『フェル・アルム刻記』 第二部 “濁流”

§ 第二章 邂逅、そして

一.

 ルードはベッドの中で寝付けずにいた。先ほどのガザ・ルイアートの輝きが、鮮烈にまぶたに焼き付いているからだ。それだけではない。あの輝きは、この世界の何らかに対して警鐘を鳴らしていたのではないか。
 何のために?
 そんなことを考え始めると、眠りにつこうとしていた頭がにわかに働きだし、答えの出ない思考の迷宮をさまよう。
 しばらくひとり悶々としていたルードだったが、がばりと起き上がった。手探りでランプを見つけ、灯をともして机に置く。
 カーテンを開けると、まだ空は尋常ならざる闇に覆われている。禍々しい夜。ここ数日、星の輝きを見たことがない。
(星なき暗黒か。ハーンがこれを恐れるのも分かるよな。この空は……何かとても、いやな感じがする)
 虚ろな空を嫌って、ルードはカーテンを閉じると椅子に腰掛けた。
(さて、どうしようかな……〈帳〉さんに訊いてみようか?)
〈帳〉もライカも眠っているに違いない。しかし聖剣の輝きが何か重要な意味を持っているのではないか、と思うにつけ、いても立ってもいられなくなる。ルードはランプを片手に部屋を後にしようとした。

 その時。あるイメージがルードの頭の中を駆けめぐった。図書館、一人の女性、そして――。
(ハーン!?)
 ハーンが苦悶する表情が映り、すぐに消えた。まるで闇の中に消え失せるかのように。
 ルードは立てかけてあるガザ・ルイアートをつかみ、部屋を後にした。今のイメージで、彼の抱いていた疑念は、一つにまとまった。
(ハーンに何かあったんだ!!)

 ぎしぎしと音の鳴る板張りの廊下は暗闇に支配され、けして気味の良いものではなかった。ルードはその不気味さを払拭するように、大股で〈帳〉の部屋に急いだ。扉の前に来たところで躊躇《ためら》うものの、こんこん、とノックを繰り返した。
 やがて部屋の中で、がさがさという物音のあと、
「だれか?」
 と、〈帳〉が問いかけた。
「……ルードです」
 かちゃりと扉が開き、〈帳〉が顔を出した。
「何があったというのだ……。まぶしい……」
 〈帳〉は右手でランプの光を避けつつ、起き抜けのくぐもった声で言った。
「あ、ごめんなさい」ルードはランプを後ろ手に持ち替えた。
「実は――」
「待ちなさい。ここでは声が響く。入るがいい」
 〈帳〉はそう言って、部屋の奥に引きこもった。ルードは続いて、〈帳〉の部屋の中へ入っていった。

「……そうすると、ハーンの苦悶に呼応するように、聖剣が光ったのではないか、と、そう言いたいのだな?」
 先ほどの一件をたどたどしく語ったルードに対し、〈帳〉は明快に言葉をまとめ上げた。
「そ、そう! そういうことなんですよ」
 ルードは剣をちらと見る。
「……でも、空が真っ暗になってさえ、こいつは反応しなかったのに、ハーンに対して反応するなんて信じられますか? いくら前の持ち主とは言っても……」
「考えられることだ……」
「え?」
「……何でもない」
 〈帳〉は腕を組み、ルードから目をそらすと、調度が並ぶ壁に目を泳がせた。
「いずれにせよ、ハーンが実のところどういう状態にあるのか、調べたほうがいいな」
「調べるって、どうやってですか?」
「私とて、魔法使いの端くれだ。術が使えるハーンとであれば、きわめて微弱ながら意志の疎通が出来る。彼がどのあたりにいて、無事なのかどうかぐらいはな。もっとも……」
 〈帳〉は再びルードの顔を見た。
「もっとも、今は無理だ。フェル・アルムの夜は“混沌”に支配されつつある。魔法を使えば、何らかの悪影響が出るやもしれない。下手をすると、私自身が闇にとらわれるかもしれないからな。かつての私であれば抑圧出来ただろうが、今の私では無理だ」
 自らの無力さを呪うかのように、かつて“礎の操者”と呼ばれていた魔導師は弱々しく言った。
「でも、〈帳〉さん。朝になれば術を使えるんでしょう?」
「それは問題ない」
「じゃあ、明日の朝まで待ちますよ。それでいいのでしょう?」
「ああ。夜が明けたら、さっそく術を行使してみる」
 それを聞いたルードは椅子から立ち上がり、剣とランプを持って戸口に下がった。
「俺、待ってます。……すみませんでした、こんな夜更けに起こしちゃって」
「なに、気にすることはない。むしろ話してくれてありがたいと思っている」
 〈帳〉は目を細めた。
「ルードよ。強くなったな」
 二ヶ月前、漠然たる不安に苛まれていた少年の面影はそこにはなかった。
「〈帳〉さんだって、ここに俺達が来た頃よりも、ずっと生き生きして見えますよ!」
 ルードは笑って言い返した。
「まあ、でも〈帳〉さんに話したら、胸のつかえが取れちゃったみたいです。とりあえず眠りますよ。お休みなさい」
「お休み。……ああ、ちょっと」
 呼び止められたルードは首だけ〈帳〉のほうを向けた。
「ことによっては、さっそく明日、旅立つかもしれない。準備だけはしておいたほうがよい」
「ハーンの返事を待たずに、この館を出るってことですか。ハーン、多分まだスティンには着いてないと思いますよ?」
「そうだ。ハーンの苦悶が聖剣の反応と関連があるのなら、急ぐ必要があるやもしれぬ……。しかし、とりあえず今は休むといい」
「分かりました」
 ルードは一礼をして、扉を閉めた。

 椅子にひとり腰掛ける〈帳〉は、やおら立ち上がり、ランプの灯りを消した。
「まさか、そのようなことはあるまい、と思ったのだが……。剣の持つ闇に捕らわれたか? ハーン……」
 〈帳〉はかぶりを振った。あの程度の闇の波動であれば、自らの力として難なく使えるはずだ。
(それにしても、ルード……。『生き生きしている』……か)
 先ほどのルードの言葉を思い出した〈帳〉はふと、ほくそ笑んだ。
(不思議なものだ。彼らに出会ってから、明らかに私は生活自体を楽しんでいる。今まではただ、死んでいないに過ぎなかったこの私がな……)

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二.

