『赤のミスティンキル』 番外編

§ そして、二人の旅のはじまり

 一陣の北風が吹きつける。
 背高の若者は衣類にくるまるようにして身震いし、カップにまだ残っていた温かい茶を口に含んだ。飲食店の外で食事をしていた身に今の寒さは堪える。
 しかし季節はまだ光の月――十一月になったばかりだというのに、この寒さはどうしたことだろう。若者が生まれてからこのかた五十年近くも生活してきた南方の島では考えられない寒さだ。
「うわっ、寒い。……なあおい、今年は冬が来るのがやっぱり早いらしいなぁ」
 若者のすぐ横の卓で団らんをしていた男のうちのひとりが体をすくませながらそうぼやくと、相づちを打って横の一人が言う。
「ああ。聞いたところによるとこの寒さは十何年ぶりらしいぜ。しかも、早くも北から流氷がやってくるらしいしな。だからってんで、東方大陸《ユードフェンリル》行きの船は、今日出るので最後だっていうじゃねえか。……まあ、おれらはこの島に残るわけだから問題ないわけだがな」

 最後の船だって?
 若者はその真紅の瞳を男達に向けると、尋ねた。
「あの……ひとつ教えてほしいんだが」
「なんだい? ほう……あんたドゥローム《龍人》族か。この辺じゃあ、あまり見かけねえな。おお……あんたはこれまた、真っ赤な目をしてんだなぁ」
 最初に言葉を放った男がすぐさま言って返した。その言葉遣いこそぶっきらぼうだが、悪い印象ではない。そう判断した若者は言葉を続けた。
「今あんたたちが言ってたのは本当なのか? 今年最後の船が出るってのは?」
 赤目の若者は男に訊いた。
「ああ本当ともね」
 横に座っていた男が言った。
「ドゥロームの兄さんは、あっちの方に行こうってのかい?」
 男はそう言って、東の方角を指さした。
「ってことはだ。あんたは東方大陸《ユードフェンリル》南部出身のドゥロームかい?」
「いや……違う。それはおれが向かおうとしている場所だ。おれは南のラディキア群島からやって来たんだ」
 ドゥロームの若者――名をミスティンキルという、背高で浅黒い肌の若者は朴直にそう答えた。すると男がさらに世間話を続けようとしたので、それを制止するように続けて言った。見知らぬ人間と無駄に長く話をすることを、ミスティンキルはあまり好まなかったからだ。
「おれのことはいい。教えてほしい。次に船が出るのはいつだ?」
「流氷が北に戻らない限り、東方大陸《ユードフェンリル》への船は出ねえ……だから兄さんも行くんなら今度の船に乗っちまいな。じゃないと、春先まで船はないぞ」
 ミスティンキルは小さく一礼をして、勘定を済ませるために店の中に入っていった。
「間違えて西方大陸《エヴェルク》行きのに乗るなよ。東行きの船は、この島の東の方……ベーリンの桟橋から出航するからな!」
 男の声が、閉まる扉に追いすがるように聞こえてきた。

 ここはカイスマック島。アリューザ・ガルドの地図を見れば、東西両大陸のちょうど真ん中に位置している島だ。
 島そのものは小さく、ものの二日も歩けば端から端まで辿り着くことが出来るだろう。だがこの小さな島は、島そのものが大きな都市となっている。二つの大陸を繋ぎ、交通と貿易の要衝として古くから栄えているのだ。
 若者――ミスティンキルは、東方大陸《ユードフェンリル》に向かう旅路の途中だった。故郷である南方のラディキア群島を離れて三ヶ月と少し、ようやくこの島にたどり着いたのだった。冬が到来するまでに東方大陸《ユードフェンリル》に行かなければならない。旅の道程が雪によって阻まれるまで、できるかぎり先を急ぎたかったからだ。

