『フェル・アルム刻記』 第二部 “濁流”

§ 第一章 “力”を求める者

一.

 漆黒の中、ハーンは馬を駆っていた。すでに夜も更け、“刻無き時”に入ろうかというのに夜空に星が瞬くことはない。
 星なき暗黒の空が、ハーンを不安に陥れる。漆黒の向こうにあるのは、“混沌”か、それとも無か。いずれにせよ、それは破滅を予感させるものであることに変わりはなかった。
 夜空が消えてすでに五夜目となる。さすがのハーンも、安穏としたひとり言をつぶやいていられるほどの余裕はなく、朝早くから深夜まで、ただ馬を走らせるのみだった。このままルシェン街道を行けば、夜明け前にはクロンの宿りに着けるはずである。疲労のため半ば朦朧としていたハーンだが、クロンの宿りの暖かさのことを思うと嬉しかった。

 そんな時。
 ハーンは、不意に馬の歩みを止めた。
(この先に何かいる!)
 戦士の直感で、ハーンは悟った。そして目を静かに閉じると、術を発動させるため二言三言つぶやいた。
 いくら町が近くにあるといっても、こんな深夜に移動するのは、何らかの事情を持った者であるとしか考えられない。夜逃げ、野盗、あるいは疾風。もしくは“魔物”――。
 “遠目の術”が完成するとハーンは目を開け、まっすぐ続く道の、さらに先を見据えた。
 小さい何かが、ゆっくりとこちらのほうに歩いてきている。ハーンは精神を集中させ、それが何であるか見きわめようとした。
「え……? ……子供?」
 彼が見たのは背もまだ伸びきっていない、ひとりの少年だった。おぼつかない足取りでとぼとぼ歩き、顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。
「迷子……かなぁ?」
 ハーンは馬の歩みを進めた。

 一、二フィーレも行くと、肉眼で分かるようになった。やはり子供だ。なぜこんな夜にひとりで? とハーンは訝ったが、それでも子供が警戒しないよう馬を下り、歩いていった。
[どうしたんだい、こんな夜に?]
 ハーンは声をかけるが、その子供は何やらぶつぶつ言っているだけである。ハーンがいることに気付きもしない。数ラクまで近づいた時、ハーンは再び声をかけた。
[坊や?]
[何だよ! オレにはディエルってぇ名前があるんだ! 坊やはないだろうに!?]
 ディエルと名乗った子供は枯れ果てた声で喚いたが、次の瞬間はっとなってハーンを見た。
[……ああ!]
 ディエルと名乗った子供は、驚いたようにそう言うと、真っ赤に泣きはらした目をごしごしとこすって、ハーンの顔をしばし見上げていた。
[……あのう? どうしたの?]
 ハーンは困りながらも中腰になり、少年と目線を合わせた。
[……ひとだあ……やっと……人に会えたぁ]
 言うなり、ディエルの目から涙があふれ、ディエルはハーンに飛びついた。
[わーーん! さびしかったよぉーー!]
 後はただ泣きじゃくるのみ。ハーンも、ディエルの頭を撫でながらとりあえずこの子をなだめるしかなかった。
 この子供から邪念はまったく感じられない。ハーンは一瞬でもこの子を疑った自分を恥じたが、また同時に、人に会い孤独から解放されたことを喜んでいた。