 夜が明けてまもなく。ルードは〈帳〉の部屋を訪れた。
「来たのか……休んでいても構わなかったのだが?」
 読んでいた分厚い本を机に置き、〈帳〉が訊いてきた。まるで物語に出てくるような、と形容すべきか。普段とは違う臙脂《えんじ》のローブを纏《まと》った〈帳〉は、まさに魔法使いそのものだった。
「ライカも一緒なのか?」
「まだ寝てるでしょうね」
 見慣れぬ臙脂の装束をじろじろ見ながらルードが言った。
「あいつ、寝る時は本当にぐっすり寝ちゃうんですよ。……あ、起こしてきたほうが良かったんですか?」
「いや、それには及ぶまい」〈帳〉は言った。
「では、ハーンに呼びかけてみるとするか」
「魔導ってやつを使うんですか?」
 ルードの問いに〈帳〉はかぶりを振った。
「術で十分であろう」
「そうですか……」
 ルードは内心残念であった。かつては偉大な魔導師として名を馳せていた〈帳〉。ハーンの行使した術も驚きに値するものだったが、それを凌ぐとされる魔導とはいかなるものなのか、見てみたかったのだ。
「そう落胆するな。術と違って、魔導とは気安く用いるべき代物ではない。魔導の行使は、世界の構成そのものに干渉することになる。ゆえに魔導を用いる者は、干渉した際、どのような結果をもたらしうるのか見きわめねばならん。何より、己の意志を繋ぎ止め、全てをあやまたずに行わなければならないのだ……それを軽んじた結果、魔導の暴走が起きたのだ。
「……話がそれたな。いずれにせよ、事態が事態なのだから、君も近いうちに魔導の片鱗を見ることになろう。アリューザ・ガルドでは封じられた、魔導の力をな」

 〈帳〉は目を閉じると、顔を上げて異質な抑揚を持つ言葉を紡ぎだした。それはほんの数節からなる言葉で、二回、三回同じ文句を唱えた。やがて〈帳〉の発する声はか細くなり、口を閉じた。〈帳〉はおもむろに左腕を天井に掲げる。すると、身体や四肢の中から浮き上がってきた幾筋かの揺らめく光が、様々な色合いに変化しつつ彼の指先へと立ち上っていき、一つの点となって凝縮した。〈帳〉が指を鳴らすと、それは窓を突き抜け、一条の矢のごとく飛び去っていった。
「今放った光は、一刻もしないうちに私のところに戻ってくる。その時、ハーンの所在が明らかになろう」
 大きく息を吐いて、目を開けた〈帳〉は言った。
「……休んだほうがいいのではないか? あとは私にまかせておけばよいのだから」
「……いえ、ここで待ってますよ。ハーンのこと、やっぱり気がかりですからね」
 二人は、徐々に明けてくる東の空を漫然と見ながら、時が刻まれるのをただ待つのであった。

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三.

 ライカは、朝食の用意をするために、〈帳〉の館を出て、いつもの小さな牧場へ向かう途中だった。館から牧場へつづく小径を、足取り軽く歩いていく。
 彼女の耳に、風に乗って、ある音が聞こえてきた。唸りをあげて風を切る音。高ぶってはいるが、規則的な息遣い――。“風”の力に詳しいアイバーフィンでなければ聞き取ることは難しいだろうその小さな音は、牧場へ向かう小径から少し逸れた、林のほうから聞こえてくるようだった。
 ライカは躊躇せずに、足を林のほうへ向けた。その息遣いを彼女はよく知っていたから。
 ルード・テルタージ――自分を守ってくれている少年。

* * *

 自分はこの剣を何百回振ったのだろうか? 息が徐々に荒ぶってきているのに相反するように、気持ちは落ち着いてきている。ルードは素振りを繰り返しながら、そんなことを考えていた。手にしている剣は、ルードに活力を与えてくれる。
 ルードがこの圧倒的な“力”を持つ聖剣――ガザ・ルイアートを手にするのはほぼ二ヶ月ぶりだった。瀕死の状態で剣を握った、“疾風”との戦い以来だ。仮に剣に意志があったとすれば、剣はルードに対し従順になったといえる。ルードがかつて手にした時、剣は強烈な“力”をルードの体内に送り込んできた。それは、ルードが所持者たるに相応しいか、試さんとするようだった。
 ルードが力に目覚めたのは、疾風との戦闘後だった。ルードは怪我をすることがなくなった。いや、正確にはどんな深手を負ってもすぐ傷が癒えるようになったのだ。そして、今まで感じ取れなかった大地の息吹というものを、肌で感じ取れるようになった。――ライカが風の力に敏感なように。
『ルードは、セルアンディルの力を手にしたのだよ』
 かつて〈帳〉はそう言った。
 セルアンディルとは、遙か昔のアリューザ・ガルドにおいて土の力を司っていた民だ。ルードは伝説の剣を媒体にして、古《いにしえ》の力を手に入れたのだ。
 ライカの種族、アイバーフィンは風を司る。そして風の世界に赴き理《ことわり》を悟った者は翼を得、鳥のごとくに空を我がものに出来る。土の司セルアンディルは、大地の霊力を自らの力とし、外傷・病気など受け付けない、癒しの力を持つのだ。

 今や剣は自分と一心同体となった。まるで何十年も使いこなしていたかのように、ガザ・ルイアートは意のままに動き、銀色の刀身が朝日を受けて幾重もの光を放つ。
 ざっ!
 ルードは足を踏ん張って、最後のひと振りを振り下ろした。
「はあっ!!」
 そのままルードはぴたりと動きを止める。静かな林の中、自らの息の音と心臓の鼓動がやけに大きく聞こえている。少し長くなった前髪が汗で張り付く。

 ぱちぱちぱち……
 背後でそんな拍手が聞こえたので、ルードは剣をしまって振り向いた。
「……え……ライカ……か……。いつから……」
 いつからいたのさ? そう言おうとして、息を整えようと必死のルードに、ライカは満面の笑みで駆け寄った。
「すごい! すごいよルード! ハーンだって、今のルードにはかなわないかもしれないわよ!」
「そんなこと……ない……俺はだいぶ……剣……の力に……たよってるから……ハーンは……こんな程度じゃ……息……あがらない……」
「まあまあ、落ち着きなさいな。ほら、そこに腰掛けて?」
 ライカは倒木に座るようにルードを促すと、自分もルードの横にちょこんと座った。
「静かね……」
 ライカがひとりごちる。物音一つしない林の中を、一陣の風が吹く。
「ふぅー……」ややあって、ルードが深呼吸をする。
「落ち着いた?」
 ライカがルードの顔をのぞき込みそう言うと、こくり、ルードはうなずいた。
「〈帳〉さんは?」
「ええと、そうね、裏の畑でなんかやってたようね」
「そういや、朝飯の準備、途中なんじゃないのか?」
「いいのよ。……ルード、一生懸命だったから、見ててあげたくって、つい、ね」
 ライカはそう言って小首を傾げて見せた。その可憐な仕草に動揺したルードは、ぽりぽりと鼻の頭をかき、照れたように笑って見せた。
「でも、どうしてまた今日はその剣なの? 今までだって、朝の練習は、なまくら剣だったでしょ?」
 剣先を丸くした模擬戦用の剣のことをライカは言っているのだろう。
「ああ……ぼちぼち、こいつに馴れておかなきゃなんないかな、と思って」
 それを聞いたライカの眼差しが、凛としたものになった。翡翠色の瞳が、きらと光る。
「それって……」
「ここから出る時が来たってことだよ」

