『赤のミスティンキル』 第二部

§ 序章

(一)

 風をかき分け、空を疾駆する。
 ミスティンキルは、眼下に広がる平原が一面、新緑に色づいているのを見て取った。見上げると蒼天の空には純白の雲がいくつも浮かんでおり、それらは春のうららかな陽光を受けて輝いているかのようだ。

(世界ってのは、こんなに奇麗なもんだったのか)
 ミスティンキルは思った。普段見慣れているはずの色であるにもかかわらず、全く新鮮であるように感じ取れるのは、一時期アリューザ・ガルドの色が褪せたためなのだろう。
 普段あるべきものを失ったときの何とも言えぬ喪失感は消え失せた。色が甦ったことを実感出来た喜びといったら、なんと表現していいものだろうか。今のミスティンキルには、目に見える全てのものが網膜に鮮やかに映る。そしてこの山岳地帯の情景の壮大さは、深く胸に染みこむような感動を彼に与えた。

 ミスティンキルがウィムリーフ、アザスタンと共にデュンサアル山を後にしてからしばらく。最初のうちは物質界での翼の扱い方に四苦八苦していたミスティンキルも、ウィムリーフに教えてもらいながら、ぎこちないながらも何とか飛べるようになっていた。今は龍のアザスタンを中心に据えて横一列に並び、デュンサアルの町を目指して飛んでいるのだ。

 だが、何事もなくたどり着けるはずがないことは、先のウィムリーフの言葉からも明らかだ。現に、彼らの前方には幾人かの人影が見えるようになっているのだ。二人の“炎の司”と、幾人かの兵士達が。
 ミスティンキルとウィムリーフが聖地デュンサアル山に赴くに際して、ちょっとした騒ぎを起こしたのは事実だ。あの時、“炎の司”としての面子を完全につぶされた、見張り小屋の守人ジェオーレは、おそらく真っ先に、父であり“司の長”の一人であるマイゼークに事の次第をつぶさに告げたのだろう。

「おお、いるいる。やっぱりウィムの言うとおりだ。あのマイゼーク親子が、兵士を連れて待ちかまえてやがる」
 目の良いミスティンキルは、眼前に映る小さな人影が誰のものなのか、容易に見てとった。彼らもまた空中に浮いているが、こちらの様子にも気づいているためだろう、滞空したままでそれ以上さらに進んでくるつもりはないようだ。特にアザスタンの巨体は、一目見ただけで龍《ドゥール・サウベレーン》であると分かるだろう。
 いくら龍の末裔であるドゥローム族といえども、迫り来る龍に対して、刃を向けたまま突き進むなど愚の骨頂であることは分かっている。龍は彼らドゥロームにとって畏敬の念を払うべき存在なのだから。
 おそらく今の彼らは、予想だにしなかった龍の出現に対して、どのように対処すべきか考えつつ狼狽えているに違いない。

「万が一って事もあるから、風を整えておくわ」
 “風の司”であるウィムリーフが、空中に文字を描くように左から右へと細かに指を動かす。すると、風を切る音がぴたりと止んだ。もし相手が弓を射てきたとしても矢を逸らすようにと、彼女は風に働きかけたのだ。奇妙な静けさの中、三人はさらに飛んでいくのだった。
「……でも、このまま前に進んじゃって本当に大丈夫なんでしょうね? アザスタンも、ミストもまるで平気な顔をしているんだけど、なんでそんな平然としていられるの? あたしたち、デュンサアルの掟を破っちゃってるのよ?」
 ウィムリーフは心配げに龍の顔を見上げた。
【事はたやすく済む。ウィムリーフが心配することはなにもない】
 アザスタンは、ただそれだけ言った。

◆◆◆◆

 ミスティンキルとアザスタンの予想はたがわなかった。
 そして――デュンサアルのドゥローム達にとっては、龍の飛来など予想出来るはずもなかった。

 両者は、平原と岩山とを隔てている断崖にて対峙することになった。ちょうど真下には細長い吊り橋が架かっている。ミスティンキルとウィムリーフが“炎の界《デ・イグ》”に向かったあの晩、守人をつとめていたジェオーレを出し抜いたちょうどその場所で、皮肉にも再会することになったのだ。
 マイゼークとその息子、そして兵士達は表面上は落ち着き払ったさまを見せている。だが、彼らの胸に秘めた本当の感情は、隠そうとしても隠しきれるものではない。お互いの顔が見て取れるほどの距離にまで近づいた今、対峙する相手の顔には狼狽している様子がはっきりと現れている。おそらく、生きた心地はしていないだろう。アザスタンの巨大な翼の羽音と、しゅうしゅうという炎まじりの息づかいは、彼らに恐怖しかもたらさない。