[……で、ディエル君。なんで君はこんなところを歩いてたんだい?]
 ようやく泣きやんだディエルに、ハーンは話しかけた。
[……くん、なんて付けないでくれ。道に迷わされたんだい]
 ディエルはぶっきらぼうに答えた。泣きじゃくったことが恥ずかしくなったのか、ハーンからは少し距離を置いて座っている。顔を合わせようともしない。
[そうかぁ……]
 ハーンも、子供のあやし方には馴れておらず、そう言って鼻の頭をかいた。
[ねえ、君のお母さんはどっち行ったんだい?]
[あのね、オレは迷子なんかじゃないからな! ただ……そのう、どこ行きゃいいんだか分かんなくて]
[うーん、……それを迷子って言うんじゃないのかなぁ?]
 ディエルは、うっと唸ると、ばつが悪そうに顔を背けた。
[……とにかく! 疲れてんだよ、近くの町までどのくらいかかるんだよ?]
[え? だってさ、クロンから来たんでしょ?]
[クロン? 何それ?]
 話がかみ合わないので、お互いの顔を見合わせる二人。
[クロン……て、町の名前だよ。クロンの宿り。ほら、君がやって来た方向にずーっと歩くと、行き着くんだけどな]
[え? オレが歩いてきたほうに町があったの!?]
 ディエルは、自分が来た道を振り返った。
[ひょっとして、オレ……逆方向に歩いてた?]
 ディエルが訊く。
[うん。このまま、まーっすぐ行けばクロンの宿り。馬だと朝前には着くよ]
 ハーンが答える。
[でもさ、君どっから来たんだい?]
 ディエルは口を真一文字に結び、わなわなと肩を震わせている。
[……ま、言いたくないんならいいけど、さ]
 ハーンはやれやれ、といった面もちで、ディエルに話を持ちかけることにした。
[じゃあ一緒に行――]
[ジルのやつ! あいつのせいで森から這い出すのに二日! 道をとぼとぼ歩いて三日! 送る場所間違えた上に、まる五日もオレを歩かせやがった! しかも、無駄足ときたもんだ! あいつ、今度会ったらただじゃすまさねえからなぁ!!]
 喚きちらすわ地団駄を踏むわ。沸点に達したディエルの怒りは当分収まりそうにない。
[じゃあ一緒に行こうよ]
 と言おうとしたハーンの言葉は、かき消されてしまった。
 これがハーンとディエルの出会いであった。

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二.

 そして朝が来る。
 漆黒の闇は去り、陽の光によって世界は明るく彩られていく。だがハーンにとって、それは仮初めの平和でしかない。
(だけれども陽の光は、闇に同調する漆黒剣と、剣の“力”に怯える僕自身に、ひとときの安らぎを与えるのもまた事実……か)
 だんだんと朱色に染まっていく東方、スティン山地の稜線を見ながら、ハーンは思った。
(レヒン・ティルルは確かに大した剣だ。でも、僕も剣の闇の部分に取り込まれないようにしないと。そんなことはもうないだろうけど、用心はしなくちゃ。〈帳〉は、僕のことも世界の希望の一部だと思ってくれているんだから)

* * *

「ふう……やっとだよ」
 馬を歩ませながらハーンは言った。東の空が明るくなるにつれ、とりあえずの安息の場所、クロンの宿りの門がぼんやりと見えてきた。
「この子をどうしたもんかね……。とりあえずあの親父さんのとこまで連れてくしかないか」
 ハーンは、馬の首筋にしがみつくようになって寝ているディエルを見た。結局、ディエルがどこから来て、なぜ迷子になっていたのかは聞き出せずにいた。
(ま、いいけどねぇ。ごく普通の男の子だからなぁ。しかしなんというか……疲れる子だよ……)
 手綱を引きつつハーンは苦笑した。

[おおい、ハーンじゃないかあ?]
 門に辿り着いたハーンに、衛兵のひとりが声をかけてきた。
[キニーかい? 久しぶりだね、朝早くからごくろうさま]
 ハーンが手を挙げて答える。
[こんなとこで会うなんて。戦士稼業はどうしたんだい?]
 キニーは、一年前に知り合った傭兵仲間だった。
[ああ、……実は俺の親父が一ヶ月前にぽっくり逝っちまってさ。お袋ひとりだと大変だろ? だからお袋とここに住みつくことに決めたのさ。そういうことで傭兵はやめだ。まあ、いい嫁さんでも探すさ]
 キニーは言った。
[ところで、その子はハーンのかい?]
[だとしたら、僕は声も変わらないころから浮き名を流してたことになるよね]
 ハーンは笑った。
[……迷子らしいんだ。クロンで、ここ数日で行方不明になった子っているかい?]
[いや、全然。……なあ、知ってるか?]
 キニーは同僚達に声をかけたが、彼もそんな話は聞いてないとのことだった。
[別にそんな話は聞かないし、野盗が出没したっていうのもないな。どこから来たんだろうな?]
[それは僕が訊きたいよ]ハーンは苦笑した。
 と、馬のたてがみがむず痒くなったのか、二、三回ディエルがくしゃみをした。
[ああ、とりあえず入んなよ。しばらくここにいるのかい?]
 キニーが門を開ける。
[いや、一日もすれば出ちゃうつもりさ]
[そうか、気を付けてな、最近得体の知れない化けもんを見た、とかいうのを聞くからな]
[それは……どこら辺で?]
 ハーンの顔つきが真摯なものに変わる。
[何人かの旅商の話さ。スティンの山道とか、カラファーからダシュニーに向かう山道とかで、でかくて真っ黒な奴を見たっていうんだ……。ま、おおかたそいつら、熊と見間違えたんだろうけどよ]
[……キニー。君の言っている熊っていうのは、間違いなく強いよ。万が一に出会ってしまったら、心してかからないと――死を招く]
[え? ああ、分かったよ。じゃあな]
 ハーンは、キニーとにこやかに別れながらも、内心、確信を持っていた。
(“混沌”の魔物が、勢力を増している。急がないと!)
(しかし……)と、ディエルを見る。
「この子……どうしようかねぇ……」
 嘆息。