 ルードはライカに語った。数日前から夜を覆っている闇。光り輝く聖剣。ハーンのイメージ。そして――。
「で、〈帳〉さんの出した光が戻ってきた。ハーンはどうやら今、クロンの宿りにいるらしいんだけど……。〈帳〉さんからの問いかけにハーンが反応しないらしいんだ。そしたら〈帳〉さん、妙に険しい顔になってさ。どうしたのかって訊いたら、〈帳〉さんもよく分からないって言うんだ」
「それから?」
 ライカは先をうながす。
「今のところはそこまでだ。〈帳〉さんも、出発の準備はしておけって言ってたけど、あの顔つきだと、どうなるかは分かんないな。でも俺はさ、ハーンがどうなっちゃったのか分かんないんだったら、ハーンを追っかけなきゃ、と思うんだ。大体の場所は、〈帳〉さんがつかめるんだから」
「〈帳〉さんが、行くのに反対だって言ったらどうする? 時期を待てって感じで」
「かけ合ってみるつもりさ。ライカはどう思ってるんだ?」
 ライカはしばらく思案するふうを見せたあと、ルードの肩に頭を預けた。
「わたしもハーンのことが心配。ルードの話を聞いてると、やっぱりここから出たほうがいいかもしれないわね?」
「……多分、危険なことになると思うけど、……それでも……付いてきてくれるのか?」
 ライカは頭を預けたまま、うなずいた。
「まさか、わたしをここに置いていくつもりだった?」
「それもちょっとは考えたかな?」
 ルードの軽口に対してライカは顔を上げて、わざとらしくふくれっ面をしてみせる。
「まあ、でも……、約束してるからな。ライカを、もといた村に戻すって……。だから……」
「だから?」
 横を見ると、ライカが何やら言いたげな眼差しでルードを見ていた。ルードは顔を赤らめて、言おうとしていた言葉を引っ込めようとした。
「ルードはどうしたいの?」
 ライカは納得せずに訊いてきた。もはや言うべき言葉は一つしかない、というのに。
「俺に、付いてきてほしい」
 その一言にライカは破顔した。
「それでこそルードよね! わたしの思ってるとおりの、ね!」
 心地よい風が二人に吹き、林を駆け抜けていく。二人はしばらく、そのままの姿勢で風と、互いへの想いを感じていた。

 ややあってルードは立ち上がる。剣をゆっくりと右に左に振って、その刀身の光るさまを見ていた。ライカのほうを見ないのは照れ隠しのためか。
「なあ、ライカ」
「なあに?」と、どこか楽しそうなライカの声。
「とにかく、俺は今日、〈帳〉さんにかけ合ってみようと思ってる。あの人だって分かってくれるさ。って、……何だ?」
 ルードは耳を疑った。風に乗って、声が聞こえたような気がしたからだ。女性の声。それはライカでも、従姉のミューティースでもない。しかし、どこかで聞き覚えのある声――。
「どうしたの?」
「空耳? でも土がざわめいてる」
 ルードはすくりと立ち上がった。
「こっちに……何かある!」
「ルード?」

 ライカは、林の中へと入っていくルードを追いかけた。草の中を進むルードの歩き方に一切の迷いはなく、まるで見知った道を歩いているように見えた。腰のあたりまで茂った雑草をかき分けるのに苦労しながらも、ライカはルードに近づいていき、彼の肩をつかんだ。
「ルードってば、どこへ行こうっていうのよ?」
 ルードはぴたりと歩くのをやめ、肩に乗せられたライカの手を握った。
「ライカ、俺は誰かに呼ばれたんだ。それがなんなのか……、知っているようで分からない。なんて言うかまるで――」
「夢の中の出来事のような、きわめて漠然としたイメージ……。私はそう言ったわ」
 背後で聞こえた女性の声に、二人ははっとして振り向いた。
 今まで薄もやがかかっていたようなルードの曖昧な記憶が、瞬時にして鮮明になる。二ヶ月前、疾風の手にかかって死にかけたルードは、意識のみが飛んでいき、その行き先は――“次元の狭間”――“イャオエコの図書館”――。
「……図書館……本……。そうか、あなたは!」
「お久しぶりね、ルード」
 かつて会った時と同様、神秘的な雰囲気を身にまとう彼女。ルードの進むべき道を知っている、司書長のマルディリーン。
 思いもかけぬ場所での再会であった。

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四.

「どうやらその顔では、なぜ私がこの世界にいるのか不思議がっているようね。違っていて?」
 マルディリーンは会釈をすると、静かに言った。
「そ、そのとおりだよ。あなたは、この世界の住人じゃないはずだぜ?」
 ライカはことの成り行きに戸惑いをみせた。
「セルアンディルになったバイラルの少年と、アイバーフィンの少女が、この閉ざされた世界にいるとは。これは面白い組み合わせだわね?」
 マルディリーンは、事態についていけず顔を見合わせる二人をよそに、くっくっと笑った。
「ああ、失礼。悪気はないのですよ。そうそう、アイバーフィンの娘よ。あなたとは初対面でしたね? 私はマルディリーン、といいます」
「マルディリーン、ですって?」
 ライカは、ぽかんと口を開けた。
「マルディリーンって、あの、まさか……」
「“真理の鍵を携えし者”。数十年前に私のもとへ来た老アイバーフィンが私をさしていった言葉です」
「はっ……はじめてお目にかかります!」
 動揺を露わに、ライカは深く頭を垂れた。
「……そう萎縮する必要などないでしょう? ルードのように堂々としていればいいのですよ」
「それは……ルードが、あなたのことをよく知らないからだと思います。わたし達にとっては、やはりあなたは……」
 マルディリーンの目を見ることすら畏れ多いように、ライカは下を向いたまましゃべる。
「ライカ? 俺が知らないって……どういうこと……?」
 ルードはきょとんとして、ライカに訊いた。しかし、ライカは答えなかった。
「……ルード。私は“イャオエコの図書館”の本達をとおして、世界の本質を追い求める者です。図書館を訪れた者に対して、真実を伝える者です。そして、世界の動向を見つめる者――ディトゥア神族のひとりです」
「え? ディトゥア神族? あなたが!?」

