『赤のミスティンキル』 第一部

§ 第四章 龍王イリリエン

(一)

 龍《ドゥール・サウベレーン》
 その風貌は、巨大なトカゲが大コウモリの翼を得た姿を連想させる。しかし、龍を獣として捉える人間はアリューザ・ガルドにいない。龍は生けるもの達の中でも超越した存在なのだから。
 無双の猛々しさと膨大な魔力、深遠たる知性を所有する龍にかなう人間など、数少ない例外を除いてありはしないだろう。太古の時分から現在に至るまで、龍とはまさしく畏怖と驚異の象徴なのだ。
 龍は孤高の存在であり、生まれ故郷の“炎の界《デ・イグ》”にあっても、またアリューザ・ガルドにあっても、他の者を寄せ付けることなくひっそりと棲んでいるという。しかし、彼らは世の中に背を向けているわけではない。冥王降臨の折りに“魔界《サビュラヘム》”に攻め入ったり、魔導師に協力してラミシスの魔法障壁を打ち破ったりと、情勢によっては率先して動くこともある。

 龍の姿態に酷似した生物として竜《ゾアヴァンゲル》が存在する。“龍もどき”とも言われるこの巨大な化け物は、人に害をなすものとして恐れられている。獣達の長として認識されるのがゾアヴァンゲルだ。しかし、ゾアヴァンゲルは所詮獣の域を出る生物ではない。
 古来より、竜殺しの勇者を讃えた伝承は世界中に数多く伝わっているが、龍を倒した者となると皆無に等しい。龍はよほどのことがない限り人間に危害を加えるようなことをしないし、そもそも龍の強大さを一介の人間と比較しようとすること自体、見当違いも甚だしいというものだ。

 龍の体内には灼熱の炎が宿っているという。この炎が、自身の魔力の産物なのか、それとも“炎の界《デ・イグ》”から転移されてくる異次元の炎なのか、それは定かではない。確かなのは、激昂した龍の放つ業火に巻かれれば一巻の終わりであるということだ。
 龍達の語ることには注意を払わなければならない。龍の言葉そのものに魔力が込められているために、何も警戒しない人間が接すれば、たやすく虜となってしまうだろう――。

◆◆◆◆

 その驚異の存在が“炎の界《デ・イグ》”の空間を飛び交っている。そして何より――人間大の姿に化身しているとはいえ――自分達と対峙しているのだ。
【そう怯えなくてもいいだろう? わしの姿が怖いか?】
 龍の衛士アザスタンはこう言った。はた目にはわずかに震えているようにも見えるのだが、それは龍を目の前にして気圧されたためではない。
 “炎の司”という確固たる地位を手に入れること。
 龍という存在そのものになること。
 九ヶ月前に旅を始めてからこのかた、ずっと待ち望んでたときがいよいよ訪れようとしていることを知ったミスティンキルは胸が詰まる思いだった。
 だが一方で彼は内心首をかしげるのだ。
(ひょっとして、おれの願いの一つというのは、すでに叶っちまったんだろうか?)
 この龍、アザスタンは【試練を乗り越えた】などと言ったが、試練などいつ受けたというのか、ミスティンキル自身には全く身に覚えがなかった。だが、彼の背に生える龍の翼こそ、炎の司であることのれっきとした証拠に他ならない。

 ウィムリーフは、というと――龍という希有な存在を目の当たりにして、冒険家としてこの上ない願いが実現したことに格別の思いがあるのだろう、彼女の喜びようが見て取れるようだ。
「怖がるなんてとんでもない! ドゥール・サウベレーンとこうして話すことが出来るなんて、それこそ夢が叶ったというものだもの……あ、あたしはウィムリーフ。で、こちらがミスティンキルです。見てのとおり、アイバーフィンとドゥロームの組み合わせなんだけれど、おかしなものでしょう? でもあたしたちはこの半年近く……」
 ウィムリーフは頼まれもしないのに、早口で衛士に語りかけた。緊張しているわけではない、が舞い上がっているのは一目瞭然だ。たぶん彼女は吟遊詩人の伝承に出てくる英雄達のことを想起し、それらを今の自分に投影しているに違いない。
 普段の彼女らしくなく、声がうわずって聞こえるのが、かえってほほえましくも思えるのだが。
 そんなウィムリーフの様子に苦笑しながら、ミスティンキルもまた声を発した。
 この二人の適応性は大したものだといえる。静寂なこの空間にあっては音を発すること自体が出来ないものだと思って当然なのだが、彼らは自らの声を音を伴って発しているのだから。
「ウィム、落ち着けって。今からそう興奮してどうするんだよ。おれたちはこれから、イリリエンに会おうっていうんだぜ? そんなことじゃあ龍王を前にしたとき、ひっくり返っちまうだろうに」

【龍王様に会う、と?】
 ミスティンキルの言葉を聞いたアザスタンは即座に反応した。
「ああそうだ。おれは龍王にお目にかかりたい。ぜひ、訊いておきたいことが……いや、訊かなきゃならないことがあるんだ」
 ミスティンキルの頭に浮かんだのは、旅商達やエマク丘陵に住むドゥローム達の不安な面持ちと、狭量な“司の長”達が差し向ける蔑みのまなざしだった。
 “色が褪せる”というアリューザ・ガルドの異変を解決するのは、ことによると自分なのかもしれない。高慢と同情、期待と不安という複数の感情がミスティンキルの心中に折り重なる。
【ふむ。ならば、わしについてくるのだ。龍王様もお会いくださるかもしれぬ】
 龍は、必要なこと以外の言葉を発しないという。アザスタンはそれだけ言い放つと、身を翻して翼を広げて飛び立った。それまで龍が立っていたあたりの炎が、風に巻かれたかのように揺らめく。アザスタンはかなりの速さで滑空しているのだろう。見る見るうちに姿が小さくなっていった。向かう先は、きらきらと赤い輝きを放ちながら宙に浮かぶ巨大な球体。やはり思ったとおり、あの中にイリリエンがいるのだ。
 ぽつんと取り残された格好となった二人にアザスタンからの言葉が届いた。
【ついてこい、と言ったぞ。……じきにこの周囲は嵐に巻かれる。炎に飲み込まれ、世界の彼方にまで吹き飛ばされたくなければ早くすることだ】
「ま、待ってよ! さっきあなた、試練を乗り越えたって言ったじゃない? あれはどういうことなの? 試練があったなんて全然分からなかったのに!」
 ウィムリーフもまた、ミスティンキルと同じ疑問を持っていたのだ。あたふたとしつつ、銀髪の娘は翼をはためかせて蒼龍の後を追い、答えを聞き出そうとした。が、当のアザスタンは言葉を返すことなく王の住まいへと、ただまっすぐ向かうのみ。

 あとに残ったのはミスティンキルひとりとなってしまった。
「あいつ、ひとりで浮かれてやがるなぁ」
 やれやれと、黒い翼を広げて彼もまた宙に舞った。今まで自分の力で飛んだことなどもちろん無い。そのために、空を飛ぶことについてかすかな違和感があったが、じきに消え失せた。背中に得た龍の翼は思うままに羽ばたき、飛んでくれる。もはや自分の体の一部なのだ。
 試練に打ち勝ったドゥロームは龍の翼を得て、今や炎の司となった。