* * *

 〈緑の浜〉。赤煉瓦《れんが》のこじんまりとした宿の厨房では、朝もまだ早いというのにひと騒ぎになっていた。
[ぷぅー……。ごちそうさん!]
 ディエルは、二人前の食事をぺろりとたいらげ、満足そうに言った。
 ハーンがディエルと一緒にやって来たのは、前一刻を告げる鐘が鳴ってそう経たない時だった。折しも朝食の仕込みをしていた夫人は、ハーンから事情を聞くとすぐに寝所へ向かった。夫人に追い立てられるようにして、宿の主人ナスタデンが目をこすりながら現れた。
[ハーンの頼みだったらしかたねえな。俺もかみさんが怖いからよ……]
 などと言いながら、風呂釜の準備をしに行った。ハーンも湯を沸かすやら、朝食の準備をするやらでこき使われたが。
[ディエル……。もういいかい?]
 緊張の糸が解けて、今までの疲れがどっと出てしまったハーンは、生あくびをしながら訊いた。
[うん! 兄ちゃん、どうもありがとうな]
 満足するまで食べて元気を取り戻したディエルは、恩人であるハーンに心を開き、〈兄ちゃん〉と呼ぶようになっていた。
[まったくよ……ハーンも朝から騒がせるなよな]
 そう言いつつ、ナスタデンの顔はほころんでいる。
[悪いね親父さん。ここしか頼める場所がないと思ったんだ]
[なに、気にすんな。俺も久しぶりに子供の世話が出来たんでよかったよ]