 口火を切って話しかけてきたのは、マイゼークだった。
〔龍様。ここより先はわたくしどもドゥロームが住まう地でございます。わたくしめは炎の“司の長”のひとり、マイゼーク・シェズウニグと申す者。隣におりますのがせがれのジェオーレでございます〕
 顔色をうかがうような慇懃《いんぎん》なさまで彼は挨拶をし、ジェオーレもぎこちなくではあるが深々と礼をした。
〔そしてこれに控えておりますのは、町の衛兵たちでございます。彼らは武器を携えてはおりますが、決してあなた様に危害をもたらすものではありません。……実は、あなた様の横におります若いドゥロームが、我らの掟を破ったのではないかという疑いがあります。ですので、その者と、後はそこの……アイバーフィンを我らの法の下において裁く必要がありますゆえ、どうかお引き渡し頂きたいと……〕
【ならぬな】
 背中に冷や汗をかきながら、それでも司の長としての体裁を何とか保ちつつ話すマイゼークだったが、蒼龍は彼に最後まで言葉を告げさせることなく、拒絶した。

 アザスタンの声を聞いた者の中には即座に失神した者もいた。龍の言葉は、それそのものが魔力を持つとも言われている。ドゥローム達の筆頭に立って交渉をしようとしていたマイゼークですら、ひっと小さな悲鳴を上げた。彼は額に脂汗をにじませ、なんとか次の言葉を紡ぎ出そうとしたが、出来なかった。
 あわれな司の長を見やりつつ、アザスタンは言った。
【デュンサアルの龍人よ。わしとて遡れば、かつてはドゥロームであり“司の長”の一人であった者だ。掟破りは、場合によっては厳罰に処されることも知っておるし、この者達がなにをしでかしたのかも承知している。そしてマイゼークよ、お前の立場と行動も理解出来る。だが、その咎《とが》を抱え込んだこの者達を、“炎の界《デ・イグ》”は迎え入れたのだ。――わしは“炎の界《デ・イグ》”にて、龍王様を警護する役をいただいておる、名をアザスタンという。我が名において、わしとこの者達をこのまま行かせてもらいたい】
 龍の言葉は誇りに満ちており、これを拒絶することは、一介の人間にはとうてい出来るものではなかった。ついにマイゼークは折れた。
〔し、しかしアザスタン様……。まことにもって恐縮ではございますが、ドゥール・サウベレーンは我らにとって神にも等しい敬意を払うべきお方であります。あなたのそのご立派なお姿をデュンサアルの町人たちが見れば、必ず驚きましょう。……その者達の犯した罪については不問といたしてもかまいません……ですが、もし差し支えないようでありましたら、アザスタン様はこのままお引き取り頂きたく……〕
【意外と聞けぬ男よな、お前は】
 アザスタンはそう言うと、天に向かって頭を向けると一声、大きく吼えた。

 轟くようなその音をまともに聞いてしまったドゥローム達は、再び恐怖に震えた。ついにはジェオーレすらも失神してしまい、父親マイゼークは彼を抱き留めた。
 もはや顔色《がんしょく》を無くしたマイゼークが再び、恐る恐る龍の様子を見ると、そこには巨体を誇る龍の姿はなく、五フィーレ弱ほどの身長を持つ龍頭の戦士がいた。
「この姿ではどうだ。――これでもまだ不服か? ならばドゥロームの姿に変化《へんげ》してもいいのだぞ」
〔お、お待ち下さい!〕
 慌てふためいた様子でマイゼークが取り繕うとする。
〔龍であるあなた様に、なにもそこまでして頂くことはございません! ……分かりました。マイゼーク・シェズウニグは、炎の“司の長”の名において、あなた様とそこなる二人をデュンサアルの町へお招き申し上げます」
「賢明な判断だ」
 アザスタンは言った。
〔ひとつお伺いしてよろしいでしょうか。なぜ、あなた様はそうまでして、そこなる者達をかばいなさるのでしょうか?〕

