は的を射たものではなかった。彼は立ち上がると再び剣に目をやった。思い詰めた表情で剣を見る、そんなハーンの仕草がルードには印象的に感じられた。

 ルード達が、いつもどおりの彼らになるのにはしばらく時間がかかった。だが、野営するに相応しい場所を見つけだし、キャンプの準備のためにせわしなく体を動かしているうちに、徐々に普段の彼らに戻ってきて、天幕を張り終える夕刻頃には、変わらない笑い声が聞こえるようになった。

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四.

 夜も更けた頃。ルードはふと、目が覚めてしまった。
 彼の身体は長旅の疲れすら忘れているかのようにすこぶる快調で、みじんの気だるさもない。
 右隣で寝ているライカの寝息が静かに、正確に聞こえてきた。眠る支度が整った時、最初に眠気を訴えたのは彼女だった。ライカは床につくと、まもなく眠ってしまった。泣き疲れたのと、追われる身という立場ではなくなった開放感。それに、癒やしきれない長旅の疲れが加わったのだ。無理もない。
 ハーンは二人を守るという立場上、ルードより先に寝るわけにはいかなかったものの、彼も起きているのがつらそうだった。ルードはそれを察し、疲れてもいないのにさっさと横になった。案の定、ハーンはしばらくしてから床について、眠りに入ってしまった。
 完全に目が冴えてしまったルードは、上半身だけ起こして目の前の闇を見つめていた。次第に目が慣れていくのを感じながら、彼は考えていた。
(やっぱり変だ。ハーンが不思議がるのも無理ないよな。確かに俺は短刀を胸に受けて倒れたんだから。……こうして生きているのさえ大したもんなのにさ、傷一つない上に、こんなに身体の調子がいいなんて……)
 一瞬、彼の脳裏に薄暗い空間と、女性の姿が浮かび上がるが、ルードが認識する前に消え失せてしまった。

「っ……!」
 ルードに背中を向けて寝ていたハーンが、言葉にならない声を漏らした。傷跡が痛むのだろう。ハーンは仰向けに姿勢を変えると、目を開いた。
「あ、起きちゃったのか? ハーン」
 すうすうと寝息をたてて眠っているライカを確認すると、ルードは小さな声でハーンに話しかけた。
「実を言うとさっきから眠ってたわけじゃないんだ。まあ、疲れにまかせて一刻ほど寝ちゃったけどねえ」
 寝たままの姿勢で、小声でハーンが返す。
「天幕を張っている時は、いつも周囲に“護りの術”をかけてるんで外敵から襲われることはないんだけど……それでは対処出来ないこともあるだろうから、起きていたのさ」
「ふうん」
「それもあるんだけど……さすがにちょっと……その、痛くてねえ……」
 ハーンは決まりの悪そうな顔をする。
「大丈夫なのか?」
「ま、所詮は人間の身体だからねぇ……」
 そう言ってハーンは、深く溜息をついた。しかしルードには、ハーンの何気ない一言が妙に気にかかった。
「人間の……身体か……。なあ、ハーン、俺はどこか変わっちゃったのかな?」
 きわめて真剣に、ハーンに問いかけた。
「考えてもみてくれよ。あれだけ死にかけてた俺が、こんなにぴんぴんしてるんだぜ? 俺は一体……人間なのか?」
 ルードは感極まって胸の奥がつかえそうになりながら、それでも何とか自分の思うところを口にした。
「あ、今僕の言ったこと? 『所詮は人間の身体だ』って。そんな意味で言ったんじゃないさ」
「でも!」
 大声を出したルードは、ちらとライカの寝顔を確かめた。
 ハーンはむくりと上半身を起こす。そしてライカが静かに眠っているのを確認するとルードのほうに向き直った。そして肩をすくめる。
「……やれやれ、こんなことになるなんて、考えも及ばなかったなぁ」
「どういう意味だよ?」
 ハーンはやや間をおくと、真摯な口調で語りはじめた。

「……君の家で言ったように、僕の剣は今や、君に属するものなのかもしれない。僕が“果ての大地”で見つけたあの剣――ガザ・ルイアートというのだけども――のことを、『尋常ならざる剣だ』って言ったのを覚えているかな。君は先の化け物との戦いであれを握り、剣の持つ圧倒的な“力”に耐えぬいた。その結果、心の奥底の封印が解け、ライカと言葉を交わせるようになったんだよね。多分、剣がルードを認めたから、本来の言葉を取り戻したんだろうね。
「今の僕達は、これまでとは全く違う、考えもつかない事象の中にいる。ガザ・ルイアートも、それを感じていたんだろうね。だからこそ、一連の流れのなかで核たるべき、ルードの覚醒に力を貸したんだよ」
「ちょっと待ってくれよ、ハーンの剣は……その、心を持ってるってこと?」
「うーん……〈心〉って言えるほどじゃあないんだろうけど。さすがに対話なんか出来ないからね。とてつもない“力”を秘めている物っていうのは往々にして、その所有者に強大な力を与える反面、大いなる災いとなることもあるんだ。あの剣はルードを選んだ。そして今日、君が命を落としかけた時、あれはまた発動したんだ。“主人”を救うためにね。
「ガザ・ルイアートっていうのは、遠い昔の言葉で“土の神《ルイアートス》の腕”って意味を持つらしい。大地を司どる名のとおり、あの剣はルードの身体に大地から吸い上げた精気を流入させ、君を救ったわけだよ」
「それじゃあ俺は、これからどうすりゃいいんだろう? あの剣を持って――」
「そうだね。あの剣は君のものだ。だから、持ち主として恥ずかしくないくらいの剣の腕前は必要なんじゃないのかな?」
「え?」
 思わず大声を上げてしまったルードは、ちらりとライカを見やる。すうすうと寝入っており、起きてはいない。
「俺が剣を握って……って、つまり戦士になれってことか?」
 ルードは、刀身にべったりと付いた疾風の朱を思い出していた。ハーンが刺客を倒した。正しくは屠ったのだ。
 次にルードの脳裏によみがえったのは、十三年前の記憶。村を壊滅に追いやった、壮絶な戦いの記憶だった。忘れることの出来ない精神の傷跡を間近に感じてしまったルードは、膝を抱え込んでうつむいた。