 ディトゥアの名は、〈帳〉の館での滞在中、幾度となく〈帳〉から聞かされた。
 世界には二つの神族が存在する。一つは、アリューザ・ガルドを創り上げたアリュゼル神族。もう一つが、アリューザ・ガルドの運行を任されているディトゥア神族だ。

「でも、神様がこんなところにいるなんて。考えられないよ」
「しかしそうは言っても、現に私はここに顕現している」
 と、マルディリーン。
「確かに、フェル・アルムと名付けられたこの空間に住む者は、ディトゥアのことなど知らないはず。しかし世界は人間のみの力で成り立っているわけではありません。自然の力、精霊達のはたらき……何より、それら全てを包括して存在する“色”。そういった人間以外の“力”が折り重なって、世界というものは存在しているのです。この閉じられた世界では、それが認知出来ないのが不幸なのですが、ルードよ、いずれ分かるでしょう。アリューザ・ガルドに来ることによって」
 マルディリーンの言葉は、一つ一つが大きな意味を持つようであった。ルードは不意に、彼女の背丈が何倍に大きく見える気がした。
 “神”。
 ルードにとっては未だに途方もない言葉であるが、その偉大さの断片をかいま見たようにも思えた。
「俺がアリューザ・ガルドに来る、か。それって意味深だな」
「なぜ、そう思って?」
 マルディリーンが言った。
「俺は、ライカを……この娘を元の世界に戻してやりたい、ただそう思ってた」
 ルードはライカの肩をつかんだ。
「でもさ、今となってはそれだけじゃ駄目なんだ。このフェル・アルムの全てを、アリューザ・ガルドに戻さないといけない。あなたが今言った、『アリューザ・ガルドに来る』というのはそういう意味だと思う……違いますか?」
「そのとおり。この世界を還元する、というのが我らディトゥアの総意です。私の役割は、この世界を変革しうる人物に、助言を与えることです」

 マルディリーンは、どこからともなく、本を取りだした。さながら、空間の隙間から本がいきなり出現したかのような、そんな奇妙な取り出し方だった。
「……あなた方の行動は、本を通して知ることが出来ました。でも、この後どうなるのか、私には分かりません。『記憶の書』は、現在までの事柄を紡いでいるものであり、未来のことには言及されていないものだから」
 彼女はそう言いつつ、ぺらぺらと頁をめくっていった。
「ふむ、ここね……」
 マルディリーンはその頁を読み終わると、顔を上げた。
「では、ルード、それにライカよ。これからあなたがたの為すべき道を語ります」
 マルディリーンの一言は玲瓏《れいろう》と周囲に響きわたった。その声は、今まで聞いたあらゆる声のなかでも、最も気高いもののようにルードには聞こえた。
「スティンの村――ルードの故郷へ行きなさい。会うべき人がいるはずです」
「会うべき人?」
「ハーンのことじゃないかしらね? ……多分」
 二人は顔を見合わせた。
「マルディリーン様。その人の名前は、ティアー・ハーンというのでしょうか?」
 ライカは相変わらずかしこまったままだ。
「あ、そうですね。名前、名前……」
 マルディリーンは慌てたように頁をめくる。その焦ったような仕草は妙に人間味を感じさせるものだった。
「名前……無いわね。失礼。あなた達と関わり合いのある人の名前が、なぜ書かれていないのかしら? 助言者として、明確な言葉が出せないのはあってはならないのですけれど……とにかくあなたとしばらく前に行動をともにしていた人のようですね」
「じゃあ、やっぱりハーンだ。でも、ハーンはクロンの宿りにいるはずなんだけど?」
「あなた達が着く頃には、おそらくかの地から離れているのでしょう。それ以上は私も分かりません」
「そうですか……じゃあ、ルシェン街道を北回りして、クロンの宿りを通っていったほうが、ハーンに会えるかな?」
「北には行くべきではないわ!」
 マルディリーンは強く言った。
「それは太古の“混沌”が、ここに至ってついに昼の世界をも蝕もうとしているから。夜を覆い尽くして力を得た“混沌”は、今度は大地を腐らせながら南下を始めているのです」
 そう言っている間に、マルディリーンの身体は徐々に透き通り、足下からうっすらと姿をなくしつつあった。

「マルディリーン様……」
 ライカが手を伸ばす。
「私がこの世界に干渉出来る時間が、無くなったようね……」
 マルディリーンは自分の身体を見やりながら言った。
「アリューザ・ガルドへ還元するすべと、“混沌”に抗うすべ。それは我らディトゥアの力を持ってしても解が出ませんでした。しかしながら、『二つの大いなる“力”』が来たるべき終末に向けて唯一の救いとなる。“慧眼《けいがん》の”ディッセはそう語ったわ」
「『二つの力』だって?」と、ルード。
「一つはガザ・ルイアートでしょう……もう一つって?」
「我が父ディッセなら分かるのでしょうが、私には分かりません。とにかくスティンに行くことです。急がねば! 全てが動き出しているから。あなた達ならきっとやり通せる。私はそう思っているわ……」
 もはや姿を無くしたマルディリーン。その声すらも徐々に小さくなり、やがて消え失せた。
「マルディリーン……」
 ルードとライカは、林の中、今までマルディリーンが確かにいた低木のあたりを見つめ、しばしたたずんでいた。

「ことは急がねば……か」ルードはひとりごちた。
「マルディリーン様が来るなんて……やっぱりとてつもないことになってきてるのね……。あの方は、アリューザ・ガルドにだって姿を見せたことがないはずなのに」
 ライカは考えるルードの横顔を見て言った。そして息を吸い込んで……。
「うん! ……行こう? ルード!」
 ライカはルードの手を取ると、足早に歩き出した。
「ライカ?」
「ことは急がなきゃならないんでしょ? だったら〈帳〉さんのところに行って、かけ合ってきましょうよ、二人で、ね!」
 ライカは目配せをして答えた。

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五.

