『赤のミスティンキル』 番外編

§ 小さな、未来の魔法使い

一.

 学校からの帰り道。エリスメアは仲のいい友達と手をふって別れると、歩調をやや早めた。学校の寮生活はひとまず終わり、生徒全員が待ちこがれていたであろう夏休みを迎える。
 エリスメアの実家と学校はそう離れていないのだが、昨年から寮生活を希望したのは彼女自身だ。今年は最高学年であり、来年の一月には卒業する彼女。中等課程に進学するのか、それとも――。ともあれその後の自分の生活のことを思うと、一度親元を離れたほうがいいと考えたのだ。両親から離ればなれになるのは寂しいが、逆にそれゆえに家族の絆を確かに感じる。
 実家でゆっくり過ごすのは久しぶりだ。しかもしばらく家を留守にしていた父が帰ってくると伝え聞いている。嬉しさのあまり顔がほころび、エリスメアは走り出した。やや急傾斜となっている石畳の坂道を下りきったところには、大きな湖が紺碧の水をたたえている。湖のほうから吹いてくるひんやりとした風を受け、両親譲りの彼女の金髪が流れる。風を心地よく感じながら、エリスメアは坂下の自宅を目指して坂を駆け下りるのだった。

 エリスメアの家、メイゼル家はちょっと名の知れた商家で、比較的裕福な家庭である。エリスメアが生まれてから十年、親娘は西方大陸《エヴェルク》からさらに西に位置するこの大きな島に移り住み、幸せに暮らしてきた。まだ若い母であるライニィは器量よしで、しかも商売の才にも恵まれており、そろそろこの島の交易を父親から一任されるのではないかと目されている。
 一方、この家に婿入りした父は芸術に造詣が深く、本人も弦楽器《タール》弾きである。父は音楽を広めるために世界中を旅してまわっていると称しているが、その実情はエリスメア達しか知らない。さらに、神性を有するという彼の驚くべき本性も家族のみ知るところなのだが、それはまた別の話。
 そして彼らの愛しい娘、エリスメア。若い父母の愛を一身に受けて育った可憐なエリスメアは、両親と同じく気だてがよく頭も回る。学校での友達も多く、教師からの評判も上々だ。非の打ち所がないようにみえる彼女だが、一つだけ他人と大きく違う点がある。メイゼル家の跡取りという道が確約されているにもかかわらず、当の本人は商家の跡目を継ぐことは考えていないのだ。これだけならば若者にはありがちである、夢を無心に追いかけるという気質の一つに過ぎないのだが、エリスメアの場合はさらに変わっていた。彼女は魔法に強い関心を抱いていたのだ。

 魔法学が大いに栄えた時代は遙か過去のもの。この時代において魔法使いを目指す者はめったにいなかった。いたとしてもごくわずかに残された魔法書から独学で学び取るか、魔法の師匠から口伝で呪文を教わるほかなく、そうやって体得した魔法とて本物の魔法かどうか怪しいものであった。街角で見かけるまじない師達は、呪文のことばは知っていても、そのことばが意味するところは知らない。ほんのわずかなうわべの魔法知識だけを頼りに生業《なりわい》としている。今や本物の魔法使いはほとんど存在しないのだ。しかしエリスメアの夢は、実は途方もないものだったのだ。本物の魔法使いになることこそ彼女の夢に他ならないのだから。
 そしてひょっとしたら――彼女の目指す夢の入り口は、意外なところに扉を開けて彼女を待ち望んでいるのかもしれない。

 息せき切って家にたどり着いたエリスメアは、店先にいた女使用人に挨拶をしたあと、玄関の扉をたたいた。
「どなたですか?」
 扉越しに話しかけてきたのは家事を担当する使用人だ。
「エリスです! ただいま戻りました」
 エリスメアがそう言うと扉がぎいっと開き、まだ若い娘がお辞儀をした。
「お帰りなさいませ。お父様も先ほどお帰りですよ」
 使用人がにこりとエリスメアに笑いかけたその時、父が玄関に出てきた。長身で細身の青年。金髪を持つ父の優しげな碧眼《へきがん》は、娘のエリスメアにも継がれている。
「父さま! お帰りなさい!」
 エリスメアは目を輝かせて父の帰還を喜び、歩み寄るとつま先立ち、父の頬に口づけをした。音楽家としての活動や、神性を持つがゆえの使命。それらにとりあえず区切りをつけた父は、春先までこの自宅でゆっくり過ごすのだ。
「こちらこそ、お帰りエリス。外は暑かったろう? 一息ついたらお茶でもどうかな」
 日だまりのような暖かな声を発し、若い父は目を細めた。
「父さまこそお帰りなさい。あれ、母さまは?」
 とエリスメアは周囲を見回す。
「ああ、なんでも大切な荷物が港町から届いたっていうんで、引き渡し所まで行ってる。すぐに戻ってくるさ」
 父はそう言うと娘の背をぽんぽんと軽くたたき、自室に行くよう促した。コツコツと、ブーツの音を鳴らしながら、エリスメアは階上の自室へと行くのだった。