◆◆◆◆

 店の中に入ると、なにやら一悶着起きている雰囲気だった。
「お客様、これを代金の代わりに頂くわけには参りません。きちんとガルディ貨幣で支払って頂かないと……」
 給仕の男がやや困った口調で目の前に立っている女性に告げた。
「困ったわ。あたしもきちっと支払いたいのはやまやまなんですけど……あいにくとあとは船の代金しか持ち合わせがないんです」
 対する女性も困った口調で給仕に話している。美しい肢体を持つその女性の髪は銀色。翼の民、アイバーフィン族の若い女性だ。青い瞳が印象的だ。年の頃はミスティンキルとそう大差ないだろう。どうやら食事代の支払いについてもめ事を起こしているようだ。何を代わりに渡そうとしているのかは分からない。どのみちミスティンキルには他人がどうしようと関係のない話だった――はずなのだが、どうしてか不思議と彼女のことが気になった。
 ミスティンキルは別の給仕に声をかけて金を支払おうと財布を確かめたが、財布の中に残っているのはわずかばかりの硬貨だけだった。
 ミスティンキルは顔をしかめた。金はちゃんと持っていたように思っていたのだが、それは彼の思い違いだったのか、はたまた通りを歩いていてすられてしまったのか、定かではない。ひとつ言えるのはとても食事代を払えるほどの金はない、ということだけだった。
「十五ガルディになります。お客様」
 給仕の女性が容赦なく金額を告げる。この島の物価は総じて高いようだ。ミスティンキルは別の小袋を開け、中身を確かめた。だが、“これ”を果たして受け取ってもらえるだろうか? 貨幣でないと支払いには応じてくれないようだが、今やミスティンキルも、横にいるアイバーフィンの女性と立場は同じであった。
「これ……では駄目かな?」
 駄目でもともと、ミスティンキルはそれを給仕に渡した。給仕の目が一瞬丸くなる。やはり駄目なのだろうか?
「お客様、これを代金の代わりに下さる、と?」
 ミスティンキルは頷いた。
「困ります。こんなたいそうなものを頂いてしまっては。赤水晶《クィル・バラン》ですよ? こんな高価なものを……」

 ミスティンキルが渡したのは、ラディキア群島特産の赤水晶《クィル・バラン》だった。出すところに出せば、おそらく一人の人間が一週間分食べていけるほどの金額はするだろう。
 幸いにもどうやら受け取ってくれるようだが、昼食一人分と引き替えにするには高価すぎるものであり、給仕も困り果てているようだった。
「済まねえが、手持ちの金がないんだ。余ってる分はそうだな……携帯食の三、四日分でも頼む」
 と言いつつ、ちらと横を見ると、アイバーフィンの女とちょうど視線があった。
「……それと、彼女の分の払いも含めてくれないか?」
 ミスティンキルはとっさに思いついてそう言った。えっ、とそのアイバーフィンから小さな声が漏れる。
「そんな……いいんですか?」
 銀髪の彼女は訊いてきた。ミスティンキルはただ頷き、旅行用の携帯食が入った袋を給仕から受け取った。
「べつに……ちょっと思いついただけだ。あんたもそれで助かるんだろ? 困った時はお互い様、ってやつだ」
 ミスティンキルはやや照れながら、ぶっきらぼうにそう言った。給仕が支払いを承諾すると、彼は小さく頷いて店を出て行った。
「あっ……」と最後に聞こえてきたのは、アイバーフィンの女性の声。別に見返りがほしかったわけではないが、なぜか困っている彼女を放っておけなかったのだ。彼女の持つ何かが、自分を惹きつけたのだろうか?
「ふん……ばかばかしい」
 ミスティンキルはそう言い捨てて旅の荷物を背負い、東の桟橋へと足を急がせるのだった。