 そういえば――。
 炎をかき分けて飛びつつ、ミスティンキルは漠然ながら“試練”のことを思い出していた。確かに自分は試練を受けたのだ。
 アリューザ・ガルドからこの世界に転移したとき、つまり<赤い思念体>を象って炎の界に顕現したとき、この世界の炎達は激しい業火となって自分達に襲いかかった。あれがおそらくは試練だったのだろう。あのとき自分は抗うことなく、炎に身をゆだね、また一見不条理とも思えるこの世界特有の理《ことわり》を、ごく当たり前のものとして受け入れた。
 その瞬間、炎の理はミスティンキルの知るところとなり、炎の力は彼のものとなった。それを経ているからこそ今、自分達は“炎の界《デ・イグ》”の中心部に存在出来ている。ミスティンキルはそう悟った。思う間もなく試練を乗り越えてしまったことにいささか拍子抜けしながら。
 だが、ふつうのドゥロームであればもっと長いこと試練に苦しみ、その果てに理を掴むものなのだ。しかし、この赤い力の持ち主はいともたやすく試練に打ち勝った。それもまたミスティンキルが元来持っている力の強さ故であるのだが、当の本人はまったく気づいていない。

 ようやくミスティンキルは、先行していたウィムリーフに追いついた。みるとウィムリーフの息はやや上がっているようだ。空を自在に舞う彼女にしては、らしくない。ウィムリーフは、ミスティンキルのそばに寄ってきた。
「あれ……不思議ね。今まで暑くてたまらなかったのに、あんたが来たとたん涼しくなったわ。ミストは、飛んでいて暑くなかった?」
 ミスティンキルがかぶりを振るのを見て、ウィムリーフはさも不思議そうに首を左右にかしげた。
 再び、アザスタンからの声が届く。
【そのミスティンキル……からあまり離れないことだな。ウィムリーフ、おぬしは炎の試練を乗り越えて理を知ったわけではないのだ。今までこの世界でお前自身を維持出来ていたのは、ミスティンキルの守りがあったためだ。距離が離れればその守りも薄くなり、やがては炎に焼かれてしまう】
 それを聞いたウィムリーフは目を丸くし、さらにミスティンキルに体を寄り合わせるのだった。
「そんな怖いことを淡々と言わないでよ! じゃあなに、今あと少しであたしの体は燃えるところだったっていうわけ? ちょっと、聞いてるの? アザスタン!」
【はっは……。龍に対しても怯むことのないその堂々とした言い様、わしは気に入ったぞ、アイバーフィンの娘よ。……まあ、ぬしの言うとおりだ。お前がいくら風の王じきじきの加護を得ているからといって、炎の世界を見くびると痛い目に遭うというもの。それを心に留め置くのだな。だからこそ、わしも前もって注意しなかったのだ】
 それを聞いたウィムリーフは、むう、と一言唸った。
「あたしとしたことが、すっかり増長しちゃってた、なんてね……。それに、あたしの力はやっぱり、ミストには敵わないのか……」
 ウィムリーフにしてはめずらしく自嘲気味に言った。その表情にはややかげりすらも伺えたがそれも一瞬、ミスティンキルが知るいつもどおりの彼女へ戻った。

 荒れ狂う炎の力が徐々に強まっていくのをミスティンキルは感じ取った。アザスタンがさきに言ったとおり、じきに嵐がやってくるのだろう。ミスティンキルは、ウィムリーフに一声かけると飛ぶ速度を増した。
 深紅に煌めく水晶球の威容が近づいてくる。

◆◆◆◆

 黒い翼を得た赤い力の使い手と、白い翼を羽ばたかせる青い力の持ち主はともに横に並んで宙を疾駆し、龍戦士の後を追っていた。ちらと後ろを振り返ると、先ほどまで自分達がいただろう空間には、ふつふつとたぎる溶岩を思わせる重厚な炎の塊が出現していた。その塊は飴か粘土のように空間一面に拡散すると、質量をまるで感じさせないかのように激しく吹き荒れた。飛び立つのがもう少し遅ければ、アリューザ・ガルドではおよそ想像もつかない、あの異様な嵐に飲まれてしまっていたのだろう。

 前方、彼らの視界には、いよいよ眼前に迫ったイリリエンの住まう球体のみが映る。ミスティンキルの故郷であるドゥノーン島が、丸ごと球の中に収まってしまうかのように思えるほど、途方もなく大きい。遠くから見たときは分からなかったが、この深紅の太陽は完全な球体ではなく、多面体のように表面が削られているように見える。その表面のあちらこちらでは、赤や橙、はたまた白など色とりどりの炎がとぐろを巻き、時折高々と火柱を突き上げると、そのたびに球体の面は光り輝くのだった。

 この球の近くには何匹かの龍が飛び交っていた。彼らは見慣れない人間達が来たことを察知すると、二人のすぐそばまでやってくる。いかつい龍鱗を持つ赤龍や、すらりとした体躯が美しい銀龍、さきほど会ったことのある小柄な白龍など、ひとくくりに龍と言っても彼らの容姿は様々だ。
 ここの龍達には敵意を感じない。龍達はそれぞれ思い思いに二人の周りを飛び交う。その威風堂々とした様に、二人はすっかり魅了されるのだった。
 ふとミスティンキルは、銀龍の大きな瞳と目があった。瞳の色こそ違えど、その瞳孔は縦に細長く切れている。――自分と同じように。おれもいずれ、このような龍の姿を持つことになるのだろうか、とミスティンキルは思った。
 龍達の中でも一番の巨躯を持つ赤龍がアザスタンの横に並ぶと彼に話しかける。横に並ぶと言っても、たとえるのならば巨岩と大鷹ほど、彼らの大きさには差異がある。
【ドゥロームと、さらにはアイバーフィンとは! さても珍しいものだ。先ほどから龍王様がお待ちのようだが、こいつらを待っていたというのかな。アザスタン、お前は何か知っているのか?】
 赤龍はしゃがれた低い声を発する。
【どうだろうか。かの方の心の内は、とらえどころがない炎そのものだ。あのドゥロームが龍王様に会いたいと言ったからわしはここに連れてきた。だが、今こうして力ある存在がデ・イグに顕現したというのは、何かしらの引き合わせなのかもしれんな】
【運命というものは私の関知するところではないが、それもまた楽しみなことだ】
 龍達は謎めいた会話を交わし、そして赤龍は身を翻して去っていった。