 母が多くの商品と共に、汗まみれになって帰ってきたのは夕刻だった。港町ネスアディーツから届いた品物を店員と共に仕分けている間、使用人の二人は家事を担当し、父はタールをつま弾いて彼らの心を和ませるのだった。
「そうだ、あなた達に話さなきゃいけないことがあるのよ」
 食事の途中、母親は思い出したかのように話を切り出した。父とエリスメアはスプーンを手にしたまま、母のほうに首を向けた。
「見てのとおり、港町にいるお父様(エリスにとってはお爺さまね)のところから今週分の大荷物が届いたの。さっきようやく仕分けが終わったんだけど、その中にハシュオン先生への贈りものがあってね。私はそれを先生のところに届けなきゃならないのよ。……エリスの夏休み早々で悪いんだけども、二週間ほど家を空けるわ」
「ウェインのところにかい」
 届け主とは旧知の仲である父は、穏やかな口調で言った。
「お前がわざわざ出向くってのは、ちょっとした大ごとだねえ」
「他の荷物は南の王都行きでね、それについては他の店員に一任してあるの。でも先生向けの贈りもの――魔法の本が三冊――だけはメイゼル家の人間が行かないと。お父様はエヴェルク大陸での商売にかかりっきりでこちらには来れないのだから、私がハシュオン先生のところに行くべきなのよ。もしあなた達がうなずいてくれるのなら、家のことは店員に任せて、私は出かけてくるわ。往復で二週間ほど――ちょっとした旅行になっちゃうけどね」
 メイゼル家がこの島と大陸との間で海洋貿易をするようになったのは百年以上昔のこと。そのころは今とは違い、この島国は大陸との繋がりがあまり無かったため、商人の来訪は大いに歓迎されたのだ。メイゼル家は当時の国王の相談役であるウェインディル・ハシュオン卿の厚い信頼を受けるようになり、以来その関係は続いている。
 そしてハシュオン卿もただの人ではない。長寿種族のエシアルルである彼は、七百年以上も前には大魔導師として世界に名を馳せていた人物なのだ。魔法の頂点である“魔導”を使いこなしていた彼は“礎の操者”や“最も聡き呪紋使い”と称され、魔導師達を導く立場として尊敬されていたらしい。その後魔力を失い、老いた今は国政から身を引いて、この島の北の館で隠遁生活を送っている。
「僕はかまわないよ。ただ――」
「わたしも行きたい!」
 『エリスのことが気がかりだ』と言おうとした父親の言葉を遮って、エリスメアが手を挙げた。
「エリス。食事時にはしたないぞ」
 咀嚼《そしゃく》したまま口をはさんだ娘に対し、父が言う。
「ごめんなさい父さま。でもわたし、先生のところに行ってみたいの」
「……だってさ、どうしようか?」
 父はライニィに回答を求めた。『僕は構わないよ』と言いたげに。
「エリス、そんなに行きたいの?」
 と母。
「ええ。だって先生にお会いしたいし、魔法についてお訊きしたいことだってあるのよ。……それに、わたしの夏休みにちょうど父さまが帰ってきてるのだもの。家族旅行っていうのもいいじゃない? 学校でも、両親と一緒にどこかに出かけるっていう友達も多いの。知ってる? カメルって子なんて、大陸の都ディナールでこの夏中ゆっくり過ごすって言うのよ。お願い母さま。去年の夏は見送りになったんだから、今年こそ旅行に行きたいの!」
 エリスメアは瞳を輝かせて母親に懇願した。
「はあ、まいったわね。言ったら聞かない子だもの」
 エリスメアはうんうんと強くうなずいた。
「母さま、宿題はちゃんとやるから、わたしも連れてってください!」
 そう言ってぺこりと頭を下げる。
 エリスメアが魔法に夢中になる原因は、四年前のハシュオンとの出会いにあった。当時この街を訪れたハシュオンはメイゼル家にしばし滞在した。ふとした魔法を彼が用いたのを見たことがきっかけで、以来エリスメアは不思議きわまりない魔法に夢中なのだ。学校でも〝魔導の時代〟の頃の歴史学をよく学び、魔法関連の本を読むために図書室に入り浸ることもしばしばある。娘の熱心なさまを見知った母は、エリスメアを自分の跡取りにすることを半ば諦めているほどだ。
 父は母に、目で会話した。そして切り出す。
「……それじゃあ家族旅行といこうじゃないか。めったにできないことだしね。行き帰りの護衛は僕がやるよ。……昔はよく剣を取ったものだ。その腕は今もなまっちゃいないからね。それと、エリスは母さんの言うことをちゃんと聞くんだよ?」
「はい、わかりました。大好きよ父さま!」
 面と向かってきっぱりと言われた父は、照れ笑いをして頬を緩ませるのだった。

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二.

 家族で話し合った結果、出発は二日後ということに決まった。この日の晩から早速エリスメアはわくわくしながら旅の支度に取りかかった。鼻歌を歌いつつ、持っていく服を選ぶ。往復で二週間にも及ぶ旅をするのだから、と彼女の選んだ服はこんもりと山積みになった。それを見たライニィは、身軽にしておくのが旅の鉄則なのだから服を減らすよう彼女に言った。エリスメアは口をとがらせながら、渋々荷物を減らすのだった。

 翌日エリスメアは、メイゼル家に雇われている商人が馬車に積み荷を載せ王都に向かって旅立つのを見送った。そしてエリスメアの心はいっそうはやるのだった。あのように馬車に乗って早く楽しい旅に出たい。旅支度はとうに終わり、自宅にいても暇を持てあますだけとなったエリスメアは、はやる気を逸らそうと父母の支度を手伝ったり店頭で売り子の手伝いなどをしたがそれでも気は収まらず、午後には仲のいい友達の家に遊びに行くのであった。そうして結局彼女は興奮して眠れないまま、旅立ちの朝を迎えることになってしまった。