 〈帳〉は厨房で、畑の野菜の仕込みにかかっていた。が、あわただしく館に入ってきたルードとライカの様子がいつもと違うことを察し、朝食の支度を中断して、少年達の語ることに聞き入った。
 マルディリーン、彼女の提言、太古の“混沌”の侵食――。二人の口からそれらを聞くにつけ、〈帳〉ですら驚きを隠せなくなっていた。
「なんと、マルディリーンとは! 久しくその名を聞いていなかったな」
「知ってるんですか?」と、ルード。
「知っているとも。私がまだ深緑の髪を持つエシアルルだった頃、ディッセの野でたびたびお目にかかったことがあるからな」
 白髪のエシアルル、〈帳〉は言った。

 エシアルルは森の護り人。彼らはアリューザ・ガルドで生を受けておよそ二百年を経た後に、肉体と魂を分離させる。魂は次元の狭間にある“ディッセの野”に赴き、そこで彼らは百年の時を過ごすのだ。その後再びアリューザ・ガルドに帰還し、肉体を目覚めさせる。――長い人生のなかでエシアルルは幾度となくこの周期を繰り返す。

「マルディリーンがこのフェル・アルムに現れた、というだけで十分驚きに値するのだが、かの方がそのように言われたのであれば……。ライカ、とりあえずあり合わせのもので食事を作っておいてほしい。そのあと、自分の支度に取りかかりなさい。我らは出立する」
「は、はい!」
「ルードは……身の支度を整えたあと、馬を玄関口に連れてくるのだ」
「そうすると、今日から遙けき野越えなんですね?」
 ルードは、あの厳しい道のりの記憶がよみがえった。また一週間近く、あの苦しみを味わわねばならない。それは全く乗り気がしないことである、が、荒野を越えない限り、スティンには行き着くことが出来ない。
 ルードの言葉を聞き、〈帳〉は顎に手を当て考えた。
「……いや、急がねばなるまい。ここはルシェン街道まで、ひといきに移動しよう」
 その言葉を聞き、ルードとライカはぽかん、と口を開ける。どうやったら行けるというのだろうか?
「つまるところ魔導を用いよう、というのだ。さすれば一刻もかからずに遙けき野を越せるだろう」
「へえ……」
 ルードは驚嘆の声を漏らす。
「でも〈帳〉さん」とライカ。「それだったら、一度に高原まで行けないんですか?」
「残念ながら、それは叶わない。枯渇した私の魔力では、遙けき野越えで精一杯だろう。……とにかく今はなるべく急ぐことだ。魔導の行使により私は疲労するだろうが、三人ともに疲れ果てるよりはましだろう。ただ、もし何か起きたとしても、しばらくの間は微弱な術しか使えん。その時はルードの剣に頼ることになるな」
「じゃ、とりあえずわたし、食事の準備をしますから……」
 言うなりライカは機敏に、洗い場に向かった。
「ルードも、はやく支度なさーい?」
「……分かったよ」
 ライカに急かされたルードは急ぎ足で食堂をあとにする。

 〈帳〉もまた、勝手口から館の外へと出ていった。彼が育てた畑の野菜や、牧場の動物達――。『〈帳〉の館』という名の小さな世界の住人達に、おそらく別れを告げるために。それが永遠のものではなく、しばしの別れに過ぎないようにと〈帳〉は世話をし、祈るのだろう。

 三人がそれぞれの支度をし終わり、玄関に待たせていた馬に乗る頃、太陽はすっかり昇って、初夏の日差しをさんさんと注いでいた。しかし――。
(本当にそのかっこうで旅に出るのか?)
 二人の旅装束を見た時のルードの素直な感想である。
 ライカはまだいい。わずかに紫がかる銀髪は、確かにこの世界にはあり得ない髪の色だが、それ以外はいたって普通の少女なのだから。問題は――。
「あのう、〈帳〉さん、こんなこと言うのは何なんですけど」
 ルードは少々恐縮しながら〈帳〉に話しかけた。
「ええと、その格好……かなり目立ちませんか?」
 ルードの言うとおり、雪のように白い髪を惜しげもなくさらした〈帳〉のなりは目立ち過ぎる。エシアルル特有の端正なかんばせを持ちながら、両の目尻から頬にかけては臙脂に彩られた刺青を入れている。そして袖周りに刺繍の施された、ゆったりとした臙脂のローブ。
「問題はなかろう?」
 ことも無げに言う〈帳〉本人は、気にする様子すらない。

「北には行けぬ以上、サラムレを経てスティンに向かうほか無い。サラムレでは、この程度のなりをしていても別段問題ないだろう」
 商人達が多く集う水の街サラムレには、目立つ衣装をまとった芸人が多くいると、ルードも聞いていたが。
「でも! サラムレに着く前、疾風達に出くわすかもしれないしさ……」
「それもあるな……。“惑わしの術”を唱えて、私達の本当の姿を見えにくくしておくか。そうすれば、よほど疑いの眼差しで見られない限り、打破されることはないだろう。デルネアと、彼の麾下《きか》をのぞいて、であるが」
 〈帳〉は、ルードの肩をぽん、と軽くたたく。
「私はかつて、デルネアに会うためにフェル・アルム南端のトゥールマキオの森に赴いたことがある。十三年前、ハーンを救い出した直後の混乱期にな。その時も、このような身なりについて人に問いただされることなくデルネアのところに行けたのだ。おそらくは大丈夫だろう。……それに、私達の姿かっこうをどうこう思う余裕など、人々にはなくなっているかもしれん」
 ルードも、少し心配ながらも、それ以上の言及はやめた。
「さあ、結界を解いて、館の外に出よう。集まりたまえ」

 〈帳〉が言うと、ルードとライカは馬を従えてひとところに集まった。新たな旅の一行となる彼らは、互いの目を見合わせる。決意のほどを確かめるように。
 ルードとライカは目を閉じた。聞こえてくるのは、いつもと違う〈帳〉の声。呪文の詠唱は低い声で、うねるように続いている。徐々に、徐々に、足下の感覚が変わってくるのが分かる。

「……目を開けていいぞ」
 〈帳〉の言葉を聞き、二人は目を開けた。広がるのは二週間ぶりに見る一面の荒野だ。しかし――。
「あ! 見てよ、あれ! ルード!」
 叫ぶライカが指さす方向をルードは見つめる。
「う……」
 声にならない。
 北方。天上の青空とは明らかに異質な黒い空が覆っている。二つの空の境界は、まるで波打ち際に押し寄せる波のようにゆっくりと揺らいでいた。
 自ら意志を持っているとも思わせる黒い“混沌”――。
「見るに耐えんな……。あれこそ、空間の歪みが呼び寄せた“混沌”だというのか……」
 さすがの〈帳〉も眉をひそませる
「〈帳〉さんの館だと、空はあんなふうには見えなかったのに……。青い空が悲鳴をあげてるみたいで、とっても恐い……」
 両の腕を押さえたライカは、今にも震えそうだった。
「私の館か……。いつの時代にあってもあの場所は、隔絶された安らぎの場所であるからな……」
 そう言って〈帳〉は結界の向こう、館があったであろう場所を振り返った。
「結界のなかの小さな世界、か。結局のところ六百年間、デルネアと同じことをしていたに過ぎないのか? 私は……」
 〈帳〉の漏らした嘆きは、大きな哀しみに満ちているように、ルードには聞こえた。

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六.