 そうこうするうちにアザスタンはとうとう球体の表面にたどり着いた。しかし彼は球体に降り立つ様子を見せず、また、飛ぶ速度を落とそうとしない。どうするのだろうかとミスティンキルが訝るうちに、龍の頭は球面に接触し――表面をすり抜けて中へと消えていった。
 ミスティンキル達も少し遅れて赤い水晶球に到着した。今し方のアザスタンの様子を見ていた彼らは炎の壁の間際で滞空し、どうしたものかと互いの顔を見合わせる。
 まずはウィムリーフがおそるおそる指先を壁に触れさせる。すると何の抵抗もなく、指先は壁の中に埋まる。
「面白い感じよ。ほら、お菓子の生地みたいにふわふわしててさ。……このでっかい丸全部がお菓子だったらすごいわよねえ?」
「こんなふうにめらめら燃えてる菓子なんか、誰が食べるってんだよ」
 ぶっきらぼうに言うミスティンキルは右の腕を壁に突入させる。すぐ横でウィムリーフが口をとがらせて不満を言うのを聞きながら。
「ふうん。生地、と言うよりはクリームだな、こいつは」
 ついに肩口まで壁に埋まった彼は、簡潔な感想を漏らしながらはい出した。この球体には入り口らしい扉や穴はない。ならば、この壁から中に入るほか無いのだ。先ほどアザスタンがそうしたように。
 ミスティンキルとウィムリーフは意を決して球体の表面に触れ、そのまま内部へ入っていくのだった。

 この中ではイリリエンが待つという。龍王との出会いがもたらすものは果たしてなんなのか、二人の若者は知るよしもない。

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(二)

 柔らかな表面から球の中に入るとそこは、手を伸ばしたわずか先の空間すら見通せない、炎の濃霧となっていた。そばにいるウィムリーフの顔さえかすんでよく見えない。だが、躊躇している場合ではない。アザスタンは先にこの中へと飛び込んでいるのだし、何より龍王が待っている。二人ははぐれないようにと手を取り、固く握りしめると、赤い闇の先を目指して羽ばたいた。彼女の感触はやや質感には乏しいが、それでもこうして触れられるというのは、物質界での姿を強く意識し続けていたためなのだろう。

 まるで雲の中を飛んでいるようだ、と真横からウィムリーフの声が聞こえる。その声色から、彼女は自分以上に気分が高揚しているに違いないとミスティンキルは思った。ウィムリーフにとって最初となるこの冒険行は、幾昼夜、机に向かっても書き足りないほどに貴重で、素晴らしい体験になることは間違いないのだから。
 逆にミスティンキルは浮かれがちな気分を抑え、努めて冷静になろうとしていた。龍王と対面した龍人が、果たして何人いるというのだろうか! 高ぶる鼓動を少しでも静めるために、彼は大きく息を吐いた。

 ようやく雲を突破したかと思うと、息つく間もなくまた眼前にはすぐ次の雲の層が立ちふさがっていた。幾層もの雲をかき分け、二人は疾駆する。
 しかしいくら行けども果てが見えない。これは“炎の界《デ・イグ》”のあやかしなのではないか、はたまたこのまま球を突き抜けて外に出てしまうのではないか、と不安がつのり始めた頃、ようやく二人の眼前の視界が開けたのだった。途端、雷鳴のような音が二人の鼓膜を響かせた。どうやらここから先は、静寂に覆われていたそれまでの空間とは明らかに異なっているようだ。
 ミスティンキルとウィムリーフはその場で滞空し、しばし空間の様子に――超常の景色に魅入った。

 広大な球内もまた外と同じく、炎によって形成され、橙色に彩られた空間が揺らめいている。だがここには、“炎の界《デ・イグ》”には無いはずのものがあった。土・水・風の要素が確立され、存在しているのだ。
 自分達が入ってきた場所以外の三方は、天上から底に至るまで白いカーテンが垂れているよう。だが、雷のような轟音を響かせるそれは、実のところ水によって形成されているのだ。はるか高みから轟き流れ落ちる、一面の大瀑布。滝底の様子は舞い上がる水煙に隠れ、ようとして知れない。
 この空間を吹き抜ける風が、滝の轟音と水を周囲一体に運ぶ。時折風は強く吹き、ミスティンキル達のところにまで水しぶきを届かせるのだが、“冷たい“という確かな感覚があるのは、かえって不思議に思えるのだった。球内を炎が支配しているというのに、熱さはまるで感じないのだから。
 中空には、岩山を得た島々がいくつか浮遊していた。島の間を時々走る閃光こそ、大地の力“龍脈”だ。これが島々を繋ぎとめ、浮かぶ力を与えているのだろうか。
 大地の力は水・風の力と融合し、島々の至る所に樹木を育んでいた。その枝葉は炎に彩られるが、決して木が燃え尽きることなど無い。

 四つの事象が融和したこの様相を、ミスティンキルは純粋に“美しい”と感じた。
 そしてこの空間の中央には炎の柱があった。球のはるか底から吹き上がっているそれは、中空で枝分かれし、中心部を守るかのように覆い囲んでいる。その中心部では、周囲の炎よりなお燦然と輝く炎が繭状に燃えているのが、枝越しからも見て取れる。あれこそが間違いなく――。

【力ある者よ。はらからの子――エウレ・デュアよ。来たな】
 繭の中から発されたのは力強い和音。奇麗な高音と打ち響く低音が折り重なるその音こそ、いと高き龍の声に他ならない。
 そして炎の繭は四散し、中から深紅の龍が――龍王イリリエンが姿を現した。と同時に、圧倒的な存在感から生じる、凄まじい力が二人を襲った。

◆◆◆◆

 古来より現代に至るまで、神々の姿をかいま見た人間はほんの一握りにしかならない。神と対峙し、かつ会話を交わした人間となれば、さらに。

 イリリエンの放つ莫大な神気に気圧されて、ミスティンキル達はまったく身動きがとれなくなってしまった。だが、それだけでもましと言える。かの龍こそは太古より生きる龍の王、そしてアリュゼル神族にも匹敵する力の持ち主。心弱き者は姿を直視するだけで、魂を簡単に抜かれてしまうだろうから。
――龍王様に対面するなどと大言壮語を吐きおって。お前などに出来るものか――
 “司の長”ラデュヘンの放った言葉が、単なる侮辱ではなかったことをミスティンキルは思い知った。龍王に会うということは、それなりの決意が必要なのだ。
 だが結果として、彼ら“司の長”が望んだところでイリリエンに会うことは叶わなかった。今、自分は出来た――。慢心ともいえる優越感が、頭をもたげようとしているのにミスティンキルは気づいた。それはある意味、痛快でもあった。“炎の界《デ・イグ》”は権威に寄りかかる長よりも、一介の漁師を選んだのだ。忌まわしいと言われ続けた、赤い力を持つ自分を。
「ようやくお出ましかい。龍王様」
 ミスティンキルはぽつりとつぶやくと、ほくそ笑んだ。
 だが。
【否。私は待っていたのだよ、同胞の子《エウレ・デュア》
 龍王はこのように言った。自分の些細な呟きが聞こえていたことを知り、ミスティンキルは驚いた。
【音として放たれた言葉は、多かれ少なかれ空間を揺らすということを知りおくのだな。ともあれ、苛烈な炎を乗り越えよくここまでたどり着いた。まさか風の司まで来ていようとは思いも寄らなかったものだが、嬉しく思うぞ。さあ、イリリエンのもとに来るがいい!】
 イリリエンの言葉とともに、ようやく体の呪縛が解けた二人の前には、再びアザスタンが空間を渡って現れた。アザスタンは二人を先導し、龍王の御前まで行くと飛び上がり、龍王の頭の横で滞空した。