[ねえ、ディエル]
 ほかの客へ食事を運ぶのがひととおりすんで、時間が空いたナスタデン夫人が訊いてきた。
[あなたどこから来たの?]
[うーん……]
 ディエルは腕組みをして唸った。
[とりあえず、ずうっと南、かな。王様のお城みたいなのがある、でっかいところ]
[お城っていうと……アヴィザノかしらね? あんなところからひとりで来たのかい?!]
[う……ん。まあね]ディエルは言葉を濁す。
[じゃあ僕はなぜ、クロンに行く道で出会ったんだろう?]
 ハーンが言った。
[アヴィザノっていったら、ディエルが歩いてきた道と、まるで正反対だからね]
[まあ、勝手に連れてこられたっていうか……]
 ディエルは言った。
[人さらい?]
 一同、声を揃えて言った。
[うーん、似たようなもんかな……あ、でも心配しないでくれよ。オレは全然大丈夫だったんだから!]
 ディエルは両手を振り、元気そうに笑って見せた。
[でも、親御さんは心配じゃないかねえ?]と、ナスタデン夫人が心底心配そうな面もちで訊いてくる。
[親はいないんだ。弟がお城の街にいるんだけどさ。……すっごく、会いたいんだ。あいつには!]
 強い感情を込めて、ディエルは言った。もっとも、彼が会いたいわけは、転移にまたしても失敗したジルをどつきでもしないと気が収まらないからであるが。
[かわいそうにねえ……でも、安心おし]
 ナスタデン夫妻はそろってハーンの顔を見た。
[この兄ちゃんが、連れてってくれるよ]
[僕が?]自分を指さして、素っ頓狂な声をあげるハーン。
[そりゃあ、これからスティンのほうには行くけどさぁ……]
[じゃあ、話は早いじゃねえか! そこからちょっと足を延ばしてくれりゃいいんだから]
[こんなことあんたしか頼めないんだよ。ねえ、お願いだよ]
[うーん……]
 夫妻の頼みごとを聞き、ハーンは頭をぼりぼりと掻く。
[………分かったよ。分かりました。アヴィザノまで連れてきましょう]
[ほんとかい、ありがとう兄ちゃん!]
[うん。支度が出来たら行こうか、ディエル]
[おいおい。まさかもう行くのか?]と、ナスタデン。
[うん。僕の旅も急がないといけないからね]
[でも、急ぐにしてもハーン]
 夫人が声をかけた。
[あんた、今のままじゃあ、行き倒れになるよ? それにこの子も。少し休んでいきなよ]
 ハーンは自分が焦っているのを知っている。世界に変化が如実に現れ始めた今となっては、時間こそがもっとも貴重なものだから。だが、自分の疲労が極致に達していることも分かっていた。このままではスティン高原に辿り着くまで体が保つかどうか怪しい。ハーンは体を休めることに決めた。
 今夜宿泊する客は普段より幾分か多いようだ。ダシュニーへと向かう商人の一団が泊まるらしく、あいにくディエルの分まで空きがなかったため、二人は一緒の部屋で休むことになった。

 夜も更け。ディエルはふと目を覚ました。ハーンは隣のベッドで、ぐっすりと眠りこけている。
「ふう……。まさかこんなことになるなんて、思いもしなかったぜ。全てはジルのせいだ」
 ディエルはひそひそと言った。
「オレの探していた“力”を持って帰るのは無理だな……。あとはジルのいる町の“力”に頼るか……。悔しいけども、オレのほうはお手上げだな……ジルのせいで! オレの探す “剣”が見つかればなあ」
 ディエルは暗がりの部屋を見渡す。ふと、ハーンの荷物に目がとまった。ひと振りの剣があるのに気付いたのだ。漆黒の雄飛、レヒン・ティルルである。
 ディエルは静かにベッドから抜け出すと、その剣を手にしてみた。背の伸びきっていない少年が持つにはいささか重い。
(こいつはたいしたもんだ! オレが感じたあの“剣”に比べると力がないけど、それでもかなりの“力”が込められているな)
 ディエルは目を閉じ、神経を剣に集中させる。
(『闇』に属する剣か。でもこれを使いこなすなんて、この兄ちゃん、なにもんなんだ? どれ、兄ちゃんのことをちょっと調べてやるか……)
 ディエルはベッドに戻るとあぐらをかき、手を組んで神経を集中させた。ディエルの身体が、淡い緑色の光に包まれる。何かしらの術を発動させているのは確かだ。
 そして、瞬時に光はディエルの身体の奥に消え去った
(へえ……たいした“力”だよ。これはびっくり、だね……)
 ディエルは、ハーンを見てにやりと笑った。
(予想外のことになったな……でも“力”は手に入りそうだ)

 ディエルは窓かけの隙間から外の景色を見た。
 人々は寝静まり、民家には一つの灯りもともっていない。そして空。穏やかな銀の光で世界を包むはずの月の光も、夜空を彩るはずの星座も何一つ無く、ただ暗黒が支配している。
(この世界は終わりかけてる……。そう長く保ちそうにないな。“力”を手に入れたら、ジルと一緒にとっととおさらばしないと、こっちまで危なくなる)

 ディエル、そして彼の双子の弟ジル。彼らはフェル・アルムの民でも、アリューザ・ガルドの人間でもない。ましてや、アリューザ・ガルドを見守る神“ディトゥア神族”でもないのだ。どれにも属さずに、“力”を求める者達。彼らは――。

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三.