 旅立ちの朝。ようやくエリスメアが眠りにつこうとしたとき、母は彼女を起こしにかかった。眠りたいと必死に抵抗する彼女だが母には勝てず、寝ぼけながらのそのそと着替えるのだった。
 使用人二人と一緒に朝食を済ませたあと、両親はすぐ出発の支度にかかった。父は小荷物を背負い、母は鞄とかごを手にしている。エリスメアも自分の荷物を背負って玄関を出て行った。そして出立を見送る使用人達に手を振って別れたあと、馬車の駅へと向かうのだった。
 使用人が気を利かせて駅馬車を予約していたため、一家は間違いなく馬車に乗り込むことができた。ライニィとエリスメアは箱馬車に乗り込む。帯剣している父は御者の隣に座り護衛を買って出た。
 ことん、ことん、と車輪から振動が伝わってくる。微弱な揺れと、窓を通して差し込んでくる陽の光が眠気を誘う。椅子に深く腰掛けたエリスメアは、いつしか夢の世界へと赴くのであった。

 島の東端の港町からエリスメアが暮らすカラファーを経て、西端に位置する水の街に至るまでは街道が整備されている。それに、旅人が宿泊できるようにと街道の要所要所には宿りがある。
 一日目は進路を南西にとり、昼過ぎに宿りで小休憩を取った。急ぐ旅ではない。一家は馬が十分休まるのを待ってから再び馬車に乗った。徐々に、徐々に丘陵地を上っていくようになる。馬車の前方――南に見えているのは緑多いセルの山々。家族は山越えを前にしてこの日の旅を終えた。
 二日目は西へと道を転じ、セルの山々を越える。かつては乗客も馬車を降りて後押ししないと登れない箇所があるなど険しい道だったのだが、街道の経路が見直され整備された今ではそれほどでもない。馬を休めるために何度か休息をとっただけで無事山越えは終わった。
 三日目になり、エリスメアは身体の節々が痛むのを感じた。二日間も馬車に乗りっぱなしでは疲れがたまる。ここセルの山地から西に広がる丘陵にかけては羊飼い達が大勢暮らしており、そこかしこで草をはむ羊の姿があった。タール弾きたるエリスメアの父は、のどかな曲を歌い、また弦をつま弾く。牧歌的な雰囲気をただよわせる丘陵地を下ったところにある宿りで、一家は早めに身体を休めることにした。
 四日目の出立はやや遅めだった。ここから西に向けて大平野が広がっている。馬は足取りも軽やかに馬車を引っ張っていくのだった。

 そして五日目を迎えた。昼も過ぎ、街道に沿って馬を進めていくうちに、平坦な道沿いに大きな石碑が建てられているのが見えてきた。母の横で浅い眠りについていたエリスメアはふと目を覚まし、窓から外の様子を眺めた。学校でこの島国の歴史を学んだエリスメアは、あの石碑がなんなのかを知っている。“ウェスティンの戦い”の慰霊碑だ。石碑の前にはまだ摘んだばかりの花束が捧げられているほか、戦没者を慰める茶類がグラスに入って置かれている。
 百年以上昔のことになるが、ちょうどこの地では大きな合戦があったのだ。万に及ぶ人々の血が流されたというこの戦争について、ディトゥア神族ゆえに長命な父は身をもって知っており、沈痛な面持ちで慰霊碑を見つめていた。
「馬車を停めよう。黙祷を捧げてからまた馬を進めよう」
 父はこう言い、親子は馬車から降りて石碑の前に立った。母は荷物から香茶《こうちゃ》の入った水筒を取り出し、小さな茶飲みに注ぐと石碑の前に置いた。そして三人はしばし黙祷を捧げた。迷える魂がもしまだいるのならば、無事死者の国である“幽想の界《サダノス》”へとおもむき、かの地で安らかに暮らせるようにと。
 エリスメアも両親と同様に目を閉じて、浄化の乙女ニーメルナフに祈りを捧げていたが、ふとある奇妙な感覚に気付いた。目を閉ざして何も見えないはずの視界の中央で、色を有する小さなイメージが浮かんでいるのだ。閉ざされた視界の色が曖昧な灰色や黒色だとすると、そのイメージは鮮明に“色”を――何色とは一概に言い切れないが――放っている。だがエリスメアが意識的に見つめようとすると、その像はかき消されてしまう。
(何なんだろう、一体?)
 意を決し、エリスメアはぱっと目を開けた。目の前にあるのは大きな慰霊碑。その左側に何か気配を感じた。エリスメアがそちらの方を向くと何か影のような気配が一瞬だけ見え、そして消えた。
(まさか……幽霊?)
 彼女は不安そうな面持ちで両親を見上げたが、彼らはまだ黙祷を捧げている。エリスメアは少々おびえながらも両親と同様再び黙祷を捧げた。今度は視界にイメージが入り込んでくることはなかった。
「よし、行こう」
 父は小さな声を発して母娘に出立をうながすと、石碑に置いてある花束のうち枯れているものを手に取り、馬車に向かって歩いていった。
「あの、父さま?」
 エリスメアは父を呼び止めた。
 父は振り返って娘の言葉を待つが、結局エリスメアは先ほどの出来事を告げるのをやめた。
「……ん、なんでもないの。ごめんなさい」
「“色”に気付いたのかい?」
 父の思いもかけない言葉に、エリスメアは驚愕した表情で父を見上げた。一方で母は――おそらく普通の人間は――エリスメアと父には見えている“色”が見えていないのだろう。きょとんとしたまま二人の会話を聞いている。
「父さま、あれは何なの?」
 エリスは不安な面持ちで、父と石碑とを交互に見やる。
「怖がらなくても大丈夫。あれが見えたとしてもお前には何もしやしないよ」
 父はにっこりと笑い、娘の金髪を愛しげに撫でた。
「たいした素質だ。やはりこれはいち早くウェインに伝えるべきだろうな」
 父は優しげで真摯な眼差しを娘に向けて問うのだった。
「エリス。お前は魔法使いになりたいんだったっけね?」
「はい!」
 エリスメアはきっぱりと言い切った。
「……ふむ」
 父は癖のある金髪を手で掻きあげ――おもむろに“ことば”を発した。左の人差し指を一本まっすぐ差し出すと、指先にしゃぼん玉を想起させる小さな黒い球体ができあがった。
「わあ……」
 エリスメアは感嘆した。父が魔法を使うところを初めて見たからだ。
 父は指先を小刻みにふるわせながら、球の表面に小さな文字を書き連ねていく。文字を書き終えたところで彼は小さな球体をつま弾く。と、黒い球はわずかにたわんだあと、伝書鳩よりも速く北方へとまっすぐ飛び去っていった。
「父さま! 今のは何の魔法なの? まさか父さままで魔法が使えるなんて……すごい!」
 無邪気な笑みの中にほんの少しの畏敬を込め、エリスメアは父の袖を掴んだ。
「あの球の中に手紙をしたためておいたんだ。ウェイン――ハシュオン先生宛てのね。なに、大陸じゃあ街角にいるまじない師でも使えるような簡単な魔法さ」
「わたし、父さまに魔法を教わろうかしら?」
「いや」
 父はかぶりを振った。
「僕程度じゃあ駄目だろう。お前はもっと――」
 言いかけて父は御者の席に着いた。
「……行こう。あともう少し行けば今日の宿りに着く。お二人さん、疲れてるだろうけどもう少しの辛抱さ」
 父は母娘に目配せして手綱を握った。エリスメアは父の言葉の続きが気になったが、これ以上父は教えてくれそうになかったので仕方なく馬車に乗り込んだ。