 アザスタンは口元を歪ませるように笑い、言った。
「この両名は“炎の界《デ・イグ》”の中心部まで赴き、龍王様より直々の命を承り、さらには月の界へと向かった。かの地で彼らが成し遂げたことによって、色褪せていたアリューザ・ガルドの色はすべて元に戻ったのだ。今日、目にするこのような景色にな。……この行いは、デュンサアルの掟破りを償ってなお余りあるものであるどころか、むしろ賞賛されてしかるべきものではないか? ミスティンキル・グレスヴェンドとウィムリーフ・テルタージ。これなる両名は、大事を成し遂げた者達なのだ。それゆえに“司の長”マイゼークよ。――龍王イリリエンの御名をお借りして、誉れ高き両名の身の安全をすべからく確保するよう、そなたに命ずる!」

 してやったり。
 ミスティンキルは腕を組み、余裕の笑みを浮かべてマイゼークを見やった。その視線に気づいたマイゼークは、さも悔しそうな様子で彼を一瞥すると身を翻し、まだどうにか平静を保っている残りの兵士達に告げた。
〔予定していた事項は……取り消しだ! 我々はかの方々を、“集いの館”へ――司の長の集う館へとお連れ申し上げることになった。……以上!〕
 デュンサアルのドゥローム達はこうして、ミスティンキル達を先導するかたちで町へと戻っていくのだった。

◆◆◆◆

「え?! ……ちょっと待てよ?」
 突然思い出したかのように、ミスティンキルは声をあげた。彼はウィムリーフの側まで飛んでいくと、彼女に問いかけた。
「今までお前の姓を聞いたことがなかったから、アイバーフィンってのは自分たちの姓を人に名乗らないもんなのかと思ってたけど……ウィムリーフ・テルタージ、さっきそう言ってたよな? なあ、アザスタン」
 アザスタンは頷いた。そういえば月の界で魔導を解き放つに際しても、ウィムリーフ自身が名乗っていたではないか。テルタージという姓を。

 冒険家テルタージの名は、アリューザ・ガルドに広く知れ渡っている。彼らは夫婦であり、前人未踏の地域を探索する冒険家として名を馳せた。とくにアズニール暦千百年代の初頭に世に出た『天を彷徨う城キュルウェルセ』の冒険行は、名著として今も広く知られているものだ。文字の読めないミスティンキルも、故郷の島を時たま訪れてくる吟遊詩人の歌を通して、幼い頃から彼らの冒険行を何度か聞いた覚えがある。

 ウィムリーフは照れくさそうに鼻の頭をかきながらミスティンキルに言った。
「この冒険が終わったら、あんたに明かそう、とずっと思ってたんだけどね。そう。あたしの姓はテルタージ。ひょっとしたら隠す必要なんてないのかも知れないとも思ったけど、『冒険家テルタージの孫娘』っていう色眼鏡を付けられて見られるのだけはいやだったから、名乗らなかっただけ。気を悪くしないでね、ミスト」
「いや、別に怒ったりはしねえけど……びっくりした。じゃあ、ウィムが冒険家を目指しているってのは、やっぱり冒険家テルタージの影響なんだな。しかし……そうか。おれはずっと、テルタージはバイラルだとばかり思っていたけど、アイバーフィンだったとはなぁ。まだ健在なのか?」
「今はお婆さまのふるさとで静かに暮らしてるっていうふうに聞いてる。あと、本当のところを言っちゃうと、お爺さまのほうはアイバーフィンじゃないらしいの。セルアンディルだっけな? 今のアリューザ・ガルドにはいないとされてる種族の末裔らしいんだけど、詳しいところはあたしはあまり知らないのよ。……でも、あたしがこうして大きな魔力を持っているのは、多分お爺さまお婆さまの血の影響なんじゃないか、っていうふうには言われたことがある。とにかく、あたしが冒険家になりたいと思ったきっかけは、あたしも“冒険家テルタージ”のように名を馳せたい、と思ったから。それは違いないわ」
「おれたちがやり遂げた冒険行ってのも、テルタージの冒険に負けないくらいすごいもんだろう?」
「そう! とてつもないことをあたしたちは成し遂げちゃったのよ! 帰ったら早速今回の出来事を思い出せるだけ思い出して、書き留めなきゃね! もちろんミスト、あんたにも手伝ってもらうからね!」
 熱い意志を秘めた口調で言った後、ウィムリーフはミスティンキルに、にこりと微笑んだ。その屈託のない微笑みから、これからしばらくの間こき使われることを予見したミスティンキルは、重い溜息をつくほかなかった。