「うわあ!」
 ハーンの上げた奇声で、ディエルは夢の中から呼び起こされてしまった。寝ぼけ眼で横を見ると、『やってしまった』とでも言いたげな、苦い顔をしたハーンがいた。
[……どうしたんだよ?]
 寝ぼけた目をこすり、ディエルも起きた。窓から射し込む日の光は暖かく、風を伝って食べ物のいい匂いがしてくる。
[もう昼みたいだな。おはよう、兄ちゃん]
[そうだよ……どうやら丸一日眠っちゃったみたいだ]
 ハーンは手を顔に当てる。まいったな。そんな感情がありありと出ている。ハーンとしては二、三刻ほど休んですぐに旅立つ予定だった。寝こけるなど思いもしなかったのだ。
[無理ないよ。兄ちゃん、むちゃくちゃ疲れてたし]
 あっけらかんとした口調で言うディエル。
[でも、いつまでもこうもしちゃいられない! ……あれ……僕の服は……?]
 ハーンは、がばっと起き上がると、自分の服を探した。
[ああ、兄ちゃんの服なら、おばさんが洗って、ほら、そこにかけてあるよ]
 ディエルは戸口におかれた籠《かご》を指さした。
[おかみさんが? いつ頃来たの?]
 ハーンは、籠から真っ白な服を取り出すと、着替え始めた。
[朝方だったかな? オレも服を探してたらさ、おばさんに出会って、オレのと、兄ちゃんのと、服を渡されたんだ]
[ディエルは朝きちんと起きたのかい?]
[ああ、でも兄ちゃんが寝てたから、また寝ちゃったけど]
[……その時、起こしてくれりゃよかったのになあ……]
 ハーンは悪態を付きながらも着替え終わり、ディエルにも着替えるよう催促した。
[丸一日ここで過ごしちゃったんだ。早く行かないと!]
 ハーンと、ナスタデン夫妻に礼を言うと、ディエルを連れてあわただしくクロンの宿りをあとにしていった。

 昼下がりの太陽の光は、奇妙な組み合わせとなった二人の旅人を暖かく包む。クロンを出てからというもの、話すきっかけがないのか、二人は黙ったままだった。
 ハーンは馬を歩ませながら、ルード、ライカとともに高原を目指した、二ヶ月ほど前の出来事を思い出していた。
 あの頃のことは、今起こりつつある全ての出来事の始まりでしかなかった。ルードはもちろん、ハーンですら、事態がここまで大きくなるとは思いもしなかった。
 そしてハーンの想いは、さらに過去に遡っていく。
 ハーンは無性に懐かしかった。シャンピオとともに、スティンの高原を訪れた、あの春の始まりが。ニーヴルとしての過去を忘れ、タール弾きとして各地を巡り、時として旅商の護衛となっていた、かつての自分が。
 だが、もうあの頃には戻れないのだ。
 きりりと、胸の奥が痛くなる。ハーンにとっての平穏は、すさまじい濁流の向こう側にしか存在しないのだから。
(……でもそれはルードやライカ、〈帳〉もおんなじなんだ)
 自分とともに歩いていこうとする仲間がいる。それがハーンの支えであった。運命を一人で握ることの怖さを、ハーンは知っているのだ。自分の奥底に眠る、遙か昔の悲しい“知識”によって。
 ハーンは左手で自分の腰のあたりを探った。鞘に収められるは、漆黒剣。鞘を通してすら感じる、かすかな闇の波動。その波動はハーンに安らぎを与えるとともに、戒めをも与える。〈帳〉が自分にこの剣を託した意味を忘れてはいけない。