「今日の宿りは街道では一番大きいところさ。二、三日ゆっくりしていこうじゃないか」
 しばらくして、御者座にいる父が振り返って言った。
「でもあなた、先生へのお届け物をなにより――」
 母の言葉を父が遮った。
「あはは、ライニィ。さっきの魔法の手紙なんだけどさ、実はウェインに宿りまで来るように書いておいたんだ。彼の館は宿りからそう離れてはいないから、明日の昼には宿りにやって来るだろう。……大陸の魔法書が三冊程度だろう? そんなにかさばるものでもない」
「そうですけどねえ」
 母が口をとがらせて答える。
「ウェインディル・ハシュオン卿は、仮にもこの国の統治に深く携わってらしたお方。ご隠居なさる前は王位継承権第二位という地位についてらしたのよ? 商家《うち》とも長いおつきあいだし……あなたも私の夫なら、もっと礼節をふまえて行動するべきです! 手紙の一つで呼び寄せてしまうだなんて」
「でもウェインとは古くからの友達だし、それに彼が国の要人だったというんなら、僕なんか神様だ!」
 父は得意げにそう言って、すぐに表情を緩ませた。
「これ以上は子供のけんかになっちゃうからやめとこうか。……彼に早く会いたいって、気持ちが急いたんだ。ごめん」
「過ぎてしまったことだし、あなたが分かったのならいいんですけれどもね」
「それにほら、未来の魔法使いさまがお休みだ。宿りには温泉もある。ここでゆっくりして旅の疲れを解きほぐさないとね」
 母の横ではすでに、小さなエリスメアが安らかに寝入っていた。
「ねえ、ライニィ」
 父が真摯な口調で言った。
「もしこの子が商家を継がないとすると、誰を跡継ぎにしようか?」

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三.

 エリスメアは夢を見ていた。それは突拍子もなく不思議ものでも、荒唐無稽で痛快なものでもなかった。これは悪夢。かつてこの地で起こった戦争の惨劇を、彼女は夢に見ていた。その悲劇が本に書いてあったものなのか、それとも誰かから教わったものなのかは定かではない。しかしエリスメアが見ている夢は、あたかも彼女自身が今体験しているかのように鮮明なものだ。彼女は俯瞰《ふかん》的に、真下の草原の有様を見ていた。ただ見ていることしかできなかった。

 早朝。戦士団の一大隊は目指す戦地に向かうべく宿営地から離れ、殺気をはらませて一斉に決起した。だが彼らが消し損ねたほんのかすかな残り火が、不運にも近接していた森と村を地獄に陥れるのだった。
 その日は未明から大風が吹き荒れており、森の木々はみなびゅうびゅうと音を立てて揺れていた。煙を立ててくすぶっていた薪が赤く燃えはじめるのに、そう時間はかからなかった。風にあおられた火の粉が次々と近くの木の幹に当たる。幹は幾度か火に耐えしのいだが、やがてたまらず煙をくすぶらすようになった。そして発火。その野火は風を受けて他の木々へと燃え広がってゆく。