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(二)

 アルトツァーン王国の王都、ガレン・デュイル。
 その王立図書館に通い詰めていたエリスメアは、ようやく最後の本を写し終え、おもむろに原本を閉じると、窓から外の景色を見やった。

 小高い丘の上に建築されたこの図書館からは、城下町の様子がよく分かる。町の中心を流れるヘイネデュオン河は空の色そのままに青く映え、ファルビン様式の赤い屋根の家並みは日の光を受けて鮮やかに彼女の青い瞳に飛び込んでくる。時はすでに昼近くになっているため、家々の煙突からは煙が立ち上っている。そんないつもと変わらない情景が今、ようやく人々の暮らしに戻ってきていた。
(ふう……。平和っていいものねえ)
 エリスメアは、三日前までの市中が混乱した様を思い起こし、あらためてそう思うのだった。

◆◆◆◆

 この都市、ガレン・デュイルは、遡ること二千年近く前に作られた、いにしえよりの都である。
 古くはイクリーク王国の王都であったこの城下町は、無事平穏のまま今日まで続いてきたわけではない。二千年という歴史の中では、血みどろの戦乱や黒々とした陰謀が渦巻いていた時代もあったが、それすら色褪せてしまうような大惨事が過去の歴史には刻まれているのだ。

 今より千五百年ほど昔。この世界には統一王国であるイクリーク王朝があった。当時まさに文化の爛熟期にあったイクリークであるが、腐敗が蔓延していた王朝そのものの没落の兆しは隠しきれるものではなかった。偶然にも、それと時を同じくして、世界のありとあらゆる事物の色が薄れていったのである。
 アリューザ・ガルドにおける色褪せは、今回が初めてではなかったのだ。
 当時の人々はこの超常の現象に恐れを抱くが、魔術の研究がまだ行われていなかったこの時代では原因も掴めず、なすすべがなかった。やがて厭世の空気が世界を覆い尽くし、終末の退廃した雰囲気に満ちていったのだった。

 時のイクリーク国王であったアントス家のタイディアは、魔術の異端書に没頭し、ついには不死の研究という禁断の領域にまで足を踏み入れてしまった。酸鼻きわまりない禍々しい儀式の果てに、魔族のごとき異形と化したタイディアは、“魔界《サビュラヘム》”の住人を喚び寄せてしまったのだ。そして神々の時代において暗黒の宙に封印されていた“黒き神”冥王ザビュールがついに呪縛から解き放たれ、人間の世界アリューザ・ガルドに降臨。さらにはかの神が本来住まうべき場所である“魔界《サビュラヘム》”に至り、アリューザ・ガルドとの次元の接点を解放してしまったのだ。
 人類史上において最大の惨禍である、“黒き災厄の時代”はここにはじまったのだ。

 事の発端を引き起こした国王タイディアを屠れば、ザビュールに一矢報いることが出来ると考えたイクリーク王朝の諸卿は、魔族と化した国王を暗殺したが、その報復たるやおぞましいものであった。麗しい王都ガレン・デュイルは、火山が直下で爆発したかのように一瞬にして吹き飛び、すぐさま襲来した魔の眷族によって地獄絵さながらの大殺戮が行われたのだ。流域のヘイネデュオン河は血のために真っ赤に染まり、見せしめのために杭で貫かれた死体は、廃墟と化したガレン・デュイルを取り囲むほどの数に至ったと伝えられている。

 それから三百年を経て、ディトゥア神の一人、“宵闇の公子”レオズスが聖剣ガザ・ルイアートを、アントス家の末裔であるイナッシュに渡した。彼ら二人は“魔界《サビュラヘム》”に乗り込み、ついにはザビュールを打ち破った。これは『イナッシュの勲』に語られるとおりである。

 ザビュールの暗黒の支配が終焉を迎えてから五百年経った後、イクリーク王朝の後継である東方イクリーク皇国によって現在の都市の基盤が形成され、今はアルトツァーン王国の王都となり大いに発展しているが、冥王による暗黒の時代の恐怖がどのようなものであったかというのは、人々に今なお語り伝えられるものである。