[どうしたんだよ? へんに落ち込んでない、兄ちゃん?]
 馬の首につかまっているディエルが振り返って言った。
[いやぁ、別に。山道に入る前で野営しないといけないと思ってね。もうちょっと僕らが早く出ていたら、山道のちょうどいいところでキャンプを張れるんだけど、まあ過ぎたことを言っても仕方ないかな?]
 ハーンは平静を装って答えた。
[……兄ちゃん、戦士なの? すごい剣持ってるじゃない]
 ハーンが腰に下げている剣を見据えてディエルは言った。
[まあ、そうだね……戦士といえばそうなのかな? タール弾きでもあるんだけどねえ]
 努めて得意げに言うハーン。他人と話していると、鬱屈しがちの感情も少しは晴れる。
[タールって?]
[僕の持ってる楽器だよ。これがないと、僕は食べていけないんだ。剣を握ることが、そうそうあるわけじゃないしね]
[へえ。じゃあ、兄ちゃんの演奏、聴かせておくれよ。オレ、そういうの好きなんだ!]
[分かった。でも少し我慢してくれないかい? そうだな、二刻もしたら野営地に着くから、そうしたら弾いてあげるよ]
 それを聞いてディエルはうんうんと、力強くうなずいた。
[きっとだよ!]
[分かったよ。僕も路銀が乏しくってね。よし、今日はたっぷり弾いて、道行く人から稼がせてもらおう!]
 ハーンとディエルは顔を合わせ、にいっと笑いあった。
[そんでさ、兄ちゃんの剣なんだけど……すごそうだね]
 ディエルは話を元に戻そうとした。
[ああ、こいつかい?]ハーンは剣を鞘からすらりと抜いた。
[すげえ……真っ黒だ]
 ディエルは食い入るように刀身を見つめた。陽の光があたりを包んですら、この刀身だけは光ることがないのだ。
[なるべくなら、使わずにすませたいもんだけどね、こんな物騒なものは、さ]
 ハーンは剣をおさめた。

 それからというもの、ハーンはディエルに色々話して聞かせた。クロンの宿りに住むナスタデン夫妻のことや、水の街サラムレの剣技会での珍事件。それに、湖畔の街カラファーのうまい食べ物などなど。ディエルも興味深そうに聞き入り、おかしな話にはお互い笑いあった。だが、ハーンやディエルの個人的な話題についてはまったく触れられなかった。
 陽が傾きはじめる頃、二人はスティン山道に入る前の野営地に辿り着いた。
 キャンプの準備をひととおり終えると、ハーンは荷袋の中からタールをとりだし、弦を一本一本張っていく。

 その様子を見ていた一人の老人がハーンに声をかけてきた。自分もタール弾きなので、一緒に弾いて楽しまないか、と言うのだ。ハーンは申し出を快く受け入れ、調弦をすますと、じゃらん、と弦をかき鳴らした。
 二人はそれを合図に、ともにタールを弾き始めた。
 最初はディエルだけが聴き入っていたが、徐々に人が集まりだし、とうとう、今日野営を行う全ての人(二十人程度)が、ハーンと老人の紡ぐ調べを聴くために集まってきた。
 老人の腕前は、『十二本の指を持つ』と賞されるハーンに比べればいささか劣りはするものの、タール弾きを生業《なりわい》とするには十二分であったし、暖かみのある音色は、印象深いものだった。
 一刻ほど後、二人が演奏をやめると周囲の人々は拍手喝采、やんややんや騒ぎ出した。おひねりを集めるハーンと老人は、旅商の一行と食事をともにすることになり、そこでも酒を交わしながら、踊りの曲をいくつも披露した。曲にあわせ、踊りに興ずる人々。その中にはディエルの姿もあった。

 楽しかった宴会もお開きとなり、ハーンは老人と握手を交わした。
[ありがとう。こうも楽しくタールを弾けたのは本当に久しぶりですよ]
 それを聞いて、老人はかっかっと笑いながら言った。
[それはよかった。わしも楽しかったわい。こうやって弾いていると、嫌なことなど吹き飛んでしまうじゃろう?]
[そうですねえ]ハーンは笑いながら相づちを打った。
[なあ若いの。おぬし、悩んでいることがあるな?]
 老人は目を細めて訊いてきた。ハーンはどきりとした。老人の指摘があまりにも的確だったからだ。
[分かりますか?]
[分かるとも。だてに長年タールを弾いてないわい。その音から、弾いてる人間の想いが分かるってもんじゃよ]
 ハーンは苦笑いをした。
[じゃが]老人はにっと笑った。[じゃがな、大丈夫じゃ。人間と同じく、世界そのものにも意志があるとするなら、自分から進んで悪い方向に行こうなどとは思わんじゃろうからな]
[え?!]
 ハーンは老人を見据えた。自分を見上げている老人が、急に大きく見える。
[それにぬしが闇の虜になったとしても、おぬしの友人が救ってくれるじゃろう]
 再び目を細めると、老人はタールを手に歩き始めた。
[あの!]ハーンは声をかけた。[あなたは……?]
 老人は振り返って言う。
「わしは、おぬしの“知識”が……封じられた知識が知っている者じゃ。……闇を汝が力とせよ。きっかけを与える者は、すでにおる。まあ多少、手荒にはなりそうじゃがな」
 語った言葉はフェル・アルムの言葉ではなく、アズニール語――アリューザ・ガルドの言葉であった。老人は再び歩き始めた。
「古き友人よ。我が名は“慧眼《けいがん》の”ディッセじゃ」
 その場で、老人の姿はすうっと消え失せた。