 ベーリンの桟橋は、島を離れる人々でごった返していた。今日出航する船はあと四便。今年最後の船が出るということで、切符を買う人の列は長く連なっている。船着き場で乗船の切符を買い求める際にも赤水晶《クィル・バラン》を貨幣の代わりに渡したが、受付の年老いた水夫はただ頷いて切符をミスティンキルに切って渡しただけだった。相応の価値があるものだと認めたのだろう。
 乗船口に向かうミスティンキルの袖がくぃっと引っ張られた。何かと思って横を見ると、切符を買い求める人の列に、さっきのアイバーフィンの女性がいて、彼女がミスティンキルの袖を引っ張っていたのだ。
「あの、さっきはありがとうございました。おかげで船に乗る分のお金が残せました」
 彼女は明朗な声でそう言うと、ぺこりとお辞儀をした。
「そりゃあ良かった。けれど、アルトツァーンに着いた後のあては?」
「あ、大丈夫ですよ。港町から王都まで歩いて、春先までそこで働く……って感じでしょうね」
 ミスティンキルはそれを聞き流し、じゃあ、と手を挙げて彼女と別れると、再び乗船口へと向かった。ただ、彼女のことはやはり気になった。
(なんて言うか……上手く表現できないが、なんかしらおれと似たようなところがあるのか……?)
 もう会うこともない女性だろうが、ミスティンキルは直感的にそう感じていた。

◆◆◆◆

 商客船“風の運び手”号は、船いっぱいに人と荷物を乗せ終え、後三刻の鐘が打ち鳴らされると共に桟橋からゆっくりと離れていった。ミスティンキルは他の客と同じように船のともへと行き、誰と話すでもなく、遠くなっていくカイスマック島をひとり見つめるのだった。冬の陽は落ちるのが早い。輝く西日が島の影に重なって沈んでいくかのように見える、その美しい様。
 赤い色は好きではない。自分がなぜ故郷を離れなければならなかったのか、その悲しさ、悔しさを思い起こさせるものだったから。餞別に受け取った高価な赤水晶《クィル・バラン》すらも、ミスティンキルにとっては苦々しく感じられる。
 だが、この夕日の赤は好きだ、とミスティンキルは素直に思った。自然の雄大さの前に些末な感傷など消え去ってしまえる。彼は左手に持った杯を傾け、中にある酒を飲み干した。寒い体を温めるには度が強めの酒がよく効く。ほどよく酔いしれながらミスティンキルは日没の様子を赤い瞳でじっと眺めるのだった。

 陽が没した後、空は暗くなり、吹く風はさらに冷たく厳しくなっていく。海の景色を見やるのにも飽きたミスティンキルは、自室に戻ることにした。ともにいた他の客も引き上げ、残っているのは水夫達だけとなっていた。
「この寒さは尋常じゃないよな。ひょっとすると雪でも降りそうだよ」
「風の冷たさからすると、そうなってもおかしくないな。おれたち、船の舵を取るのに精一杯で……出航早々に徹夜仕事なんかになるんじゃないか?」
 水夫達の会話を横で聞きながら、ミスティンキルは船倉に続く階段を降りていった。
 ちら、と。
 空から小さな粒が舞い降りてきた。

 ミスティンキルが階段を降りてくると、折しも夕食の支度が整ったところだった。水夫から簡素な食事がのった盆を受け取ると、狭い自室でそれを食べた。食事を片づけた後は、とくだんすることもない。空になった盆を廊下に置くと毛布にくるまり、暖を取りつつ眠りへと落ちていくのだった。