 こうしてあらためて見上げると、イリリエンの巨躯にはやはり圧倒される。体は山のように大きく、アザスタンの龍戦士姿は、龍王の牙と同じくらいの大きさにしか見えない。
 炎の繭を打ち払ったとはいえ、イリリエンの体には常時炎が取り巻いている。
 ミスティンキルは、司の長の館で見た壁掛けを思い出した。長達が会議を行っていた部屋の奥にあった壁掛けの意匠は、炎に取り囲まれた雄々しい龍王が描かれていた。
 しかし、イリリエンの醸し出す雰囲気は猛々しいだけではなく、優雅さをも兼ね備えている。

 イリリエンの金色の瞳が二人をじいっと見つめ――龍王は声を放った。
【……私は力ある人間の来訪を待ち、デュンサアルの扉を介して呼び寄せようと試みていた。おそらくは、他の界の王達も同様に力ある者を呼び寄せていることだろうが、運命は私の方を向いていたようだな】
 龍の発声の仕組みというのは明らかに人間とは異なっているようだが、いくつもの音を同時に発するイリリエンの声は神秘そのものを具現化したかのようだ。男声と女声が調和してひとつの音楽をなす合唱にも似ている。アルトツァーンのどこかの街で祭りが催されていたとき、そのような音楽を聴いたことをミスティンキルは思い出していた。
「ひとつお訊きして……よろしいのでしょうか?」
 ウィムリーフの言葉に龍王は目を細め、肯定した。
「龍王様は、あたしたちが来ることを知ってらしたのですか?」
【名は……ミスティンキルにウィムリーフ、か。……今、ここにいるアザスタンから聞くまで、ぬしらの名前は知らなんだ。力を持つ者がデュンサアルに来ていたことのみ分かっていた。それがたまたま、ぬしらだったということだ】
 イリリエンはしばし風の司の娘を凝視した。ウィムリーフもまた、龍王の瞳を見つめるが、緊張の極致にあるさまがうかがい知れる。息を止め、まばたきひとつしようとしない。
【……なるほど、風の王は、ぬしがこちらに来ていることを知ったら残念がるであろうな。ぬしが今、“風の界《ラル》”に行っていれば、エンクィは間違いなくぬしに“使命”を与えたであろうに】
 イリリエンは即座にウィムリーフの力のほどを見抜いたのだ。
「ありがとうございます。……こうして龍王様のご尊顔を拝したこと……それだけであたしはもう、胸がいっぱいです……」
 念願叶ってイリリエンと会話が出来たことで、彼女は張りつめた緊張の糸がぷつりと切れたのか、くらりとバランスを崩し倒れてしまった。その体をミスティンキルは抱え上げる。

「龍王様。あなたならば知っていると思って……どうしても聞いておかなきゃならないことがあるんです」
 いよいよ自分が出る幕なのだ、と考えたミスティンキルが口を開いた。心臓の音が頭に響いてくるかのようだ。
「今、アリューザ・ガルドでは変なことが起きているんです。こういうことを言って信じてもらえるか分からないが、世界の色が褪せている。草の色や空の色まで……。こんなことは今まで生きてきてはじめてで、周りの人間もどうしたらいいものだか途方に暮れてしまっている。……どうしてこうなったのか、どうすれば元に戻るのか、その方法を知らないでしょうか?」
「……あのね、ミスト。いつも言ってるけれど、説明するにしてもそれじゃあまりに言葉が足りないのよ。今さらどうこう言ってもしようがないから、あたしがあらためて……」
 ミスティンキルの腕の中から彼を見上げ、いつもと変わらぬ様子でウィムリーフが諭しはじめる。またか、とミスティンキルは顔をしかめた。
【それには及ばぬ、“風の司”よ。我ら四界の王は、アリューザ・ガルドの情勢を見極めている。今、アリューザ・ガルドの色が褪せてきた原因も、それに対しなすべき手段も知っている。だが、我らやディトゥアの神々は、いかなる世界の潮流に対しても、自ら率先して新たな流れを作ることを禁じ手としている。運命を切り開く役割というのは、唯一人間のみ有しているのだ。四界の王が力ある人間の招来を願ったのは、なればこそ。使命を乗り越え、新しい流れを作るためである】
「だとすると、おれたちの手で、この異変を解決できるっていうんですか? どうやればいいんです?」
 龍王の語る言葉は漠然としており、ミスティンキルはすべてを把握しきれなかったが、これだけはつかみ取った。どうやら本当に、世界の異変を正すのは自分達にかかっているのだということが。
【ことの発端は、封印された強大な魔法の力――すなわち魔導によるものだ。なればこそ、唯一のすべは、おのずから見えてこよう? これにより事態は収拾し、新たな運命が切り開かれて行くであろう】
 龍王は言った。
【これは、力ある者だからこそ達成できることだ。……同胞の子《エウレ・デュア》よ。魔導を、解き放て!】

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(三)

 ――魔導の復活こそが、色を甦らせる唯一の手段だ――
 龍王イリリエンの言葉の意味するところが、ミスティンキルには理解出来なかった。
 生まれてからこのかた、彼は本物の魔法使いに出会ったことがない。ミスティンキルが見かける魔法というのは、盛り場界隈のまじない師達があやつる“まじない”くらいなものだ。しかし、彼らの操る魔法はおしなべて拙く効果に乏しく、ミスティンキルからすれば“うさんくさいもの”でしかなかった。

 かつて魔法の力は、今と比べものにならないほど強力だったという。
 今より七百年ほど遡り、アリューザ・ガルドには強大な魔法体系――つまり魔導が存在し、時の魔導師達によって研究が進められていた。
 だがある時、魔導を行使する源である魔力が制御できなくなり、膨大な魔力は氾濫を起こしてアリューザ・ガルドに壊滅的な打撃を与えた。これが世に言う、“魔導の暴走”だ。
 状況を憂い、暴走を食い止めたのは、ディトゥア神族の中でも闇を司るレオズスだった。しかし彼は“混沌”という太古の絶対的な力に魅入られており、その力を利用し(一方では利用され)アリューザ・ガルドを恐怖でもって君臨しようと企んだのだ。だが宵闇の公子の野望は、三人の英雄によって潰え去った。
 それ以降、魔導の体系はいずこかへ封印されて今日に至っている。

 これくらいであればミスティンキルも聞き知っていた。とくに大魔導師ウェインディル達が卓越した魔法と剣の技を繰り出し、ついに“宵闇の公子”レオズスを倒すくだりなどは、吟い手が好んで唄う勲《いさおし》のひとつで、ミスティンキルも気に入っていた。
 だがもはや“魔導の暴走”の災禍などは、遠く過ぎ去った大昔の事件でしかない。それ以上魔法に対して興味を見いだすこともなく、ミスティンキルは漁を営んできたのだ。
 魔法に興味を持たない他の人間達と同様、魔法と色の相関関係などをミスティンキルが知っているはずもない。
 だから今、イリリエンが与えようとしている使命に対して、「魔法なんて得体の知れないものなんか、手に負えない。出来るわけがない」と躊躇したとしても、それは仕方のないことなのだ。