 小さな村は、四方をこの森に囲まれていた。日々穏やかな暮らしが続いていたこの村だが、さすがに戦士達が近くで野営しているとなると神経をとがらせ、大人達が数人、交代制で夜間の見張りについていた。大風を受けた木々がうなる音のせいで、火が燃える音は不運にも彼らの耳には届かなかった。
 空が薄明るくなってきた頃、ようやく一人が森の異常に気付いた。村の鐘がやかましく鳴り響く。それを聞いた村の大人達は見張りからの報告を聞き、火を消し止めるためにあわてて動き始めた。だが時すでに遅し。滑車の付いた大きな水槽を転がし、木を切り倒す斧を持って森の中に向かった大人達だが、事態はもはや取り返しのつかないことになっているのを知った。
 村を守ろう! そう叫び、大人達は村へと引き返した。が、火の手はすでに村に襲いかかっていたのだ。野火は前からだけでなく、横からも木々を燃やしていたのだ。こうなってはなすすべはない。絶望に陥った村人達は嘆き叫びながら、後方の林からかろうじて逃げのびていくのだった。
 林から脱したその後、村人達は二人の子供だけがいないことにはたと気付いた。何人かの大人達が水を頭からかぶり、決死の覚悟で村に戻るために林へと姿を消していった。

 彼女の視点は一転、とある家の中へと移った。明かりの灯っていないその部屋は薄暗いうえ視界一面煙っている。火の手がこの家にまで襲いかかってきたのだろう。こんな煙に巻かれたらたちまち昏倒してしまう。だが夢の中のエリスメアにはそれらの感覚が伝わってこない。
 夢の視点が床に切り替わる。そこにはエリスメアと同い年くらいの女の子と、彼女よりやや小柄な男の子がうつぶせになって倒れていた。姉弟なのだろう。眠りから覚め、突然の火事に驚いた哀れな彼らは、逃げようとして思わずこの部屋を包んでいる煙を吸い込み、毒気にあてられて倒れたのだ。残念ながら二人とも息を引き取っていた。
 やがて真っ赤な火が天井から見え隠れするようになってきた。この家も長くは保たない。夢の中のエリスメアは悲しみに包まれながらも、ただ見つめるほか無かった。
 天井から大きな梁が焼け落ちてくるまさにその時、彼女は目覚めた。

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四.

 エリスメアはがばりと飛び起きた。そこは馬車の中ではない。彼女はベッドに寝ていたのだ。宿り場に到着したのだろう。が、父母はどこへ行ってしまったのか? 少なくともこの宿の一室にはいないようだ。
 エリスメアは夢のことを想起した。あの出来事が今の自分に降りかかってきた災厄ではないこと、現実ではないということには安堵したが、彼女の目からは涙がこぼれ落ちていた。自分と同い年くらいのかわいそうなあの姉弟。百年以上前の戦争時、どうあっても抗えない戦災に巻き込まれた罪なき人々が数多くいたことを思うと、さらに涙がこみ上げてくるのだった。

 ふと、違和感を覚えた。
 彼女の感覚が示す方向――窓際へと視線をやると、そこに二人の子供が手を繋いで立っており、窓の外の様子を見ているのだった。エリスメアに対して背中を向ける格好となっており、彼女が起きたことにはまったく気付いていないようだ。
「――!!」
 エリスメアは声にならない悲鳴を上げた。あろうことか、この子供達は先ほどの夢の中に出てきた子供とそっくりなのだ。背丈といい服装といい。
 亡霊。
 とっさにその単語が脳裏を駆けめぐり、彼女は顔面蒼白になった。幸い、身体は自由に動く。彼女はそうっとベッドから抜け出すと、そろりそろり忍び足で出口へと向かった。大丈夫、幽霊達は自分に気付いていない。心の中に言い聞かせるとエリスメアは静かに扉の取っ手をひねった。
 がちゃり、と大きな金属の音。扉には鍵がかけられていたのだ。ひょっとしたら幽霊達が感づいたかもしれない! そう思った彼女は焦り、震える指先で鍵を開け廊下に出て、ばたんと音を立ててその扉を閉めた。

 先ほどとは違う種類の涙が目を潤ませる。恐怖に駆られたエリスメアは、裸足のままばたばたと杉張りの廊下を疾走し、階段を下りていった。階段の角を曲がったところで、彼女は真正面の人と衝突した。ぼふっと音を立てた後、まだ大きいとはいえない自らの身体が真後ろへと倒れていく。
「エリス!」
 彼女が体当たりした相手は、階上へ上がろうとしていた母だった。
「母さま!」
 階段に背中を打ち付けた痛さに構うことなく、エリスメアはぎゅっと母に抱きついた。堤を切ったかのように涙が次々とあふれ出る。
「どうしたの、そんなにあわてて」
 らしくない娘の様相に母は一瞬とまどったようだが、次に優しく声をかけ、娘の腰をいたわるように撫でる。
「母さまは……?」
「先生への贈りものが部屋に置いてあるから行くところよ。さっきハシュオン先生がこの宿の玄関に見えられたところなの。だからね――」
「部屋に、行くの?」
 涙をぬぐいつつエリスメアは訊いた。
「そうよ?」
 母は優しげに笑みを浮かべた。
「父さまが先生と話してらっしゃるわ。あなたは下に行くの?」
 言いつつ母は階段を上ろうとする。が、エリスメアの手が伸び、ライニィの服を掴んだ。
「……だめ」
「エリス?」
「幽霊がいるの。……部屋に」
 幽霊。エリスメアは勇気を出してその言葉を口にした。
 母はエリスメアの頭にぽんと手を置き、
「エリス、夢でも見たの? それにへっちゃらよ。そんなの」と笑った。
「でも母さま、本当なのよ!」
 声を震わせてしがみつく娘の肩を抱くと、母は言った。
「……じゃあ確かめてみる? 幽霊なんかいたって、私と一緒ならあなたは大丈夫。平気よ」
 心強い言葉をかけてくれる母と一緒ならば。エリスメアは首を縦にゆっくりと振った。
 階段を上って再び戸口に立ったエリスメアは、母の上衣をぎゅっと握りしめた。母は何ら臆することなく取っ手をひねる。ぎいっと音を立てて扉が開いていく。エリスメアは目をぎゅっと閉じ、どくどくと音を立てて鼓動する自分の心臓を感じていた。
「ほら、なにもいやしない」
 母は軽やかにそう言うと、荷物の中からハシュオンへ贈る書物を取り出しにかかった。母の背中に隠れていたエリスメアは意を決して目を開け、部屋の中をのぞき込んだ。
「……いる! ほら、こっちを見てる! 母さま!」
 エリスメアの目にはくっきりと姉弟の姿が見えていた。青みがかった黒髪と真っ白な寝間着。二人はあの夢のとおりの格好で、エリスメアをこげ茶の瞳でじいっと見つめていた。互いの手をぎゅっと握りしめたまま。
 姉弟からは邪気は全く感じない。が、『亡霊』という単語から導き出される先入観がエリスメアを再び恐怖に陥らせた。エリスメアは有無を言わさず母の手を取ると、彼女なりに力を込めて母を部屋の外へと引っぱり出し、ばたばたと廊下を駆けていくのだった。
「ちょっとちょっと、エリス?!」
 驚いた母は、ただただエリスメアに手を引っ張られて行くしかない。