 ミスティンキルが目覚めたのは、大きな揺れのためだった。眠りについてからそう時間は経っていないはずだ。どうやら海がしけてきたのだろう。故郷を離れるまで漁師をしてきたミスティンキルにとって、大しけの部類に入るがまだ驚くには値しない。危険域には入っていないことが感覚的に分かるからだ。けれども、自室から外に出てみれば、ちょっとした騒ぎになっていた。他の乗客にとってみれば船が転覆するのではないかと錯覚してもおかしくないほどの揺れなのだ。
 またぐらりぐらりと、床が大きく動く。天井から吊り下げられているランタンが左右に大きく揺れ、船倉に映し出された影をも揺さぶる。ミスティンキルの前に立っていた人物が体勢を崩して彼に寄りかかってきた。
「ごめんなさい! ……あ……、またあなたなのね」
 それはあの銀髪の女性だった。彼女はミスティンキルの方に振り向くと小さく一礼した。
「奇遇ですね。同じ船に乗ってたなんて。……それにしてもあなたは平気なの? この揺れ……。あたしなんか船に乗るのがこれで二度目だから、恐くて恐くて」
 彼女は人見知りしない性格なのだろう。まだ知り合ってお互いの名も知らないというのに、気さくに話しかけてきた。
「おれは慣れっこだ。今まで漁師をやってたからな」
 ミスティンキルは強がってみせた。
「だったらへっちゃらなんでしょう。船がこんなに揺れるものだなんて、あたし知らなくて……」
「かなり海がしけてきてるようだ。外に出てみないと確かなことは何とも言えないけれど」
 また船が横揺れした。度重なる揺れで、客の中には気分を悪くしている者もいるようだ。
「こんな時、“海の司”が船に乗ってたら、海を鎮めてくれるでしょうに……」
「“海の司”?」
 ミスティンキルは聞き返した。
「そう。“海の司”。風や潮の流れを操ることのできる魔法使いのことよ。昔ならともかく、今の時代にそれほどの魔法使いがそうそういるわけじゃないでしょうけどね……。……そうだ、ちょっと船長に掛け合ってこようかしら。では、そういうわけで……」
 アイバーフィンの娘は思いついたように手を打ち鳴らし、そそくさと甲板へと上がる階段を上っていった――が、ちょうど大波の揺れが船に辺り、ぐらぐらと船は大きく揺れた。そのために彼女はまたしてもよろめいて階段から転げそうになった。間一髪のところでミスティンキルが彼女を支えた。
「……おれも行くよ。この騒ぎですっかり目が覚めちまったしな。動いていたほうが性に合う」
 ミスティンキルはそう言って階段を上り、途中振り向いて彼女の手を取った。
「ありがとう」
 銀髪の娘はミスティンキルに手を引かれて、階段を上りだした。

 甲板に出てみると、ミスティンキルの想像していたとおり、天候は荒れに荒れていた。島を離れた直後とはうってかわって、海はしけ、強い風が吹き荒れて横殴りに雪が叩きつけてきている。船が転覆する危険はないにせよ、よほど熟練した船乗りでないとこの嵐を乗り切るのは難しいだろう。水夫達が大声で怒鳴り合ってかけ声をかけつつ、なんとか舵取りをしている。その中の一人がミスティンキル達に気づいて近寄ってきた。
「危ないから、中に入っていて下さい」
 雪にまみれて真っ白になった水夫がそう言うと、アイバーフィンの女性は彼に訊いた。
「この船に“海の司”は乗ってないの?」
「あいにくと……。客人には申し訳ないが、今回の航海、“海の司”なしでも乗り切れると判断していたんですよ。ここのところ海が荒れることはなかったですしね。けれどいざ海に出てみればこの嵐……。でも我々乗員が、船乗りの意地にかけて船を安全に航海させてみせますよ。だから安心して部屋でお休み下さい」
 水夫はそう言って再び持ち場に戻っていった。とは言っても、アイバーフィンの彼女は納得がいかないようだった。
「……やっぱり船長に掛け合おう。あたしだったら、ひょっとしたら何かできるかもしれないし」
「あんたが? 船を操ることができるのか?」
「そうじゃなくて……こう見えてもあたし、“風の司”なのよ、ドゥロームさん」
 風の力の加護を受けるアイバーフィンは、“風の界《ラル》”で試練を乗り越えれば、風の力を操り空をも自在に飛べる風の司となるのだ。
「そうか……」
 ミスティンキルは、彼女に惹かれている理由が分かった。自分と同じように、彼女もまた大きな力をその身に有しているのだ。ただ違う点はひとつ。ミスティンキルが自分の力を恨めしく思っているのに対し、風の司である彼女はおのが力を誇りに思っている点だった。
「あたしだったら、もしかするとここの大気の精霊に呼びかけて、風の流れをゆるやかに出来るかもしれない……風がおさまれば、波だって静かになるはずでしょう?」
「分かった。船長室に行こう」
 ミスティンキルはそう言うと、再び彼女の手を取って船長室に向かっていった。
「あの……ドゥロームさん? あなた、お名前は? あたしはウィムリーフ。見てのとおりのアイバーフィンで、西方大陸《エヴェルク》の西、ティレス王国のディナール出身。成人して、今は五十五歳よ」
「ミスティンキル。南のラディキア群島からやって来た。夏の初めに成人したところだ」
「へえ……」
 ウィムリーフの表情が和らいだ。同行する旅人と自分との歳が近いことを知って嬉しかったのだろう。
「ミスティンキル……なんか長い名前ね。ミスト、って呼んでいいかしら? あたしも名前が長いから、ウィムって呼んでくれていいわ」
 ミスティンキルは頷いた。
「じゃあ、この船旅の間はよろしくね、ミスト!」
 顔に当たる雪を避けながら、ウィムリーフがにっこりと笑った。その笑顔は暖かかった。ミスティンキルが閉ざしていた冷たい心の壁を溶かすがごとく。