 しかし、ミスティンキルは違った。
 彼はほんの一瞬だけ思考を巡らせると、こう答えるのだった。
「わかりました」

◆◆◆◆

「ええ?!」
 ウィムリーフは、いとも簡単に承諾してしまった龍人の腕の中で驚嘆の声をあげた。彼女は起きあがるとすぐさまミスティンキルに対峙する。
「ちょっと待ってよ。……こんな大事をそんな簡単に受けちゃっていいわけ?! それとも魔導が復活すれば、なぜ色が元通りになるのか、理由をミストは知ってるの? あたしは知らないけど……魔導と色との間に関係があるというの?」

「そんな難しいことは分からねえ」
 ミスティンキルは即座に言葉を返した。
「けれど、魔導を解き放つことしか世界の色を元通りにする方法がないってんなら、やってのけるしかないだろ。だいたい面白そうじゃねえか。おれたちが魔導を復活させた、なんていったら、それこそ歴史に名が残るに違いないぜ?」
 明らかに彼は状況を楽しんでいた。炎の司となったうえに、龍王はミスティンキルのことを“力ある者”として認め、使命を与えようとしたのだ。
 これに応えないわけにはいかない。ミスティンキルにとって躊躇うことなどみじんも考えられなかった。イリリエンから直々に認められたドゥロームなど、そうそういるわけがない! ひょっとしたら魔導の力すらも自分の手に入れることが出来るのかも知れないのだ。そうなれば、自分を蔑視しようなどとは誰も思わないだろう。
 自分の赤い瞳が嫌忌の象徴ではなく、多大なる力の象徴であることを、はっきりとミスティンキルは自覚した。
(アリューザ・ガルドに戻ったら、まず絶対に故郷に戻ってやる! そして……見せつけてやる!)
 鬱積していた感情はいまや払拭された。代わりに、少しばかりの高慢が現れたのだが、心の解放を感じ取っているミスティンキルがそれに気づくはずもなかった。

「……分からねえ……面白そう……」
 ウィムリーフは言葉を反復する。明らかに呆れかえっているのが見て取れる。彼女はため息をついて、次に大きく息を吸い込んだ。過去の経験から、この次の言動およそどういったものになるのか、ミスティンキルには見当がつく。
 そして、ミスティンキルの予測は違わなかった。
「ミスト! あんたはねえ、ろくに考えもせずに感情だけを突っ走らせて……そんな簡単に答えを出しちゃっていいと思ってるの?!」
 感情を露わにして声を張り上げすぎたと思ったのか、ウィムリーフは声の調子をやや落とした。
「……だいたい、魔導を復活させるなんてそんな大それたこと、あたしたちがやり遂げられるかどうか、分からないじゃないのよ」
「じゃあほかに、どうすればいい? おれたちの力を見込んでるからこそ、イリリエンはおれたちに使命を与えようとしてるんじゃねえのか? 理屈なんざ、あとまわしだ。せっかく苦労してここまでたどり着いたんだから、あともう少し、やってやろうじゃねえか。……なに、おれたちならば出来る。そう信じようぜ」

【……さて、元気があるというのはいいものだが……龍王様を御前にしながら勝手に口論をはじめるというのは感心しないぞ】
 上方からアザスタンが、珍しくもやや困惑した口調で言った。
【もっとも……蒼龍たるわしの炎を浴びてみたいというのなら、望みどおりそうもしようがな!】
 アザスタンは急に声色を変えた。人間とそう変わらない大きさのはずの彼の姿が、ひどく恐ろしく大きなものに見えてくる。蒼龍のイメージが、二人の脳裏に浮かび上がる。
 さすがに二人は喧嘩を取りやめた。ドゥール・サウベレーンの逆鱗に触れればどんな目に遭うのかは知らないが、無事では済まないことは確かだろう。

 だが、イリリエンは鼻から火の息を漏らしただけで、大して気にも留めていないようだった。龍王は淡々と和音を重ねた。
【……“風の司”の問いに対しては、私が答えられる。それで納得し、ぬし達が使命を受け入れることを願う。魔導についての知識は必要ない。……私とて魔導のことはよく解さない。封印を解く者の器の大きさこそが重要なのだ。そしてぬし達は十分に力を――魔力を持っておるぞ。おそらくはぬし達でなければこなせないだろう。色の再生という使命をな】
 龍王の言葉を聞いたウィムリーフは深々と頭を下げた。
「過分なお言葉を拝領し、ありがたく存じます。けれど、もう一つ教えていただけませんでしょうか? 魔法と色との関係について……。なぜ魔導の復活が、色の再生に関わっているのでしょうか?」

◆◆◆◆

 イリリエンは金色の目を細め、二人を見下ろしながら語り始めた。
【魔力とは、人間のみが持っているものではない。アリューザ・ガルドの世界そのものも魔力に満ちているのだ。たとえば草木、岩、河川など、ありとあらゆるものに大小の差異こそあれ魔力が宿っている。――そしてこれこそ、世界の核たる摂理よ。これを理解している人間など、今の世にいるかどうか訝しいが。かつての魔導師達は、おのが魔力のみならず、これら事物に宿る魔力をも抽出し、術を行使していたようだ】

【そして魔法と色とは密接に結びついている。なぜならば色とは、魔力そのものを帯びているからだ。それはアリューザ・ガルド創造の折り、それまで色の存在があり得なかった世界に、いずこからともなく色が流入したことによるのだ。魔力を伴った“原初の色”と呼ばれる色の帯が互いに織り編まれていくことでアリューザ・ガルドは彩られ、魔力に満ちていった】

【創世の時が終わりを告げると、“原初の色”は事物の奥深くに隠れ、表層には現れなくなった。しかし依然“原初の色”は確かに存在する。“留まる色”と“流転する色”とになってな。“留まる色”は、事物の奥深くに内包されることで恒久的に魔力と色をもたらす。一方、“流転する色”は世界の深層部を流れている。そして“原初の色”を常に循環させて、事物に鮮やかな彩りを保たせているのだ】

【川の流れが止まれば、清流は濁ってしまうもの。同様に、“原初の色”の流れが淀んでしまえば、世界の色もくすんでしまうのだ。かつての人間が“魔導の暴走”を経て、力ある魔導を封じたのはいい。……が彼らはそれと知らず、“流転する色”をもせき止めてしまった。幾百年を越えた今、その影響が現れ始めたのだ。これが世界に起こりつつある異変の原因よ】
 だからこそ、“原初の色”の流れの閉塞を解くためには、魔導を解放するほか無い。
 龍王の言葉にウィムリーフは納得したようだ。
 ミスティンキルはあとでウィムリーフに教えてもらおうと思った。龍の言葉はまどろっこしく、なかなか意味を把握できない。加えてべつに世界の構造についての説明を受けなくても、ミスティンキルは使命を受諾するつもりだったのだ。