 そんな騒ぎを聞きつけたのだろう。階下から父の声がした。エリスメアは声のほうを向く。玄関脇の休息室で、父は白髪の老人と向かい合わせになってソファに腰を下ろしていた。
「大変なの、父さま!」
 エリスメアは階段を駆け下りると、老人――ハシュオン卿――に挨拶するよりも先に、まず父親に声をかけた。
 娘の様子から察してただならぬものを感じたのだろう。父は優しさの中に真摯な意志を込めてエリスメアに応えた。
「エリス、先生にご挨拶!」
 母は娘に叱咤する。
「あ……先生ごめんなさい。どたばたしてしまって……エリスメアです。お久しゅうございます」
「うん、久しぶりだなエリス。ずいぶんとまあ可憐になったものだ」
 ハシュオンはエリスメアの名付けの親なのだ。ハシュオンは目を細めてエリスメアの成長を喜んだ。目尻に幾多のしわが寄る。長命種族の生まれであるハシュオンは、長いこと青年時の容姿のままとどまっていたが、いよいよ寄る年波には打ち克てず、エリスメアが生まれるほんの少し前から老いの時期を迎えていた。
 父は再度娘に訊いた。
「それで、何があったんだい? まずは落ち着いて。深呼吸、はい!」
 エリスメアは大きく息を吸い込んで、はあっとはき出す。焦る心にゆとりが生まれた。彼女は夢のことを覚えている限り話し、また起きあがってあとの出来事をすべて、本来の彼女らしく落ち着いて話した。
「幽霊だって?」
「ええ」
 父はハシュオンと顔を見合わせた。ハシュオンもまた興味深そうに、エリスメアの話に聞き入っていたのだ。
「ウェイン、この子は慰霊碑で魂の“色”を見たんです。その魂が付いてきたっていうことでしょうかねぇ?」
「君達の状況からすると、おそらくはそうだろう。まあエリスよ、まずは安心するがいい。その亡霊は悪さをするために君に付いてきたのではないのだから」
「はい。お気遣いいただきありがとうございます、先生。でも母にはあの子達が見えなかったんです」
「人間にはなかなか霊の実体を目にすることなどできない。その者と親しかったりした場合はその限りではないが。母君には見えなくても当然のことなのだよ。百年も前の魂を鮮明に見られるなどとは……むしろエリスの力に依るところが大きいだろう。“色”そのものを感じるなどは、さらに驚くべきことなのだが……」
「どうしようかなあ。僕たちの部屋に上がって見てみますか? ウェイン」
「気が合うな。私もそうしたいと思っていたところだ」
 ハシュオン卿は穏やかな笑みを浮かべて立ち上がった。
 父達の意外な言葉を聞いてエリスメアはどきりとした。いくら悪くはないとはいえ、相手は幽霊だ。不気味に思わないほうがおかしい。見上げると、母もまたあっけにとられているようだ。
「いいんですか、あなた?」
「大丈夫」
 父はライニィの肩を軽くたたいた。
「それよりむしろ、面白くなってきたじゃないか。ほらエリス、行くよ。怖がらなくても大丈夫、僕らが付いてる」
 父を先頭にしてハシュオン、母親と続いて階段に向かっていく。エリスメアはとまどったものの、けっきょく母の後について階段を上っていった。
「……部屋でお茶でもどうです?」
「ああ、ありがとう」
 先頭を行く二人はそんなのどかな会話をしている。一方エリスメアは――彼女の心臓は、ばくばくと音を立てて持ち主に伝えていた。

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五.