◆◆◆◆

 だからなのだ。ガレン・デュイルの住民達が、先頃の“色褪せ”について過敏なまでに反応し、恐れおののいたというのは。
 かの冥王が復活したのだ! と誰かが声高に叫ぶと、それはすぐさま町中に蔓延した。ガレン・デュイル中が恐慌状態に陥るのには一日とかからなかった。

 魔術をなりわいとする者達や、権威ある学者達の意見も二つに分かれた。アリューザ・ガルドの色が褪せたことがザビュール復活の遠因となると唱える一派と、それとは反対に、ザビュールとは全く関連性がないと唱える一派である。
 アリューザ・ガルドに現存するただ一人の魔導師ハシュオン卿に師事しているエリスメアは、今回の件は全くザビュールとは関係がないと考えた。師と同様に彼女も、色が失われた背景には魔導が絡んでおり、色褪せたというのはおそらくは“原初の色”のなにかしらが働かなくなったためだろう、と推測したのだ。そして結果として、今となってはそれが正しかったことが実証された。
 だが混乱のさなかにあった当時、いくら彼女が声高に、意見を異にする者達を相手に説得しても、「机上の論理に過ぎない」「確証がない」などと言われるだけだった。また、さらには町の人々を説得し、騒ぎを沈静化しようと必死になったが、恐るべき冥王からどのようにすれば身の安全を確保できるか、という考えのみにとらわれ怯えていた人々の心に届くはずもなかった。そうこうしているうちにエリスメア自身も、役人達やほかの魔術師達と同様、市中の秩序の回復に手一杯となってしまい、ここ二週間ばかりは魔導の勉強どころではなかった。もっとも、ガレン・デュイルの図書館で学ぼうと思っていたことの大半はすでに終えていたのではあったが。

 外の景色を見ていたエリスメアは、ふと真下を見下ろした。石畳をめぐらせた図書館の入り口には、こぢんまりとした噴水台がひとつおかれ、中央に座す婦人の彫像が抱え持つ大きな瓶からは水が流れ落ちている。そして、その噴水の傍らには、いかにも所在無さげに腰掛けている一人の金髪の青年の姿があった。“彼”はもうここに来ていたのだ。
(急がなきゃ……)
 そう思ったエリスメアは窓を閉め、『未踏の地ラミシス ~カストルウェンとレオウドゥールが行いし、魔導王国ラミシス遺跡の冒険行について――数多くの吟遊詩人の歌より~』と題された原本と、自分の写本を手に取ると、そそくさと読書室を後にした。

◆◆◆◆

 魔術師エリスメア・メウゼル - ティアーは、今年二十歳となったベルドニースびとである。彼女の母親は生粋のベルドニースびとであるが、父親は金髪碧眼こそ持ち合わせていたものの、同じ氏族ではなかった。いや、正確に言えば人間ではなかったのである。
 彼女の父親はディトゥア神族の一人。“宵闇の公子”の二つ名で世に知られる、闇を司る神レオズスなのだ。

 レオズスはかつて“魔導の暴走”の脅威を消し去ったが、その後にアリューザ・ガルドに恐怖を持って君臨したという過去を持つことから、未だに一部の人間達にはさも恐ろしい神であるかのように誤解されている節がある。しかし、その時のレオズスは太古の“混沌”の力に魅入られ、本来の自分を失っていたのだ。
 忘れてはならない。かつてイナッシュと共に“魔界《サビュラヘム》”に乗り込み、冥王と対峙したもう一人の英雄が誰であったかを。
 それに“闇”そのものも忌み嫌われることもあるが、闇無くして光もまた存在し得ないのも事実であるし、また闇の意味するものはけしておぞましいものばかりではない。夜の静寂、安らぎとなどといった事象をも闇は司っているのだ。

 エリスメアの父がレオズスその人であるということは、彼女の家族や、魔法の師匠であるハシュオン卿を除いては誰も知らないことである。彼女にしてみれば、“神の子供”という事実を知られたとしても別にかまわないと思っている。しかし人間達の中にはエリスメアを利用しようなどと考える輩がいないとも限らない。母と同じく人間としての生を選んだ彼女には、神としての力などないというのに。