「ではこのまま色あせたままだと、アリューザ・ガルドから魔力は無くなってしまうというのですか?」
 ウィムリーフの問いかけを龍王は否定した。
【魔力の全喪失となれば、色の概念そのものが無くなることを意味する。幸いにもそのような事態には至っておらぬ。“留まる色”が依然存在し続けているゆえにな。――よって事態そのものは、世界を根本から揺るがす大事――破滅には至らない】
「けれども突然起きたこの異変のことを、人々は非常に恐れています。凶事の前触れなのかとか、何かの呪いが発動したのか、とか考えている人も多くいるようですし、あたしも不安でした。……不安が募った人間達によって、かえって大事が引き起こされる可能性というのも考えられます」
 それを聞いた龍王は満足して、笑ったかのようにも思えた。
【ふむ、鋭い感性よな、“風の司”。ぬしの言うとおりだ。突如変容した事態をたやすく許容できるほどに、人間の心とは柔軟かつ強いと言えるか? それはぬしら人間であれば承知のことだろう】
 人心が不安に陥れば、それを巧みに利用しようとする輩も現れるだろう。冥王降臨をとなえる崇拝者も出てくるだろうし、戦乱の世を望む野心に満ちた者も出てくるかも知れない。過去の歴史が証明しているように。

「そうならないためにも、おれたちが魔導を解き放って、世界の色を元通りにしてみせる!」
 ミスティンキルは言った。
「なあウィム。こいつはとんでもない大冒険ってやつだぜ。やってみようじゃないか」
 ウィムリーフはくすりと笑った。
「面白そう……か。さっきミストの言ったこと、確かにそのとおりかもね。ともあれまあ、冒険記の編纂にはだいぶ手間取りそうね……あんたにももちろん手伝ってもらうわよ」
「手伝えって……おれは、字の読み書きなんて得意じゃないぞ」
「あら、じゃああたしが教えてあげるわ。出来ないなんて言わせないからね。さっきから自信満々に言ってのけてるんだから、これもやってのけてちょうだいな!」
 まず最初に故郷に戻るというミスティンキルの予定は、早くも崩れそうになっている。が、ミスティンキルも言い返すことが出来ず、観念するほか無かった。
 小悪魔のように笑ったウィムリーフは次に畏まり、右手を胸に当てて龍王に誓った。
「わかりました、龍王様。この変事に際して、あたしたちは微力を尽くしたいと思います」
「……やるよ。龍王様」
 やや意気消沈したミスティンキルが続けて言った。

【なれば今こそ、ぬしらが為すべきことを告げようぞ!】
 龍王は高らかに声をあげた。

◆◆◆◆

【この周りを見てのとおり、我が宮殿には炎のみならず、風・水・土の界の力が集っている。なぜならそれは、三界とデ・イグとを繋ぐ“次元の扉”がこの宮にはあるからだ】
 天上から流れ落ちる滝と、浮かぶ島々、そして吹き抜ける風は、“炎の界《デ・イグ》”では本来あり得ない存在だ。しかしこの球内に限っては、三界の事象が次元の壁を乗り越えてもたらされている。
【そしてそれ以外にも、いくつかの次元へ繋がる“扉”がある。力持つ若きエウレ・デュア《はらからの子》よ。“風の司”よ。私がぬしらに与える使命は、月に行き、その地に封印された魔導を解き放つことだ】
「月だって?」
 ミスティンキルはあっけにとられた。
「あの、空に浮かんでいる月ですか?」
【アリューザ・ガルドの天上に浮かぶ星々とは、諸次元が放つ煌めきだ。この“炎の界《デ・イグ》”とて、アリューザ・ガルドから見れば煌々と光る星々のひとつなのだ。そして月もまた同じ。かの世界はアリューザ・ガルドと近しい位置に存在するため、ああも大きく見え、行き来も比較的たやすい。だからこそ人間は魔導をあの地に封印したのであろうな】
 色のことや星のこと。その存在があまりにも当たり前だったために大して考えもしなかったことなのに、こうして聞く真実はあまりにも突飛なものだった。ミスティンキルもウィムリーフもぽかんと口を開けるほか無い。
「……書くことがまた増えたわ」
 ウィムリーフの呟きが聞こえる。
「その月へ、どうやって行けばいいというんですか? アリューザ・ガルドに戻って、おれたちの翼で飛んで行けとでも?」
 ミスティンキルが問いかけると、龍王はその雄大な二枚の翼を大きく横に広げる。と、翼からは竜巻のような螺旋を巻く炎が出現した。その炎は肥大化し、ミスティンキル達を包み込んだ次の瞬間、辺りの景色は一変した。

 美しい遠景は今までどおり変化はなかったものの、ミスティンキル達を取り巻く赤い情景は消え失せ、かわって一帯は暗黒の空間と化した。
 アリューザ・ガルドの奇麗な夜空を想起させるこの空間は、実のところ宇宙そのものと繋がっているのだろう。数え切れないほどの星々が全天に姿を見せている。これらすべてが他の次元の世界の放っている煌めきだというのだ。
 真上を見上げると、ちょうど天頂にあたる部分に一つの門が出現していた。壮麗な二本の柱によって象られたその門は淡く銀色に輝いている。――月そのものを彷彿とさせるような、神秘的な色だ。
【この扉を越えれば月の世界へと転移する。その際に唱えよ。『ナク・エヴィエネテ』とな。……心の準備が出来たのなら、飛び立つがいい。あの地からアリューザ・ガルドへ戻るすべは、月に住む“自由なる者”が知っている】

 ミスティンキルは思い出した。時は今しかない。ミスティンキルに残されたもう一つの願いを果たすには。
「イリリエン、今ひとつ聞きたいことがあるんです。このおれが、龍の力を持つことは出来るでしょうか?」
 駄目でもともとと割り切り、ミスティンキルは龍王に問いかけた。

【ほう。龍化の資格をも求めるか、エウレ・デュアよ。まったき赤を身に有するミスティンキル……】
 恐ろしいまでの低い声が鳴り響いたかと思うと、空間からはウィムリーフとアザスタンの姿は消えていた。ただ、ミスティンキルとイリリエンの姿のみが、暗黒の宙に浮かんでいた。

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(四)