 そしてついに。
 先頭を行く二人は部屋の戸口に着いてしまった。ライニィは彼らの背後にいるが、エリスメアは母からもやや距離を置いている。心臓の音は相変わらず大きい。ぎゅっと握りしめた手のひらからは汗がにじんできた。
 エリスメアの心配などよそに、父は何気なく扉を開けた。がちゃりと言う音。そんな物音でさえエリスメアは敏感に感じ取り、びくりと肩をすくめる。
「ああ、ほんとだ。いるいる」
 父は軽々しく言ってのけた。そして母に手招きをする。
「えっ」と小声を上げた母は、先ほどとは違いおそるおそる戸口に近寄った。
「大丈夫だって。僕が横にいる」
 母は部屋の中をのぞき込んだ。
「やっぱり見えないわよ」
 母はやや不満げに父にこぼした。また同時に見えないことにほっとしてもいるようだ。幽霊と聞いて気味の悪い容姿を想像していたのだろう。
「私には見えている。――薄ぼんやりとではあるがね。顔も身なりもきちんとしている。ライニィ、心配することはない。彼らの気配から悪意など全く感じないよ」
「僕には、ウェインよりはよく見えてるのかな? 女の子はエリスと同じくらいの年だ。それに弟かな? かわいい子達だよ。どろどろしたおぞましさなんて感じないのはウェイン同様、ディトゥア神族からもお墨付きってことで」
 魔導師とディトゥア神はライニィに言った。
「さ、入ろう」
 と、父の目がエリスメアを捉える。彼はにんまりと笑い、すたすたと娘の側に近づいてきた。とっさ、エリスメアは一歩二歩と後ずさりするが、すぐに父の手が彼女の手首を掴んでしまった。
「怖がることなんかなにもないよ? むしろエリスにはどう見えてるのか、僕は非常に興味がある。ほらほらほら」
 エリスメアは必死に抵抗するが、父は両の手首を取って娘をずるずるとわけなく引っ張っていく。
(お父さまのばかばかばか!)
 エリスメアは恨み言を頭の中で叫ぶしかなかった。

「さ、エリス。着いたよ。目を開けなさい」
 父はそう言って彼女の背中をたたき、前に押し出した。エリスメアは観念して両のまぶたを開けた。
 ――見える。あの姉弟が今、小さく手を挙げた。
(なんだ。怖くなんかないわ。……いいえ、かわいいじゃない!)
 エリスメアは素直に思った。怖がることなど何一つなかった。むしろ友達のような親しみすら彼女は覚えるのだった。心の呪縛が解けていくのを感じながら、彼女はゆっくりと右手を挙げて彼らに応えた。姉弟はこくりとうなずく。エリスメアは小さく手を振り笑ってみせる。そうすると向こうもにこりと、親しげに笑いかけてきた。
「……エリスよ、君にはどう見えている? できるだけ詳しく話してもらえないかな」
 ハシュオンはエリスメアの頭を撫でながら優しく声をかけた。エリスメアから見えている姉弟の、そのはっきりと見える容姿について彼女は魔導師に告げた。
「そうなのか。どうも私には……輪郭がぼやけて見えている。色合いにしても、エリスメアの言うような色が見えない。白と黒の二色に、わずかながら色が混ざっている感じなのだ。――君はどうか?」
 魔導師はその親友に話を振った。
「うーん。僕もこの子ほどは見えてないですね。姿ははっきりと見えてますけど、色までは明確に捉え切れてない。時々微妙に色合いが変わったりするんですよ」
 父は首を横に振って答えた。
「……見えないわ」
 話題から取り残されてしまっている母はぼやいた。
「ならば、見えるようにしよう」
 ハシュオンが術を行使するために右手を挙げようとしたところを父は制止した。
「待って下さい。エリスにやらせてみたいんです。この子には……魔法の素質がある。どうでしょう?」
 ふむ。とハシュオンはエリスメアを頭からつま先まで眺め回した。当のエリスメアは呆然と立っている。まさか自分が魔法を使うというのだろうか?!
「よし。でははじまりはこの子にやらせてみよう。死者の実像化は魔導でも高度の部類に入るので、そのあとは私が行う。いいかな?」
 父娘はうなずいた。
「ではエリスよ。まずは目を閉じ、彼らの姿を脳内に創りあげるのだ。そして【ウォン】と唱えよ。これは魔導の“はじまりのことば”。魔導の行使にはすべからくこのことばが必要なのだ。終わったら目を開けて、私が言うとおりにしてもらいたい」
 魔法の頂点にして封印された魔導を使う。エリスメアはその現実にとまどいを感じながら、ただうなずいた。エリスメアは魔導師の行ったとおり目を閉じ、すぐさま姉弟の姿を緻密に創りあげていく。そして、

【ウォン!】

 聞き慣れない音声を発したあと、ハシュオンを見た。
 ハシュオンはよくやったと、満足げに微笑みを浮かべてうなずいた。彼はゆっくりと右手を足下から天井へと上げていく。と同時に部屋の中央から緑色に光を放つ糸が一筋出現し、煙のようにゆらゆらと立ち上るのだった。
「――この世界は魔力に満ちている」
 伝説の魔導師はエリスメアに語った。
「万物の中に深く内包されている、魔力を帯びた“色”を用いることで魔導は行使されるのだ」
 ハシュオンは緑の糸の先を指でつまむとエリスメアの胸の前まで持っていった。
「つかんでみなさい」
 言われるままにエリスメアは魔力を持つ糸の先端をつまんだ。ちらとハシュオンを見ると、彼は真剣な表情を浮かべている。
「……先生、これからどうすれば?」
「ああ、つい見入ってしまった。……本当にすごいな。君は――。ああ、まずは魔導の行使だったな。持っている糸をあの子達に向けて投げるのだ。そしてそれが彼らにまといつき、彼らの実像を現すようにと強く念じてほしい」
 言われるまま、エリスメアはつまんだ糸をまっすぐ放り投げた。横ではハシュオンも同じ動作をしている。糸は一直線に伸びて姉妹のところまでたどり着くと、彼らの胴体にまとわりついた。ハシュオンが手を小刻みに動かしながらなにごとかを念じる。糸はぴかりと輝きを放ち、そして消えた。
「見えた!」
 と母の声。エリスメアから見れば何一つ彼らが変わったところはないのだが、母の様子からして魔導は発動したようだ。
「――無事終わった」
 そう告げると、魔導師が大きく息をついた。魔導に携わった時間はほんのわずかだというのに、かなりの精神力を消耗したようだ。