「魔導を行使する前に、一つ言っておくが……」
 〈帳〉が言った。
「何が起きても、決して悲鳴や、驚きの声を上げてはならないぞ? 魔導の発動に影響を及ぼすやもしれぬからな」
 二人はとりあえずこくりとうなずいた。何が起きるのか聞き出そうとしたのだが、目を閉じて両の手を高く掲げる〈帳〉を見て、言おうとした言葉を飲み込まざるを得なくなった。〈帳〉が意識を極限まで集中させているのが分かる。

《ウォン!!》
 そう発音されたことばをあたりに凛と響かせて〈帳〉は両の腕を素早く真横に広げる。すると、〈帳〉の両の手から深緑の色を持つ、波のようなものが周囲に広がった。あたかも水面に落ちた石が、波紋を広げるかのように。深緑の波は、二十ラクほどの大きさのところで広がりを止め、上下に少し揺らめきながら留まっている。
 〈帳〉はかっと目を見開き、次のことばを発した。
《マルナーミノワス・デ・ダナッサ・フォトーウェ!》
 瞬時に深緑は薄い壁となって、まるで天球儀のように三人を包み込んだ。その変化の様子に呆気にとられたルードは、せめて驚きの声は上げまいと、手を口に当てた。
 〈帳〉は複雑な抑揚をもって呪文を唱えていく。すると周囲の岩、土、草木からほんの一瞬ではあるが何かしらの光が煌めく。そのたびに〈帳〉は詠唱を中断し、目を閉じる。おもむろに両腕を天に掲げ、楽師のように細かく複雑に指を動かす。すると先ほど、土や草から煌めいていた光の点は、明確な色を伴って半球に張り付き、〈帳〉の指の動きに合わせて半球上に線を描く。と、それらの線は、やがて二重三重に絡み合い、奇妙な模様をいくつも作りあげていく。
 絶えず色彩が移り変わる、繊細かつ不思議な模様。
 それこそ、魔導の威力を強大なものとする“呪紋”である。

 魔導の行使は絶え間なく続き、どれほどの時が経ったのか、ルードには分からなくなっていた。ライカもまた、馬の背をなでながら目をぱちくりさせ、手を口に当てて周囲をきょろきょろと見回すのみ。二人がただ驚くなかで、〈帳〉ひとりが奇妙な詠唱を続けていた。
 ぴたりと。
 詠唱の声がやみ、二人は〈帳〉の動作を見守る。〈帳〉は二人を交互に見やり――。
 最後の言葉を発した。
《マルナ・ハ・フォウルノーク、スカーム・デ・ダナッソ!》
 瞬間。
 半球上の全ての呪紋は、それぞれの持つ色を膨らませて霧散した。大きな半球は一点に凝縮し、それまで三人の周囲にあった全ての色彩、情景が消え失せた。そして凝縮された球は、閃光のように光り輝く。、ルードはまばゆさのあまり目を閉じた。

 ルードが気付くと、彼ら三人とその馬達は、七色に光る球の中にいた。足下にはごつごつした地面の感触はなく、ふわりとした浮遊感に包まれていた。
(この感じ……似たようなのを感じたことがあるような……)
 ルードは正面にライカの姿を認めた。ライカもルードを認め、戸惑っているのか苦笑を浮かべた。
(そうだ。ライカと初めて出会った時、こんな感じだったっけ。もっとも、あの時のほうがとんでもなかったんだけどな……。少しの間だけど、世界を乗り越えちゃったんだからな)
 〈帳〉は、苦しそうに息をしながら膝を抱えてうずくまっていた。それを見たライカが近づこうとしたが、〈帳〉は右手を挙げてそれを制した。やがて〈帳〉は顔を上げて言った。
「私は……大丈夫だ。久々に大きな魔力を解放したので少々疲れただけだ。心配せずともいい」
 そう言った〈帳〉の声は、やはり弱々しいものだった。
「もうすぐ、この球体はなくなる。その時は遙けき野を越えているだろう……」
 〈帳〉は再び顔を伏せた。
 ルードが周囲を見ると、なるほど確かに球体をかたちづくる色が徐々に淡くなっている。色が失せたその時、ルードは再び、自然の持つにおいを強く感じはじめた。

 ルードがふと気が付くと、あたりは一面の荒野ではなく緑の絨毯が覆う野原だった。
「どうにか成し得たようだな、遙けき野越えを……」
 近くに立っていた〈帳〉が言った。しかし、見るからに朦朧としており、いつ倒れてもおかしくないようだ。
「〈帳〉さん!」
 ルードが駆け寄って、〈帳〉の身体を支えた。〈帳〉は安心したのか、そのままゆっくりと腰を下ろした。
「〈帳〉さん?」
 と、ライカも駆け寄ってくる。
「大丈夫だ」
 大きく息をついて〈帳〉は答える。
「転移の魔導は、本来の空間をねじ曲げ、人を瞬時に移動させるもの。魔導の中でも高度な部類に入るものだ。空間の理《ことわり》は、我ら人間には理解しがたいものゆえ、あやまたずに魔法を発動するには、相当の知識と魔力が必要なのだ」
 ライカが持ってきた水筒の水を飲み干すと、〈帳〉は礼を言ってゆっくりと立ち上がった。
「ともかく、皆が疲れず、かつ迅速にここまで来るのには最良の手段であった。あとは軽くまじないがけをして、私達の身なりを惑わすようにしてから……出発しよう」
 〈帳〉はそう言って、二言三言唱えると、ライカの頭に手を触れ、ついで自分の頭にも手を触れた。“惑わしの術”を唱えたのだ。
「これでいい。さあ、出発しよう!」
 一行は馬を歩ませ始めた。

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七.

