『フェル・アルム刻記』 第二部 “濁流”

§ 挿話 その、前日のこと

 水の街サラムレにて。
 小さな旅籠のベッドに突っ伏したまま、ルミエールは物思いに沈んでいた。サイファとエヤードとともに、この街に来るまでの間にも、彼女は自分の目で混乱の最中にあるフェル・アルムのさまを目の当たりにしてきた。
 突如出現してくる異形の化け物。言葉の変遷。
 そして、それらの変動に自身が耐えきれず、心が虚ろになってしまった人々。それとは逆に、神君ユクツェルノイレに盲目的なまでの救いを求めて祈りを捧げる人々。
 それらは、今までのフェル・アルムを否定しかねないほどの強烈な混乱であった。
 フェル・アルムはこの先どうなってしまうのか? それは、自分の中でもうまく考えがまとまり切れていない。
 それなのに、先ほどさらに衝撃的な報を伝え聞いたのだ。

『北方に巣くうニーヴルを倒すため、烈火は挙兵したのだ』と。サラムレの街中は、すでにその話題でわき返っていた。
「デルネアは――あの烈火の将軍は、いったい何をしでかそうと考えている?」
 デルネアが野心を抱いていることを知ったが、未だ彼の思惑が見えてこない。フェル・アルムへの反逆を企てるのであれば、烈火の戦力を得た時点でアヴィザノを陥落せしめていたはずだ。最強を誇る烈火に敵う兵力など、フェル・アルムには存在しないのだから。
 だからこそ、彼の行動がおそろしく不気味なものに感じられる。
(デルネアの真意は突き止めなければならないのだけれど……。怖い!)
 ルミエールは自分自身を守るかのように、両の肩をぎゅっと握りしめた。

 烈火の行軍はことのほか早く、サイファ達がサラムレに着いたと時を同じくして、烈火は街をあとにしようとしていたのだ。烈火が向かっていたのは、サラムレ東方の水門。東回りのルシェン街道に沿って、ウェスティンの地を経て北方に向かうというのだろう。
 ルミエールとエヤードは、烈火の後を追おうとしたが、水門に向かうための全ての船は二千からなる烈火が占拠しており、二人は烈火を目の当たりにしながらもなすすべなく、ただ呆然と見送るしかなかった。
 そして――街を立ち去る烈火のしんがりに、“彼”を見つけたのだ。そして、“彼”のほうも、こちらのほうを一瞥したのだった。その時の狼狽した表情が忘れられない。およそ、宮中で見せている趣とは異なっているのだが――。
 黒づくめの衣装に身をまとってはいるが、“彼”には宮中で幾度か顔を合わせている。つまり司祭に。
(なぜ、司祭が烈火と行動をともにしているの?)
 自分の心に問うてみても、答えなど出るはずがない。やはり、直接司祭に話を訊くしかすべはないだろう。しかし、怖かった。
(顔が知れてしまった……私とエヤードがここにいるということが。その場にサイファが居合わせなかったのが、せめてもの救いではあるけれど)
 ルミエールは、ガタガタと震えている自分に気がついた。
(なぜ、私はこんなに怖がっているのかしら? 分からない、けど不安でしようがない!)

 その時、ルミエールの部屋の扉が軽く叩かれた。
「……誰?」
 ルミエールは半ば警戒し、剣を手元にたぐり寄せながらも問いかけた。
「俺だ。エヤードだ。……少し、いいかな?」
 その声を聞いて、ルミエールは安堵の溜息をついた。
「ええ、入ってきてもいいわよ。父上」
 だが、エヤードの様子を見るなり、彼女はひどく狼狽した。エヤードの左腕には自分で巻いたのだろうか、包帯が巻かれており、未だに血がにじんできていたのだから。
「どうしたの?!」
「……大丈夫だ。腕をかすっただけだからな」
 エヤードはぎこちなく笑ったが、やはり無理をしているようだ。
「とにかくここに腰掛けて。新しい包帯を巻いてあげるから」
「すまないな……そうしてくれると助かる……」
 そういって腰掛けると、エヤードはがっしりとした腕を差し出した。ルミエールは傷口を痛めないように、丁寧に包帯を解いていく。二人のやりとりは、隊長と部下ではなく、娘と父のそれであった。
「かすっただけなんて嘘じゃない。この傷は一体どうしたの」
 ルミエールは顔をしかめた。傷自体は大したことがないようにも見えるのだが、その細い筋のような傷は、その実、骨が届くくらいの深さまで達しているようだ。剣の、しかも暗殺のための剣の扱いに卓越した者の仕業であることが、剣士であるルミエールには分かった。
「さっき、街中を歩いていて、ぶつかってきた奴がいた。そのぶつかりざまに剣でざっくりとやられたのだが……あれは間違いなく殺人のための剣さばき。疾風とみて間違いない。もし、俺の避けるのが遅かったら、どうなっていたことか」
 エヤードは、新しい包帯の慣れない感触に顔を歪ませながらも答えた。
「疾風?!」
 ルミエールは声を押し殺しつつも、驚きを隠せなかった。フェル・アルムの歴史に暗躍してきた疾風といえど、彼らが理由もなく殺人を行うはずがないのだから。
「なぜ、疾風が……あなたを襲ったというの……」
「誰の差し金かは……司祭殿を置いて考えられないな。これは烈火の……奴らなりの……一種の警告みたいなものだろう。『追いかけてくるな』という……」
 ルミエールの胸中が、恐怖のためにきりりとうずくのを感じた。
「やはりあの時――私達が烈火を追って司祭殿と会った時に、私達の顔は知れてしまったのね。でも、司祭殿に私達が烈火を追っていると知られたとしても、同じ宮中の人間に対して刃を向けるなんて、そんなことが考えられる?」
「もはや、奴らには宮中の人間だろうが関係ないんだろうさ。目的のためには容赦なく命令を実行する。何が目的なのかは、皆目見当も付かないが……しかし、デルネアの暴走はくい止めなきゃあならない」
 エヤードはルミエールを見つめた。
「すでに、東の水門から出るための船は確保した。ルミエール。俺と一緒に街を出よう」
「え……サイファは……? 置いていくというの?」
 エヤードはうなずいた。
「ルイエをお護り申し上げることこそ、誉れ高き近衛兵の任務。しかしながら、今、俺達と行動をともにするということが、逆にサイファにも害が及ぶことになりかねないんだ。だから不本意ではあるけれども、俺達だけでデルネアの思惑を突き止める。サイファには、俺達が帰ってくるまでここで待ってもらうんだ。あの子がルイエとして行動を起こすのは、それからでも十分だ」