 エリスメアは、アリューザ・ガルド北西部に位置する島、フェル・アルム島で生を受けた。彼女の母であるライニィ・メイゼルは、西方大陸《エヴェルク》のフィレイク王国からフェル・アルムに移り住んだ商家の娘だ。この一家はかねてよりハシュオン卿からの信頼を得ており、ライニィに娘が誕生した折りにはハシュオン卿直々に“エリスメア”という名前を授かったのだ。
 母ライニィはそれからも変わらずフェル・アルムにて商いを続けているが、父であるレオズスはあまり姿を現すことがない。彼は、失われた聖剣ガザ・ルイアートを見つけ出すという使命をその身に担い、常にアリューザ・ガルドやそれ以外の諸次元を彷徨しているため、なかなか家族と一緒に過ごす機会がないのだ。
 それでもこの一家は強い絆で結ばれている、というようにエリスメア自身は感じている。

 エリスメアに魔法の素質があると見抜いたのは、父レオズスだった。レオズスはエリスメアの家族と相談した後に友人のハシュオン卿に掛け合い、娘が学校を卒業した後には魔法を教えてやって欲しいと頼んだのだ。
 ハシュオン卿はバイラル族ではなく、森の民エシアルル族である。彼はすでに千年以上の長きに渡り生きてきたのだが、ついに老いの時期を迎え、近年では自らの後継者が欲しい、とレオズスにこぼしたこともあった。単なる一介の魔法使いではなく、魔導師としての知識を習得した人間にこそ自らのすべを継承させ、後世に魔導学を遺して欲しいというのが、アリューザ・ガルドに現存する唯一の魔導師ハシュオン卿の切なる願いだったのだ。
 それゆえにエリスメアの才能が魔法に突出していたという事は、ハシュオン卿にとっても大いなる朗報だった。彼はエリスメアを弟子とし、それから六年間かけて自らの手元で魔法について教えたのだった。彼が弟子に教え説いたのは魔法や魔導についての知識や発動法のみならず、魔法が世界においてどのような役割を果たすべきか、ひいては世界と魔法との力の相関関係をも含んだ非常に高度な内容であった。若い弟子は、時折師匠に反発しながらも、賢明に教えを吸収していき、十六歳になる頃には当代一の魔法使いとなっていたのだった。

 彼女はその後、師の元を離れて西方大陸《エヴェルク》へと渡り、魔法使いとして生計を立てて実社会に身を置きながら、魔法の修行に励む道を選んだ。フィレイク王国王都ファウベル・ノーエに二年間滞在した後、さらに海を渡り東方大陸《ユードフェンリル》のアルトツァーン王国王都ガレン・デュイルで生活をしていた。

 そろそろ師匠の元に戻り再び魔法についてさらに教えを請おう。彼女がそう思い始めた矢先のことだった。父レオズスから魔法を使った伝言が彼女の元に届いたのは。

~ エリスメア、元気かい? なかなか会える機会が無くて申し訳なく思ってる。
 さて、いきなり唐突なお願いとなってしまい申し訳ないのだが、父と一緒に旅に出てはくれないだろうか? 向かう先はユードフェンリルの南部、ドゥローム達が住むデュンサアルという場所だ。
 今回の件については、君の師であるハシュオン殿からも許しを頂いているし、何よりエリスにとってもいい修行の機会になる、と思う。
 この手紙が届いてからきっかり五日後の昼に、エリスの元に行くつもりだ。詳細はその時に話したいと思う。

 天土すべての聖霊たちが、君に祝福をもたらすことを願って。
 愛する娘エリスメアへ
 父レオズス、またの名をタール弾きのティアー・ハーンより ~

 図書館の扉の前に立ったエリスメアは、高鳴る鼓動を少しでも抑えようとするかのように、これから待ち受ける旅への決意のほどを新たにするかのように、大きく息を吸い込み、そしてはき出した。
 そうして堅牢な扉をぎいっと開け、外へと一歩踏み出す。
 薄暗がりの図書館から一転して、外の景色は明澄で、目に映る全ての事物が日の光を反射しているかのようだ。一瞬エリスメアは眩惑されたが、すぐに目が慣れた。埃くさい図書館の匂いとは違い、外の空気は実にすがすがしい。
 真正面に目を向けると、そこには噴水がある。そして、久しく会ってなかった父の姿があった。思うより早く、エリスメアは彼の元へと駆けだしていった。
「父さま!」
 その声に父レオズスは振り返り、駆けてくる娘に笑顔で手を振って応えた。

 こうして、彼ら父娘の旅は始まったのだった。

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