「ディッセ……」
 ハーンは老人がいた場所を見ながら言った。
(――ディッセ。ムル・アルス・ディッセ。ディトゥア神族にして、次元の狭間“スルプ”の長)
 心の奥底に眠る“知識”がハーンに囁いた。
 術の力に覚醒した十三年前から、“知識”はハーンの中で時折うごめいていたが、ここ最近、呼びかけが顕著であった。ハーンの奥底に眠る“知識”といわれるもの。それがいったい何なのか、知る者はハーン自身と〈帳〉しかいない。

 そのまま、ハーンはしばしたたずんだ。

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四.

 夜も更けて。ハーンが眠りにつこうとした時、叫び声が聞こえてきた。ハーンは何ごとか、と思い、剣を握りしめテントの外に出た。今の叫び声は人間のものではあるが、悲鳴に近いものだった。
[だ、誰かあ……]
 うめく声が再び聞こえた。それを聞き、周囲の者達もテントから這い出してきた。
[なんだ? 一体]
[危険だから、下がって!]
 言うなりハーンは剣を抜くと、救いを求める声のほうへ、一目散に駆けていった。
 ハーンには分かっていた。クロンの衛兵キニーが言うところの『熊』が現れたのだ。

 ぶうんっ……
 剣が低く唸り、その波動がハーンに伝わってくる。戦いのためにこの剣を抜くのははじめてだが、剣が意志を持つかのように戦いを欲しているのが分かる。ハーンは、まもなく目の当たりにする魔物のほかに、この漆黒剣の誘惑にも打ち克たなければならない。

 悲鳴の上がった現場には、得体の知れないものを前にした男が、腰を抜かして座り込んでいた。ハーンは、がちがちと歯を震わせている男の前に立つと、目前の敵を見据えた。
 一匹の獣が、しゅうしゅうと不快な息遣いをしながら、赤い目を爛々《らんらん》と輝かせて獲物を屠《ほふ》らんとしている。獣は熊のようにも、大柄な猪のようにも見えるが、その実どちらでもないことがハーンには分かった。形こそ違えど、これと同じ感覚を持つものにハーンは一度出会っているからだ。魔物。フェル・アルムには存在してはならない生物。“混沌”が生み出しし、忌まわしき創造物。
 ハーンは直感で知った。今の自分なら――レヒン・ティルルを得た自分なら、この程度の魔物ごとき、苦もなしに倒せるのではないか、と。迷いもなく、ハーンは地面を蹴った。
 ハーンが剣を薙ぎ払うのと、牙をむいた魔物が突進するのは同時であった。
 うおおおん、と不気味に吼えたのは、魔物か、剣か。
 レヒン・ティルルの刃先は、向かってくる魔物の頭部を見事にとらえた。ハーンはそのまま勢いに任せ、魔物の口元から胴体にかけ、一気に切り裂いていく。勝負あった。ハーンは剣を引き抜くと、とどめとばかり、漆黒の刃を振り下ろし、魔物の首をはねとばした。