 星々が瞬くこの空間に在るのは、ミスティンキルと龍王の二者のみ。月へ向かう門も消え失せて、そして銀髪の彼女も――。

 ミスティンキルは、今まで高揚していたおのれの気分が急に醒めていくのが分かった。それは、あるべきはずの存在が無いことに対する憂いのためだ。
 ウィムリーフ。
 時には口やかましくも感じられる彼女が――常に一緒にいたはずのウィムリーフが、姿を消した。この空間の暗がりのどこかに隠れ潜んでいるわけではない。
 彼女の気配が全く感じ取れない。それは、彼女と出会ってからの五ヶ月間で、全く思いもつかないことだったし、おそらくこれからも彼女との旅が続くものと思っていたというのに。
「ウィムっ! どこに行ったんだ?!」
 ついにたまらず、ミスティンキルは声を周囲に響かせるが、快活で暖かみのあるあの声を聞くことはなかった。ミスティンキルの表情はこわばり、胸中は不安と焦りとによって苛まれ、沈んでいく。
 そんな彼の様子を知ってか知らずか、龍王は彼を見下ろしつつ、相も変わらず威厳のある不可思議な声をわんわんと響かせるのだった。
【“炎の司”の地位ではもの足りず、さらに龍化をも望むか。たしかに、ぬしは強い力を秘めている。まったき赤という純粋な“原初の色”、強大な魔力をな】
「ウィムは……ウィムリーフは、どこに行ったんです? さっきまで、ここにいたはずだってのに」
【ふむ、気づいたか。龍化の試練に際して、他者が介在することは望ましくない。だからあの娘はここにはいないのだ。……どこに行ったのか、ひどく懸念しているな?】
 深紅の龍イリリエンは言葉を止め、黄金に輝く両の瞳でミスティンキルを凝視した。心の奥底までも貫くような視線に対してあくまでも抗うように、ミスティンキルは毅然とした表情をあらわし、龍王の眼前まで飛び上がった。両者は目をそらすことなく、真向かいからお互いを見据える。
 先に言葉を発したのは龍王だった。
【……アザスタンに命じ、あの娘には先に月の界へと赴かせた】
「なんだって?!」
 龍王の言葉を聞いた途端、今まで隠していた感情を露わにし、ミスティンキルは龍王をにらんだ。
「だったらおれも、行かなきゃならねえ! 月へ行く門を出してください!」
 ミスティンキルの切実な願いとは裏腹に、龍王は厳しい口調で言った。
【それはならぬ。エウレ・デュア《はらからの子》。龍化の試練を望んだ者が、自ら資格を放棄することは許されぬ。ぬしが龍となるに値する者かどうか、イリリエンが見極める。……だが、どうやら今のぬしには困難とみえる。そら、ぬしの心に渦巻いている感情は何だ? 孤独に対する恐怖か? 私に対する憤りか?】
 図星をつかれたミスティンキルは顔をしかめた。
 一方のイリリエンは、なおも問いかけてくる。
【さて、ぬしの持つ色がよう見えるわ。まことに赤き色を持つ者よ、ぬしは赤き色に何を想うのか?】

「おれにはそんなことよりも……!」
 ミスティンキルは焦りと苛立ちを露わに返答した。
【今は私の問いに答えよ! ぬしは、答えなければならない!】
 龍王は有無を言わさないほどの強い圧迫感を放った。龍《ドゥール・サウベレーン》の言葉それそのものに力があることを、あらためてミスティンキルは思い知るのだった。
 重圧をまともに食らった若者の体は金縛りにかかり、まったく動けなくなった。出来ることと言えばただ、小さく舌打ちをして顔をしかめ、悪態をつくくらいのものだ。
 この場に及んで龍王はなぜ謎かけなどをしてくるのか、ミスティンキルには理解できなかった。龍化の試練を早いところ終わらせる必要があるというのに。そしてウィムリーフのもとに行き、彼女の顔を見て、安心したいのだ。今の自分が滑稽なまでに狼狽しているのが分かるが、裏返して言えば自分にとって彼女の存在こそ本当に大事なものだったのだ。今、ミスティンキルにはそれがはっきりと分かった。
 だというのにイリリエンは謎かけなどをして無駄に時間を長引かせているだけではないのか? 
(邪魔者め!)
 ミスティンキルは強い憤りを覚えた。
(赤い力に何を連想するのか、だと? それは……そう、激しく燃える炎だ! おれの持つ魔力を解放して、この偏屈な龍王様に一泡吹かせてやりてえもんだ!)
 そう思った途端、ミスティンキルの全身から赤い輝きが放たれるようになった。身体の奥底に息づいている多大な魔力が現れようとしているのだろうか。怒りという激しい感情とともに吹き出す魔力は、さぞかし強烈な威力をもって発動されることだろう。司の長の館で魔力を顕現させた時と同じか、それ以上に。
「おれにとっての赤とは、炎だ。真っ赤に燃えさかる炎だ!」
 ミスティンキルは宣言した。

◆◆◆◆

 だが、そんなミスティンキルの心の奥底を射抜くような黄金色の瞳がきらりと輝く。
【……なるほど。ぬしにとっての赤とは業火に他ならないというのだな? そして炎をもって、おのが力がいかに多大なものかを示しさえすれば、この私に認められると思ったか】
 龍王に心を読みとられたと悟ったミスティンキルは動揺するが、それでも小さく頷いた。
【甘いな。そもそも炎は、赤という事象の持つ象徴のひとつに過ぎぬ。それに龍化の試練は、ぬしが考えるような生半可なものではないと知れ!】
 イリリエンは声をくぐもらせて笑い――次にその巨大な口を、ミスティンキルに向けてがばりと大きく開いた。巨大で鋭利な牙が並ぶ口内のさらに奥には、ちろちろと炎の玉が見え隠れしている。球状に凝縮されたその炎の色は赤ではなく、眩しいまでの白い輝きを放っており、尋常ならざる焦熱を宿らせているのに違いない。
 つまり龍化の試練とは、龍王が放つ白色の炎に耐え抜き、そして打ち勝つことに他ならないのだった。そしてそれは、およそ並の龍人《ドゥローム》では到底、耐えうるものではないのだ。
 かつて暗黒の神、冥王ザビュールがアリューザ・ガルドに降臨した折りに、イリリエンは龍達の先頭に立って“魔界《サビュラヘム》”に乗り込みザビュールと対峙したという。その時に龍王の放った炎は壮絶なまでの光輝に満ちあふれ、ザビュールその人にこそ威力が及ばなかったものの、冥王直属の最高位の魔族すなわち天魔《デトゥン・セッツァル》の幾人かを屠ったと言われている。
 熾烈な炎が今まさに放たれようとしているのか――。

(……おれには敵いっこねえ!)
 ミスティンキルは、自分が敗れ去ることを直感した。この暗黒の空間一帯が白一色の炎に覆われ、抗う時間すら与えられずに、自分の存在は跡形もなくなってしまう――死に至る情景がまざまざと脳裏に浮かび上がってくる。
 そしてミスティンキルは悟った。
(だからなのか。ウィムリーフを先に行かせたっていうわけは……)
 龍王の炎を浴びれば、自分のみならずウィムリーフまでが消え去る。それでは月の界へ行き、魔導の封印を解くという目的が果たせなくなってしまう。そしてそれは龍王の望むところではない。龍王は端から、ミスティンキルが試練に破れることを見越してウィムリーフを行かせたのだ。
(これで終いになるんだったなら、龍になるなどと思わなければよかった!)
 ミスティンキルは絶望を覚えた。
(今のおれにとって、龍になることは高望みだったのか。そしてそのせいでおれは死んじまうっていうのか?! そんなのはいやだ、ウィム!! ……助けてくれ……)
【ならば、ぬしの願いは――龍化は果たせぬな】
 龍王は口を閉じた。あたかも、ミスティンキルの痛切な心の叫びを聞き届けたかのように。
【ミスティンキルよ。お前自身は真の強さを持ち得ておらぬ。それではこの龍王の与える試練、つまり“蒼白たる輝焔”にはとうてい耐えられぬだろう。あの娘のことで心ここにあらぬ状態であれば、なおのことだ】
 イリリエンはそう言って天を仰ぎ、鐘のような声を打ち鳴らして朗々と咆吼した。すると暗黒の天上からは月へと向かう門が再び姿を現した。
【ぬしが思い焦がれている“風の司”の娘に免じて、ぬしに戒めを与えるのはやめおこう。……風に護られし孤独の炎、赤のミスティンキルよ。月の界への扉をくぐれ。そこでぬしの相棒が待っている】
 その時、ミスティンキルを縛りつけていた圧力がようやく解かれた。