 一行はほどなく、ルシェン街道に辿り着いた。そして黒い空とは反対の方向、サラムレへ向けて再び歩みだした。
(でも……)
 『奇異に映ることはない』と〈帳〉は言った。ルードは真横にぴたりと馬を付けるライカを見た。
「うん、何?」
(やっぱり、銀色だよなぁ)
 ルードは、風になびくライカの髪を見た。〈帳〉はまじないがけをしたというが、ライカの髪はルードから見ても銀のままだ。
「どうしたのよ? 変な顔しちゃって」
 怪訝そうにライカが言う。
「いや、あのさ……」
 どうも言い出しにくいルードは、後ろの〈帳〉をちらと見た。〈帳〉も遠目から見て、やはり何ら変わるところがない。
「〈帳〉さんの姿だけどさ。ライカから見て、どう?」
 ルードは小声でライカに訊いてみる。
「どうって……普段どおりよね。あ!」
「俺にもいつもと同じに見えるんだよ。……あと、ライカの髪の色も、変わってないんだけど」
「じゃあ、まじないがけがうまくいってないってこと?」
 ルードはうなずく。
「それ、まずいわよ。このままだとばれちゃうんじゃないの?」
「そうだよなあ……ライカ、ちょっと言ってやったら? 術がかかってないんじゃないかって」
「そんなぁ……そんなこと〈帳〉さんに言えると思う? 〈帳〉さんだって、術がかかってると思ってるわけでしょ? 私が言ったら気落ちさせちゃうわ、多分。……ね、ルードが言ってきてよ」
「いや、俺が言うよりライカが言ったほうがいいと思うぜ」
 館の生活で〈帳〉は基本的に二人の馴れ合いについてはハーンと違って頓着しなかったが、聞こえてくる言葉の端々に自分の名前が出てくるのが気にかかり、声をかけた。
「どうしたというのだ。何かあったのか?」
 そう言って馬を歩み寄らせる。
「あ、いや……」
 ルードはライカの顔を見る。その顔は、ルードから話して、と言いたげであった。ルードは仕方なく、〈帳〉に言うことにした。
「その、俺から見て……〈帳〉さんとライカが、普段と変わらないように見えるんですけど……」
 それを聞いて、〈帳〉はほくそ笑む。
「君は私達の本当の姿を知っているから、まじないの効き目がないのだ。他人が見れば、私もライカも、フェル・アルムの住人として、平凡ななりをしているように見えるだろう」
 〈帳〉はそう言って、前方を見据えた。
「……ちょうどいい。見たまえ、ほら……あの人で確かめてみることにしよう。見えるか?」
 ルードが再び前方を見ると、向こう側から人影が近づいてくるのが分かった。
「……確かめるって?」
「挨拶でもしてみるのがいいだろう」と〈帳〉。
「ルード、まかせたわよ。私はここの言葉、分かんないから」
 ライカはそう言って、ルードの後ろについた。

 そうこうしているうちにルード達は、向かってくる人の輪郭までつかめる位置まで近づいた。
 女性がひとり。年の頃は二十五くらいだろうか。一見華奢にも見えるが、長い道のりを徒歩で越そうとするあたり、意外に旅慣れているのかもしれない。
 彼女のほうもちらりとルードに一瞥をくれる。彼女はそっと手を挙げ、挨拶した。
[こんにちは。歩きだと大変じゃないですか?]
 ルードはフェル・アルムの言葉で声をかけた。
[こんにちは。そうでもないわ、歩くの、慣れてるから]
 女性はさばさばした口調で答えると、ルード達のそばに寄ってきた。
[そっちのほうこそ大変ね? 女の子連れ? クロンからは結構遠いでしょうに。まさか駆け落ち、とか?]
 彼女は冗談だと言わんばかりに笑いながら、どこかで聞いたような言葉を言った。
[ははっ、恋の逃避行? そういうのだといいんですけどね]
 ルードにしては珍しく、さらりとかわした。
[サラムレまで、どれくらいあるのかな……まだ長いんでしょうか?]
[あと一日もあれば着くわよ。長旅お疲れさま。あら、そちらは芸人さん?]
[どうも]
 芸人と呼ばれた〈帳〉は会釈した。臙脂のローブを着ている彼がそう見られても不思議ではない。
[サラムレの様子はどんな感じだろうか? しばらくあちらには行ってないんでね]
[そうね……]彼女は顔を曇らせ、あご先に指を置く。
[気を付けなさい。サラムレ……というより、南部中枢から色々変な話が入ってきてるから。もし南方に行こうというのなら、考えなおしたほうがいいわよ]
[変な話……? たとえばどういう?]
 ルードが訊く。
[それはあたしが言うより、自分の耳で聞いたほうがいいわね。とにかく尋常じゃない事態になってるのは間違いないわ。……見なさい、あの黒い空。この世界中で異変が起きようとしているのよ]
 彼女は顔をしかめて北方を見据えた。そして一言。
[ニーヴル……と言われている連中、聞いたことがない?]
 その声色は心なしか、今までと違った冷たい響きがあった。
[ニーヴルってあのニーヴルですか?]
 眉をひそめてルードは訊いた。
[そう。十三年前に忌まわしい事件を起こした、あのニーヴルよ。彼らが再び現れて、この異変を生み出してるの。奴らは北のほうに集まってるって聞いたけど……何か知らない?]
[知らないな……すまないが、どこから聞いたんだ、その物騒な話は?]
 〈帳〉が言う。
[サラムレじゃあ、街中の話題よ! 中枢のほうでもそんな話で持ちきりだと聞くわ。……まあ、あたしは行くわ。にっくきニーヴルめ、どこに隠れてるのかしらね!]
 彼女はそう言って再び歩き出した。
[お気を付けて。また会えるといいわね!]
 彼女は手を振って、北へと歩き出した。ルード達も手を振って彼女と別れた。