「……たしかに、近衛兵としては殊勝な心がけだな!」
 その時、サイファがノックもせずに部屋に入ってきた。
「サイファ!」
 エヤードとルミエールの驚きの声が、思わず重なる。
「いったい……いつから話を聞いてたの?」
「父上と疾風がうんぬんのあたりから、かな!」
 サイファは憮然とした表情のまま、どすんとベッドに腰掛け、足を組んだ。見るからに機嫌を損ねているのが明らかだ。
「私を置いていくというのか?」
 口をとがらせ、サイファはぎろりとエヤードを睨んだ。
「いや、しかし陛下の身に何かあってからでは……」
 そこまで言ってエヤードは言葉を止めた。サイファが唇をかみしめ、わなわなと震えているからだ。サイファはエヤードをきっと見据えると言い放った。
「ルイエではない! 今の私は、サイファだと、言っているだろう!」
「サイファ、ちょっと、落ち着きなさいよ」
「こう見えても、私はいたって冷静なつもりだぞ! ルミ!」
 顔を赤くして怒るそのさまは、激昂しているようにしか見えなかった。サイファの感情の起伏が激しいというのは、ルミエールも長年のつきあいでよく分かっているが、ここまでサイファが怒りを露わにするのも珍しいことである。さすがのルミエールも、ただ狼狽するしかなかった。
「……分かったよ、サイファ」
 エヤードが言った。
「たしかに、俺のほうが間違っていたのかもしれない。今の俺達はマズナフ一家だ。どんなことがあっても、娘を置いて先に進むなんてことは出来ないよな? サイファ」
「分かってくれればいい。そしてありがとう。家族としてみてくれているのが何より嬉しいんだ。私の……わがままなのかもしれないけど、家族というのがこんなに心地いいものなんだとは、長いこと忘れていたような気がする」
 サイファはばつが悪そうにそっぽを向いた。
「約束して欲しい。もうこんな抜け駆けなどしない、と」
「ええ、では……神君に……いえ、サイファにかけて、抜け駆けなどしないことを誓うわ」
「私などにかけても、誓いに効力など無いかもしれないぞ?」
 そう言いつつも、サイファはどこか嬉しそうだった。

 フェル・アルムにおいては、物事を誓う時、まず神君ユクツェルノイレに対して誓うのが慣習となっているのだ。
しかし、今のルミエールにはなぜかそれが躊躇われた。
(やはりサイファと同じように、心の底で私も神君の存在を疑っているに違いない。こうまでまざまざとフェル・アルムの実状を目の当たりにしてしまうと、今までの平穏な千年間がまるで意図的に作られたもののようにすら思える)
 ルミエールは思った。

 その夜。
 サイファ達は水門をくぐり、クレン・ウールン河の静かに流れる音を左手に聞きながら、漆黒に包まれた街道を歩き始めた。この先にあるのはウェスティンの地。十三年前に戦いが繰り広げられた悲劇の平原である。烈火はそこで逗留しているのだ。もちろん、デルネアその人も陣を構えているに違いない。彼は今、何を思って平原に留まっているのか?

 今までだって、不吉とされる“刻無き時”を徹して旅を続けていたが、こうも不安や恐怖にとらわれることなど無かった。サイファは無意識のうちに胸元の飾りを――ジルからもらった珠を――探っていた。言葉にこそ出さないものの、彼女も恐怖を覚えていたのだ。それは、彼女自身が未だかつて感じたことのない、死への恐怖だった。
 エヤードは疾風に襲われたのだ。デルネアに真相を問いただす前に、あの野心家の暴走を止める前に、自分がやられるかもしれない――そんな恐怖心がサイファを苛んでいた。
 しかしながら、それでも前に進むしか道はないのだ。このまま引き返して、アヴィザノの宮中で烈火の報せを待つのも一つの手かもしれない。烈火のはたらきによって、再び平穏たるフェル・アルムが戻るというのならば、それでもいいだろう。
 しかし、それが真実を隠蔽したままの平穏であることをサイファは知っている。そして、そのようなかりそめの平穏は、いずれ大きな悲劇や災厄を招くであろうことを予感していた。それだけは絶対に避けなければならない。だからこそ、自分達は恐怖に駆られつつも進むのだ。
 自分ひとりでは弱いかもしれないが、支えてくれる人々が、エヤードにルミがいるのだから。

 だが、その彼らを失った時、自分はどうするのか。
 そればかりは考えたくもなかった。
 そして次の日の夜となる――。

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