「え……?」
 予想だにしなかった龍王の言動だっただけに、ミスティンキルは戸惑った。訝しそうな表情を浮かべて龍王を見る。
「行っても……いいんですか?」
【今は、このイリリエンが龍化の試練を与える時ではない。先ほど言ったとおりな】
「真の強さとやらを、おれが持っていないから……? じゃあ、真の強さっていうのは?」
【それはぬしが、これから身をもって知るべきこと。私から答えを導き出すべきではない。……たしかに、魔力の強大さにのみ言及するのならば、ぬしの力は龍となるに十分値する。しかし、試練は先延ばしだ。これからのぬしに待ち受けているであろう運命をくぐり抜け、いずれぬしが強さを得たその時こそ、龍化は果たされよう】
 それを聞いてミスティンキルは落胆したが、同時に安堵をも感じた。試練を受けることが出来なかったというのは悔しく、自分の至らなさには気落ちした。しかしそれにも勝る別の感情があったのだ。ほかでもない、ウィムリーフに再会できるという喜びだ。
 波が退くように彼の感情が静まっていくにつれて、それまで身体に浮かび上がりまといついていた赤い力は、再び体内の奥底へと戻っていった。そしてそれと共に、かつて自分が交わした約束の言葉の一節を思い出した。

――ただひとつ、わしと約束をしてくれ。今後どのようなことが起きようとも自分の力を否定せず、かつ増長しないことをな――

 デ・イグに赴くにあたって“炎の司”達の館を訪れた際に、彼らとの間にいざこざが生じた。それを収めた司の長老エツェントゥーが、ミスティンキルに言った言葉であり、また約束事であった。
(エツェントゥー老……。どうやらおれは司の資格を得て、すっかりいい気になっちまっていたようです。これから魔導を解き放ってさらに力を得ることを夢見て……しまいには龍化だって簡単に出来る、そう思いこんでました。……おれは激しやすい。もっと、落ち着かなきゃならないのか……出来るのか、このおれに……?)

【真紅の魔力を持つミスティンキル。再び会う時を楽しみにしているぞ。さあ、今は行け。そして待ち受ける運命と対峙するのだ】
 龍化が叶わなかったことに対して、ミスティンキルは後ろ髪を引かれる思いだったが、それでも思い直して答えた。
「また、来ます」
 その表情は晴れやかだった。
 ミスティンキルは翼をはためかせて飛び上がると、躊躇うことなく天上の門をくぐっていった。
(待ってろ、ウィム! おれも今から行くからな!)
 こうして次元を跳躍するための“ことば”を放ち、ミスティンキルは転移していった。

◆◆◆◆

 血気にはやる若者が門の向こうへと消え去ると、龍王の周囲の空間はゆっくりともとの姿に戻っていく。四界の事象が結集した、美しく幻想的な情景へと。
 一息つくかのように、龍王は炎を帯びた息を鼻から吹き出すと、おのれの周囲に繭のような炎を形成し始めた。

 しばらくのち、月と繋がる門の向こうから一つの姿が現れた。龍王に仕える戦士、アザスタンだ。彼は門から舞い降りると、イリリエンの胸先近くで滞空し、恭しく一礼した。
【ただ今、戻りました。“風の司”の娘ウィムリーフを、“自由なる者”イーツシュレウ殿のところまで案内しておりましたゆえ、少々遅くなりましたが。……あの赤目の奴はどうしました? 龍化を果たしましたか?】
 蒼龍の戦士は言った。
【龍化は叶わなかった。しかしあれもまた今し方、月へと赴いていった。アザスタン、おぬしまた道先案内をつとめるか? おそらくミスティンキルは、門を抜けた先に娘が待っているものと思いこんでいるぞ】
 いいえ、とアザスタンはかぶりを振った。
【あやつならばなんとかしてウィムリーフのもとにたどり着こうとするでしょう。どうやら、お互い引き合わせるような力を持つようですので】
 イリリエンは目を細めて小さく息を吐いた。
【ほう。そこまで行動を読みとるとは、ぬしにしては珍しく人間に興味を示しているな。なぜか?】
【あの娘に触発されたためでありましょうか。相手が龍《ドゥール・サウベレーン》であるからといって怖じ気づかない態度は見上げたものです。それでありながら礼儀もわきまえている。あのアイバーフィンをたいそう気に入りました】
【ではミスティンキルはどうだ? あれは以前のぬしのことを想起させるほど似通っている。ぬしがはじめて我がもとに来た時を思い出すわ……】
【あやつなどは、どうでもいいことです。奴はものを知らなさすぎる。龍王様に対しても、無礼な口を叩きおって!】
 アザスタンは言い捨てた。かつての青臭かった自分も、やはり向こう見ずで血気盛んであったことを思い出したためなのだろう。

 猛き蒼龍アザスタンはもともと、龍化を果たしたドゥロームだ。遡ること千四百年も昔、すでに“炎の司”としての地位を持っていた若き戦士アザスタンは、“炎の界《デ・イグ》”での試練で辛酸をなめた末にイリリエンのもとへたどり着いた。自分の持つ力がどれほどのものなのか、龍となるに相応しいか、試したかったのだ。
 しかしイリリエンの与えた試練に打ち勝つことが出来ず、かろうじて命のみを留めてアリューザ・ガルドへと帰還した。それからしばらく時が流れ、アザスタンが司の長となるまでに鍛練を重ねたあと、再び彼は“炎の界《デ・イグ》”へと赴き、ついに龍化の資格を手に入れておのが身を蒼龍と転じた。
 冥王降臨の暗黒時代には、イリリエンと共に“魔界《サビュラヘム》”に乗り込んだが、この時にはよく龍王を守護した。その功労もあって龍王の側近に抜擢されて、二振りの剣を持つ龍戦士としての姿を象るようになり、今に至っている。
 では、あの赤目の若者は、今後どのような人生をたどっていくのだろうか?
 ウィムリーフのみならず、ミスティンキルにも興味が湧いているということを、悔しくもアザスタンは認めざるを得なかった。性格が似た者ゆえに疎ましく感じられる一方、力を持つ者同士ゆえに惹かれるというのだろうか。
【……龍王様。しばらくの間、私はおいとまをいただきたく存じます。久方ぶりに、アリューザ・ガルドへ行きたいのです。彼らの動向を見据えるためにも】
 決意を胸に、アザスタンは上奏した。

【――いよいよ運命は廻りだし、“物語”が始まる――】
 預言者のごとく、龍王は言う。
【……よかろう、アザスタン。私の目の代わりとなって、あの者達の紡ぐ物語の行く末を見届けるのだ】

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