[あら?]
 姉の幽霊が声を上げた。とんとんと、裸足で床を鳴らす。
[わ、すごい! からだがある!]
 姉は弟と顔を見合わせて喜んだ。しゃべっている言葉はエリスメアには全くなじみのないものだったのに、意味は伝わってきた。
 と、姉はエリスメアに手を差しのばしてきた。エリスメアはゆっくりと手を取り、握手を交わす。
[ありがとう。あなたと話ができるなんて、嬉しい!]
 姉はにっこりとエリスメアに笑いかけた。弟のほうもエリスメアと握手を交わした。
[あたしはリージ。この子はクレフ。ラサク村の生まれなの。……今のあたし達がどういうものなのか……幽霊だってことは分かってるの。あの時は村のみんな、無事だったのにあたし達だけ死んじゃって……でもその村の人たちも今では生きてない。……さびしかった]
 リージは表情に影を落とした。
「実体化できる時間はそう長くはない。だが、君達が伝えたいことをすべて私達に話してごらん。きっと気が晴れる」
 とハシュオン。
「……お茶、飲めるのかしら?」
 ライニィは姉弟に問いかけて、水筒に入っていたわずかばかりの香茶を彼らに差し出した。姉弟は礼を言い、さっそく茶飲みを手に取った。
[嬉しい! ありがとうございます。このお茶飲みたかったんです。――いい香り。おいしい……]
 それからリージはかつての自分たちのことについて話し始めた。両親のこと、村人達のこと、ラサク村のことについて。
 ライニィはいったん席を外したが、新しい茶と共に部屋に帰ってきた。姉弟にも茶が配られる。姉弟はまた喜び、ライニィに礼を言った。

 しかし楽しかった時間もわずか。姉弟の身体は実体を失いつつあった。
[話を聞いてくれてありがとうございました。たぶんこれであたし達も、ようやく村のみんなのところに行けると思います]
 まもなく実体が消えることを悟ったリージは、それでも幸せ一杯の表情を満面に浮かべ、ほほえんだ。
[エリス。あなたを慰霊碑のところで見かけて、追ってきたの。あたし達を感じ取ってくれたはじめての人だったから、嬉しくて……]
「さっきはごめんなさい。わたし、あなた達を怖がっていたわ」
 エリスメアは頭を下げた。
[仕方ないわよ。あたしだって幽霊と聞けば怖がるに違いないもの]
 リージはころころと笑った。
[……こんなこと言うのも変だけれど……エリス、友達になってくれない?]
「もちろんよ! わたしはあなた達のこと忘れない。だからあなた達もわたしを見守っていて?」
 あふれ出ようとする感情をぐっとこらえ、エリスメアと姉弟は固く握手を交わした。そうしてすうっと、姉弟の姿はエリスメアにも見えなくなった。一筋の涙がエリスメアの目からこぼれ落ちた。
「あの子達は世界の果ての山々を越えて月に行き、そして〝幽想の界《サダノス》〟にたどり着くだろう。……お前はあの子達を救ったんだよ」
 父は彼女の柔らかい金髪を撫でた。涙をためたエリスメアは父に向き直ると、小さな身体を父の胴に埋めて、しばらくの間泣きじゃくるのだった。

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六.

 屋根の上から見えるのは満天の星空と月。
 この夜、ハシュオンはメイゼル一家と同じ宿で泊まることにした。ハシュオンは天上高く見える月を見上げると親友に言うのだった。
「今日はここに来て本当によかった。この数十年間で、最も意義のある日だったのかもしれない」
 エリスメアの父はうなずいた。
「娘のことですか」
「そうだ。大陸の魔法書ももちろん貴重な本だが、それ以上にエリスには驚かされた。彼女は本当の魔法使いだ」
 言って、ハシュオンは月から目をはずし、親友を見た。
「エリスメアを、私の弟子にしたい」
 親友の一言に、ほう、とエリスメアの父は驚きの声を漏らした。
「私も年老いた。今日会った姉弟と同じ場所に赴くのもそう遠いことではないだろう。私の人生は波瀾万丈、色々なことがあったが、今では幸せな人生だったと思っている」
 父親は黙ってハシュオンの言葉を聞いている。
「……今まで私は、魔法学の後継者を見いだすことができなかった。魔法の頂点たる“魔導”こそ七百余年昔に封印されたが、魔法はまだ細々と世界に残っている。だが魔法の意味や世界に及ぼす影響までをも考えられる本当の魔法使いは、今では僅かばかりとなってしまった。また彼らを後継者に迎え入れるには彼ら自身年を取りすぎている」
「エリスは適切ですよ。魔力を帯びた“色”も見え、手に取るように扱える。足りないのは実践と知識です」
 父は笑って、娘の資質に太鼓判を押した。
「……明日、エリスメアに訊いてみよう」
「あの子はびっくりするでしょうね。ライニィも。でもアリューザ・ガルドには、あの子の力が必要になるでしょう」
 二人は再び天上を見上げた。

 今宵の月は真円を象って、白銀の光を地上に放っていた。

〈了〉

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