 航海図を見ていたこわもての船長は、ずぶ濡れとなった二人の客を船長室に暖かく迎え入れた。
「どうなさいましたか? どなたか病気になられたとか?」
 船長は顔に似合わず腰が低く世話好きなようだ。二人を椅子に腰掛けさせるとそう訊いてきた。船長自身、つい先ほどまで陣頭指揮に立っていたのだろう。外套はびっしょりと濡れ、短く刈り上げた髪や黒いあごひげも湿り気を帯びている。
「いえ。この船に魔法使いは乗っていないと水夫さんから聞きましたもので、あたしの力でお助けができるんじゃないかなと思ったんです。あたしはウィムリーフ。“風の司”です」
 それを聞いた船長はおお、と唸った。
「“風の司”がいるとはありがたい! ……今は我々船員が必至で船を操っているが、ご覧のとおりこの嵐はなかなか手強い。もしあなたが風を鎮めることできるというならぜひ、こちらとしてもお願いしたいです」
「ここの風が、あたしの言うことを聞いてくれるかどうか分からないですけど、やってみる価値はありそうですね。……じゃあさっそく、風に呼びかけてきます!」
 ウィムリーフはそう言って立ち上がり、船長室を後にしようとした。ミスティンキルはやや遅れて立ち上がり、ウィムリーフの後を追う。
「どうするっていうんだ? ええと、ウィム」
「言ったとおりよ。風に話しかけてみる!」
 彼女はそう言って扉を開けるやいなや――右足を蹴り上げて飛び上がった!
「え……飛んだ?!」
 あっけにとられたミスティンキルは上を向いてウィムリーフの姿を追った。ぐんぐんと舞い上がっていくウィムリーフの背中に時折ちらりと光るものがある。話に聞いたことがあるアイバーフィンの翼だ。物質的なものではないために普段は見えもしないし触れもしないが、この“翼”を広げて空を舞う時、時折羽根が光って見えるのだ。
「さすがは翼の民、アイバーフィンだな。この横殴りの風をもろともせずに飛んでいけるとは」
 船長がそう言いつつ表に出てきた。
「こりゃあ俺たち船乗りもさらに頑張らなきゃならんな!」
 船長は張り切って、船尾にいる水夫に号令を出すべく走っていった。

 一人残された格好となったミスティンキルは、再度空を見上げた。ウィムリーフは船の一番高いマストの上あたりで静止し、宙に浮いている。その表情はよく見えないが、叩きつけてきている風と雪から真っ向から対峙している。強い決意めいたものが彼女から感じ取れた。ウィムリーフはしばしの間前方の空を見据えていたが、やがて首をかしげるのだった。
「どうだ? なんとかなりそうなのか?」
 ミスティンキルが大声で彼女に向かって言った。
「うーん、どうもねえ! ほんの少し風と話をすることは出来たんだけど……あたし見くびられてるみたいで、素直に聞いてくれないのよ」
「じゃあ、駄目だってことか?」
「まだやってみる! 今度はあたしの“力”を強く出して、交渉してみるわ!」
 ウィムリーフはそう言って再び前方の空間を見据えた。そして――彼女の全身から、青い色が放射状に放たれた。
「……おれと同じだ……!」
 ミスティンキルはひとりごちた。自分と同じ、ということ。ミスティンキルも感情が荒ぶった時、まれにこういった色を発することがあったからそう言ったのだ。彼の持つ色は“ミスティンキル”という名前が示すとおり、まったき赤であった。ウィムリーフの青と、ミスティンキルの持つ赤。よくは分からないが、自分の冴えた感覚が彼自身に、双方の力の根元は一緒であると告げている。
 ウィムリーフの青い力に呼応するかのように、ミスティンキルに内包された赤い力のかけらが、ふわりと浮かび上がってきた。
「おれと、同じだ……」
 再度、確かめるように言う。
 ミスティンキルは手のひらほどの大きさを持つ赤い光を見つめて、あらためてそう言うのだった。やがてその赤い玉は彼の胸の中へとすうっと戻っていった。