「ふぅー……」
 ルードが息をつく。
「ルード、あの人なんて言ってたの?」
 早速ライカが訊いてきたので、ルードは会話の内容を話した。
「よかったねルード、ちゃんとまじないが、かかってるじゃない! ……でも南の噂とか、ニーヴルとか、気になることもいっぱいあったわよね……」
「しっ……」
 声を出さぬようにと〈帳〉が制した。
「今、アズニール語をしゃべるべきではない。……あの女……間違いなく疾風だからな」
「うそっ!?」
 ライカは驚きの声を上げ、はっとして振り返った。疾風と言われた女性は、こちらを振り向かずに歩いているので、ライカは安堵した。
「……そうなんですか?」
 〈帳〉はうなずいた。
「サラムレからクロンの宿りまでの長い道のり、訓練もしない普通の人間が、あんな少ない荷物で過ごせるはずがない。あとは、雰囲気だな。ニーヴルに対する敵愾心《てきがいしん》の強さが伝わってきた。……ルードは何も感じなかったか?」
「あ……」
 会話に精一杯で何も気付かなかった。ルードは唇をかんだ。ハーンが自分の立場だったらそうはならなかっただろう。そう考えると、自分の至らなさに腹が立った。
「まあ、そう自分を責めるでない。私とて、話してみるまでは疾風だとは分からなかったのだ。安易に確かめようとした私にも責がある、というもの」
「〈帳〉さん」
 とライカ。
「あの人、ニーヴルが異変を生み出しているって言ってたのでしょう? それって本当なんでしょうか」
「この世界の異変には、ニーヴルなどよりもっと大きな“力”が働いている。そう聞かせなかったかな?」
「ええ……でも……」
「ライカよ、もっと自分自身の心を信じることだ。君はこう思っているはずだ。一連の事件でニーヴルは一切関わっていない、と。……しかし、疾風がああも断定する以上、これは単なるうわさ話とは言えんな。裏がありそうだ。デルネアが何らかの意図のもと、噂を流布させている、ということも考えられる。……とにかく。サラムレまでそう遠くないところまで来ているのだから、行くとしよう。サラムレで何かしらの話が聞けるだろうしな」

 サラムレ。フェル・アルム中部域に位置する水の街では、どのようなことが聞けるのだろうか? 何より、南部から伝わってきている妙な話とは?
 ルードの横にぴたりとライカが寄り添ってきた。心なしか、彼女にいつもの活気がないようにも見える。
「恐いのか?」
 ルードの言葉にライカはうなずいた。見上げる顔には不安の色がありありと浮かんでいる。いつもの活発な彼女ではなく、か弱い少女がそこにいた。
 ルードは馬上から手を伸ばすと、ライカの手を握った。
「大丈夫だ」
 ライカも小さくうなずき、手を握り返してくる。
「……ありがとう」
 少し、笑みが浮かぶ。
「……大丈夫」
 ルードは繰り返した。ライカと、そして自分自身を励ますように。

 焦る心、はやる心を抑えつつも、二人の思いはサラムレへと向いていた。世界に起きている異変を一刻も早く知りたい、という切なる思い。何より、ライカの願いとルードの使命を達成するには、異変を打破しないとといけないのだから。
 あとに続く〈帳〉は後ろを振り返る。北方を包むは、とてつもなく黒い空。
(あの空の下はどうなっているというのだろうか? そしてハーン、あなたほどの人物が、どうしたというのだ……?)

 ルード、ライカ、〈帳〉。彼ら一行はサラムレを目指す。
 馬達もまた、後方の凶兆を恐れるかのように地を蹴るのだった。

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八.

 同じ頃、七月三日。北方のクロンの宿り。
 大いなる災いはいよいよ現実のものとなろうとしていた。

 昨晩、ハーンはスティン山道の手前にある野営地で魔物を倒したものの気を失ってしまった。その後ディエルは旅商達の力を借り、ハーンを連れてクロンの宿りに戻って来ていた。〈緑の浜〉の主人ナスタデンのもとにハーンを連れていったのは、またしても夜が明けきらないうちだった。寝ぼけまなこのナスタデンは、朝早くの来客に文句をたれるどころか、ただ驚きの声を上げるばかりだった。
[ハーン?! どうしちまったんだよ!]
 馬上に横たわるハーンを見て、ナスタデンが言った第一声である。

 夜が明けて、昼が過ぎ、夕方が近づいてもハーンは目覚めなかった。昼頃にただ一度、何がしかのうめき声を上げたのを除いて。その間中、ディエルはハーンの傍らで様子を窺っていた。
 ただしディエルの心にあるのは、いかにして“力”を入手するか、ということと、いかにしてこの世界から一刻も早く抜け出すか、ということ。滅びを迎えようとしている世界の住民に同情している余地など無かった。

 どたどたと廊下を歩く音が聞こえ、どんどん、と荒っぽく部屋の扉が叩かれた。
[ハーンは? まだ起きてないのか?]
 外から聞こえるナスタデンの声は、どこか焦っているようにも感じられる。
 ディエルはとたとたと戸口に近づくと、少しだけ扉を開けた。ナスタデンは扉を開けてハーンに近づくと、彼の肩を持って揺り動かす。
[頼むから起きてくれ、ハーンよ!]
[無理だと思うよ? 何回も試したけど、全然起きないんだ]
 ナスタデンはハーンを起こそうと色々試したが、やはりハーンは目覚めなかった。
[こんな時なのに、ハーン! お前の力が必要なのに!]
 首を振り、諦めた主人は部屋から出ようとした。
[あんた!]
 朗らかな表情を浮かべた夫人がナスタデンと鉢合わせた。
[あんた、大丈夫だよ。“あれ”はゼルマンが倒したって、今ベクトから聞いたんだよ]
[本当か!? ゼルマンが……ならよかった……]
 ナスタデンは安堵の溜息をついた
[ほんと、一時はどうなることかと思ったがな……みんな大丈夫なのか?]
[ゼルマンも、肩を怪我したらしいけど大丈夫だってよ]
 と夫人。
[で、……ハーンはずうっとお休みのままなのかい?]
[ああ、まだだめだ。よっぽど疲れているのか……とにかく一難は去ったんだ、ハーンは寝かせておこう]
 ナスタデンは言った。
[ねえ、一難って……何があったんだよ?]
 ディエルが訊く。
[得体の知れない……化けもんがな……あれはもう、化けもんとしか言いようがないが――とにかく熊みたいな化けもんがクロンの外壁に突進してきてよ、衛兵が何人かやられちまった。……あんな恐ろしい目に遭うのはたくさんだ! あんな動物がいるなんて、聞いたこともないぜ!]
[化け物だって?]とディエル。
[でも大丈夫だよ]
 夫とディエルをなだめるように、夫人が落ち着いた口調で言った。
[過ぎたことだ。……ディエル、脅かしちまって悪かったね。ハーンのこと、見てやっておくれよ?]
 夫人は、未だ激している夫の背中をぽんぽんと叩きながら、部屋を出ていった。

「化けもんねぇ……。まぁ、並のバイラルが倒せるくらいだから、大したやつじゃあないんだろうな」
 静かになった部屋の中、ディエルはひとりごちた。
「でも、これからこの世界、さらに荒れてくるんだろうな。それだけは間違いない……」
 ディエルの予感はやがて現実のものとなり、フェル・アルム北部を震撼させることとなる。

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