 ずう……ん……
 魔物の巨躯が地響きをたてて崩れていく。ハーンは余りにあっけない成り行きに驚きを隠せなかった。
「たったの一撃で?! レヒン・ティルル、まさかこれほどの力を持っているとはね……」
 次の瞬間、闇の力が剣から彼の身体へと侵入してきた。濁流のごとく襲いかかる闇の波動に、ハーンは必死で抗う。
(……! 力の反動も凄いな……。〈帳〉……このままこの剣を使い続けていたら、いずれ僕は闇に負けてしまうよ……)
 朦朧とした思考の中、先ほどの老人の声が頭をよぎった。
(『闇を自分のものにしろ』……でもそれと、闇の虜となるのと、どう違うんだ……?)
「かはっ……」
 ハーンの精神はとうとう限界に達し、意識を失った彼はそのまま地面に突っ伏した。

 ディエルは、少し離れたところからこの顛末を見ていた。
「兄ちゃん……大丈夫かな?」
 ディエルは頬をぼりぼりと掻きながらぽつりと言った。
「様子見にしては、ちょっとやり過ぎたかな?」
 ハーンが演奏に興じている隙に、ディエルはレヒン・ティルルに少し細工をしていた。一回しか行使されないが、ハーンが剣を振るった時に、闇の波動をハーンの身体に入り込むようにしたのだ。ハーンの“力”がどのようなものかを試すつもりだったのだ。
 だが――
「なっ……!?」
 絶句。
 ディエルは見た。気絶したハーンの身体から、天を突くがごとく闇の気の柱が発散されるのを。なぜハーンがここまで計り知れない力を持つのか、ディエルには分からなかった。
 ハーンから発せられた気柱は、闇夜の中で凝縮され、龍のかたちをとる。夜の暗がりよりさらに濃い、闇の龍は空を駆け抜けていった。

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五.

「な、なんだあ!?」
 ルードの部屋は突如、まばゆい光に包まれた。夢の世界に赴こうとしていたルードは、がばりと起き上がり片手をかざして、光がどこから発しているのか探しはじめた。
 〈帳〉かライカ、どちらかのいたずらかと最初は思った。だが〈帳〉がこのようないたずらをするわけがないし、女性であるライカがルードの部屋に、夜半に入り込むなどというのも考えにくい。
(じゃあ、いったいこれは……?)
 ルードは光の正体を見つけた。それは壁に立てかけてあるひと振りの剣。土の力を持つ聖剣ガザ・ルイアートであった。
 彼は恐る恐るガザ・ルイアートに触れてみた。別に熱いわけではない。意を決したルードは柄を握りしめ、鞘から剣を抜き放ち、剣をかざした。
 刀身がまばゆく光り輝いている。
(これは……すごいぜ……。これが聖剣の本当の力なのか?)
 ルードはかつて二回、聖剣を手にしたことがあるが、今はその時とは比べものにならないほどの“力”にみなぎっていた。大地にみなぎる活力が、全てこの剣に集結したかのようである。
 しかし、ルードはかつてのような恐怖感を感じなかった。剣が、ルードを所持者として認めているから。それもあるが、運命に立ち向かうことを固く誓った今のルードの精神が強固であることをも表している。
 ルードは剣の圧倒的な“力”を感じ取っていたが、それも一瞬。剣は光を失い、ただ鈍く銀色に光るのみとなった。

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六.

 トゥールマキオの森の大樹の中、自らの居室で、デルネアは二つの“力”がいかばかりのものか、感じ取っていた。
 ハーンが所有するレヒン・ティルル。
 ルードのものとなったガザ・ルイアート。

「我《われ》が予期せぬ巨大な“力”が、この地にあろうとはな……」
 デルネアは言った。
「我《わ》が手に余るやもしれぬが、この“力”を手中に収めるならば、我とフェル・アルムは、確実に永遠のものとなるだろう……。我は神にすら値するようになるのだ!
「我自ら、フェル・アルム北方に赴く必要があるな。……“烈火”とともに」

 “力”を求める者――ディエルにより、ハーンは一時ではあるものの自らが内に秘めた“力”を解き放った。
 それに呼応し、真の“力”を発揮したのは聖剣ガザ・ルイアート。二つの新たな“力”の顕現は、それまで傍観を決め込んでいたデルネア自身を動かすことになったのだ。
 三人目の“力”を求める者――彼の名は〈要〉。
 かくして、デルネアは朝を待たずに森をあとにした。目指すは帝都アヴィザノ。フェル・アルムの歴史上、最大の“神託”を与えるために。

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