 一方、青い光はウィムリーフの胸の辺りに収束すると、天井めがけて矢のごとく鋭く立ちのぼっていった。青い光の矢は上空にたれ込めている暗雲に突き刺さり、その雲を青く光らせるのだった。
「よし!」
 ウィムリーフが自信ありげに言った。風の精霊とどのようなやりとりがあったのかは当の本人でないと分からないが、どうやら彼女の思いどおりに事がうまく運んだのだろう。心なしか彼女の顔がややほころんでいるかのようにも見える。叩きつける風が、徐々におさまっていく。
「やったわミスト! この空域の精霊がちょっと頑固者でね。『ひよっこの言うことなんて聞けない!』なんて言うもんだから、ちょっと魔力を出してあたしの実力を見せてあげたの!」
 ゆっくりと舞い降りながら、ウィムリーフは話しかけてきた。びしょぬれになった顔はやや青ざめても見えるが、その表情はひとつのことを成し遂げた達成感ゆえに喜びに満ちていた。
「魔力……? 今の青い色が、魔力だって? あんた、魔法使いなのか?」
「世間一般に言ういわゆる魔法使いじゃないけどね。あたしは、風の力に特化した“風の司”だし、それに本業は冒険家なの。……まだ駆け出しだけどね。あなたも……強い魔力を持ってるのが分かるわ。ひょっとして“炎の司”?」
 “炎の司”。“炎の界《デ・イグ》”にて試練を乗り越えたドゥロームに与えられる称号だ。文字どおり、炎を操るすべを知り、かつ龍のごとく空を舞うこともできるようになる。加えて、ドゥロームの中において一目をおかれる存在ともなるのだ。ミスティンキルは“炎の司”という地位が欲しかった。自分を追いやった連中を見返すためにも。
「そうだな……。おれは、“炎の司”になりたいんだ。その試練を受けるために、こうして東方大陸《ユードフェンリル》へ向かっている。そして、聖地とか言われるデュンサアルに行って、“炎の界《デ・イグ》”へと入る」
 聞いたウィムリーフは目を丸くした。そして、おずおずと尋ねてくる。
「……あの。あたしもその旅に同行していいかしら? 迷惑だったらいいんだけど……まさかドゥロームの聖地に行く人がいるなんて思いもよらなかったものだから。冒険家のたまごとして、できれば聖地の情景を冒険誌に書きたいの」
 ミスティンキルはしばし腕を組み考えた。一人の旅には慣れているし、気楽だ。しかし、彼女が今し方見せた青い力にも興味があった。自分と同じ力を持つ人間がいるとは――。彼にとってそれは衝撃的なことだった。加えて言うのならば、異性としての彼女に徐々に惹かれてきているのがミスティンキル自身分かった。孤独という名の固い壁を、“力”に対して理解のある彼女ならば打ち破ってくれるかもしれない――。
「わかった」
 ミスティンキルは一言、やや無愛想でありながらも決意した。そんなミスティンキルに対し、ウィムリーフはそっと手をさしのべてきた。
「それではミスト。この船旅だけじゃなくて、ちょっと長いことになりそうだけれども、よろしくお願いするわ!」
 青い瞳がじっと赤い瞳を見つめ、そして笑う。ミスティンキルは彼女の凍えた手を握りしめた。
 二人の旅は、こうして始まった。

 風が止む。雪は彼ら二人の旅を祝福するかのように、上空から優しく降ってくるのだった。

〈了〉

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