 ライカの正確な寝息だけが確かに聞こえる。ルードとハーンは、お互いそのままの姿勢を崩さず、しばし沈黙していた。
「ハーン。無理だよ。俺は、人を殺――傷つけることなんて、出来ないよ」
 ルードは思い出した忌まわしい記憶を、何とかしまい込もうとした。しかし悲しみは隠し通せず、その声は震えていた。
「……ルード君」ハーンはやんわりと声を出した。
「君が剣を握るのをためらう気持ちはもちろん分かる。……でもね、これからのことを考えると、そうも言ってられないのは分かるだろう?」
 ルードはうなずいた。
「現にルードは、これまで二回、戦いに参加しているんだ。これからもそういう事態がないとは言えない。いいや、むしろ増える一方だろうね。そんな時でも、僕に頼ることなく、君が君自身を、そして、ライカを守り通せるなら、進むべき方向はより明るくなる、と思うんだ」
「守る……ライカを……」
「そう、何も正面切って戦え、とまでは言わない。もちろん、僕みたいに、多くの血の匂いを身体につけろ、ともね。守るんだよ。君と、君が守るべきライカを。ガザ・ルイアートの力と、君自身の力でね! それに、戦う相手は人間とは限らないよ。ルシェン街道で戦った、化け物を覚えてるだろう? ああいった異形の魔物とまた遭遇することだって十分考えられるんだ」
 ハーンの言葉を聞いて、ルードは決意をもってうなずいた。
「そう。『運命の行き着く先を見てやる』って、俺は言ったもんな。ライカを守るために俺は……あの剣を握るよ……!」
「よく言ってくれたね、ルード」ハーンはにんまりと笑う。
「僕にとっちゃあ、〈帳〉のところに着いて、やることが増えたわけだ。〈帳〉の話を聞くことと、君に剣技を教えることとね!」
 お互い目が慣れた暗闇の中、ルードも笑い返す。先ほどまでの負の感情は消え失せ、晴れやかな気持ちで満たされた。と同時に、睡魔が襲ってきた。

「俺の怪我が剣の力で治ったって言うんなら、ハーンの怪我だって治るはずじゃあないのか?」
 眠気を押さえて、ルードが訊いた。
「僕は『すばらしい切れ味をみせる剣』としかあれを使いこなせないんだよ。相性が悪いせいか、ね。剣自身は僕に何の影響も及ぼさないんだ。災いも、そして助けも」
 どこかしら寂しそうにして、ハーンは答えた。そして今度はハーンが、傷の痛みに顔をしかめながら立ち上がった。
「どうしたのさ?」
 毛布をかぶったルードはいかにも眠そうに言った。
「ああ、寝てていいよ。ちょっと外を見回ってくるからさ。愛するライカと仲良くお休み!」
「な……馬鹿言うなよな!」
 ハーンは痛む脇腹を手で押さえながらも、軽く揶揄すと、予備の短剣を手に外へと出ていった。ルードは、さきのハーンの言葉を反芻しつつ、ライカの寝顔を見つめていた。
(剣を握る……。そう、守ってみせるよ。そして……ライカ、君との約束も果たすから……)
 ルードは迫りくる睡魔に勝てず、重いまぶたを閉じた。

* * *

「うん。“護り”も万全なようだし、周囲も大丈夫だね」
 ハーンはしばらく、見張りをかねてあたりを散策していたが、それに飽きたのか、寝場所に引き込むことに決めた。
「……あの剣はやっぱりガザ・ルイアートだったんだなあ。どおりで僕が持ってたらはなにも応答しないわけだよ。聖剣とはよく言ったもんだ。このこと、〈帳〉はなんて思うのかね!」
 軽い口調でそうひとりごちると、ハーンは空を見上げた。

 そしてすぐ。
 彼の表情は全く真摯なものに変貌した。
 ルード達の前では、滅多にみせることのない表情。
「星が……ない……」
 雲一つない天上の世界は、何も映し出していなかった。空を覆うべき星達は存在せず、あるのはただ、空虚な暗黒のみ。
 狂おしいまでの漆黒のもと、ハーンはただ立ちつくすしかなかった。

 虚ろな空を映し出していたのはその晩のみ。翌日からは何ごともなかったかのように、空は満天に星の姿を映した。
 ハーンがその星空の下で思いに耽る姿をルードは目撃するが、浮かない顔をした彼が、何に思いを馳せているのか、ルードには知るすべがなかったのである。

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