『フェル・アルム刻記』 第二部 “濁流”

§ 第五章 “混沌”の襲来

一.

 その戦士達が身に包むは、禍々しい真紅の鎧兜。それは甲冑というよりは装甲に近しかった。角の突き出た、異様ともいえる兜から、その持ち主の面構えは見て取れない。彼らに相応しい色は、赤を置いてほかにないだろう。だが、その意味するところは、人々の鮮血か、地獄の業火か――。

 烈火の召集。
 七月四日の午前に発せられたこの勅命は、半日を経ずしてフェル・アルム中枢都市群に伝わった。近隣の街からは続々と烈火の戦士達が馳せ参じ、夕刻の頃には五百を数えるほどにまでなった。アヴィザノ駐留の烈火と合わせれば千名ほど。烈火全体の半数以上が、わずか三刻の間に結集したのだ。
 一人、また一人と、重厚な紅蓮の鎧に身を包んだ者が帝都アヴィザノの門をくぐってきている。行く先は――焔《ほむら》の宮。そこはアヴィザノ中枢の東のはずれに位置し、普段は城下の兵士達の駐留場となっている。だが、アヴィザノ駐留の兵士達だけでは持て余すほど広い。大きさのみに言及するのならば、王宮であるせせらぎの宮すら凌ぐほどである。
 焔の宮の不必要なまでの広さに疑問を持つ者が宮中にいたとするなら、おそらく彼は今日この日に、自身の認識をあらためることであろう。焔の宮は文字どおり、二千を数える烈火が決起する場所なのだから。

 デルネアは、焔の宮二階にある将軍用の部屋の窓から、烈火が宮中に入る様子を何をするでもなく眺めていた。彼は勅命の伝達の速さと、烈火達の対応の迅速さに満悦していた。この分だと明日の昼までには烈火の進軍が可能だろう。真紅の軍隊は、各地で畏怖の念をもって迎えられる。そして勅命の伝達の速さから考えると、“力”を持つ者が、早々と烈火に接触をとる可能性はきわめて高いようにデルネアには思えた。
 “力”の持ち主がいかに強大だとしても、二千の烈火相手では分が悪かろう。何よりこの世界において、デルネア以上に強い者など存在するわけがない。かの〈帳〉ですら、魔導の力は全盛期とは比べ物にならないほど低いのだ。デルネアの前には赤子同然であるのは言うまでもない。
(太古の“混沌”や、空間のひずみなど怖るるに足らん)
 デルネアが“力”を入手したその時こそ、何人にも干渉されないフェル・アルムにおける絶対的存在となるのだ。“混沌”すら、次元の彼方に追いやることが出来よう。そして――永遠の停滞のみがこの世界を包み込む。それこそが真の平穏。理想郷の中で、自分自身が神として君臨する――デルネアが望みうる最高の願いが成就されようというのだ。
 だが、明らかにデルネアは慢心していた。彼が今までどおり、世界の影の調停者の役を務めているのであれば見落とさなかったであろう事柄を、失念しているのもそのためである。
 それは、“宵闇の影”と名乗った魔龍の本性であり、そして――ルイエの動向であった。
(小娘め。烈火による殺戮を防ぐために我をけん制したあたり、なかなか賢いとみえる……。だが、我の真意など所詮分かろうはずもない……)
 それきりデルネアの頭からはルイエのことは消え、彼は再び集結する烈火を眼下に見ながら、絶対者としての自分に思いを馳せるのであった。

 七月五日前五刻。勅命からわずか一日しか経ずに、烈火は進軍を開始した。
 デルネア将軍は、すぐさま二千の烈火を先鋒、次鋒、中団、殿《しんがり》の四部隊に分けた。そして自らは中団第三軍の指揮を執るようにし、先鋒隊から順次行軍をはじめた。二千の烈火のうち三分の二は歩兵で、騎馬隊は中団の軍に限られていた。一騎当千の烈火にあっても、中団軍五百人はその最たる精鋭兵で固められているのだろう。
 彼ら異形かつ重厚な甲冑を身にまとう烈火の中にあって、デルネアと彼の麾下の者達のみ、装いを異にしていた。デルネアはきわめて軽装であり、彼の普段着である紫紺の上衣とズボンを身に付けているのみ。まるで市井の若者そのままのいでたちであった。また、矛槍を武器としている取り巻きの烈火達もまた鎧をまとわない。彼らは一様に黒いローブに身を包み、銀色の仮面で顔を覆っていた。彼らが醸し出す不気味さは、ほかの烈火の戦士達とはまた異なるものであった。

 昼下がりのアヴィザノの街を深紅の軍団の殿が通り過ぎ、二千の大軍は重厚な城壁からセーマ街道へと隊を成していた。
 一陣の風が通り抜ける。いくつもの白く大きな旗が、風を受けてばさばさと揺れる。旗には巨大な一本の角を持つ生き物が描かれている。なみなみとした純白の体毛を持つ四本足の動物は、大山猫でも馬でもない。聖獣カフナーワウと称されるその生き物は、神君が全土を平定した時に騎乗していた神の使いとされており、ひいてはフェル・アルムそのものの象徴として崇めまつられている。
 聖獣の旗を手にすることが出来るのは、王家を中心とした中枢と、勅命を受けた騎士達に限られている。ゆえに、当初は深紅の戦士達を不安と奇異の目で見ていたアヴィザノ市民達は、聖獣の旗を目にして考えを一変させた。
 フェル・アルムに起きている大いなる変動。その不安に駆られる人々が、カフナーワウの旗のもと進軍する深紅の騎士達に寄せる思いはただ一つ。畏敬の念である。はたして救いを求める人々の願いは成就されたのだろうか?
 ある面ではそうだろう。神君の名のもと、ついに中枢の騎士達が動き出したのだから。フェル・アルムの急変に恐れおののく人々は、涙を流しながら祈った。どうか、災いの元凶たるニーヴルを討伐して、再び平和をもたらしてほしい、と。また、こうも思っていた。中枢の騎士達が動けばもう安泰だ。十三年前もそうであったように、全ては丸く収まるのだ、と。
 だが別の面から見れば、願いは成就されたとは言い切れない。混乱に戸惑う人々の切なる願いは、所詮は浅はかな願いである。少なくとも、フェル・アルムに隠された真実を見きわめられるほどまで、人々は聡明ではなかったのだ。
 ニーヴルなど存在しないのだから。

『ニーヴル打倒のために中枢の騎士達動く!』

 この報は烈火達が進軍するより先にフェル・アルムを駆けめぐることになる。

* * *

「〈要〉《かなめ》様」
 烈火の中団にて馬を進めていた〈要〉――デルネアの側に黒ずくめの男が馬を寄せてきた。
「今し方、我ら隷の一人が北方の状況をつかみました。クロン付近にて様子を窺っていた疾風、四名の所在がとぎれた模様です」
 銀色の仮面の下の表情は伺い知れないが、しゃがれ気味の声色は明らかに戸惑っていた。
「とぎれた……だと? 疾風どもは殺されたというのか? 〈隷の長〉よ」
 デルネアは言った。
「いえ……跡形もなく消え去った、というのが正確な表現でしょうか」
「北方の“混沌”がすでにクロンにまで及んでいる、ということか。黒い雲の下では土が腐り、やがて尋常ならざる闇に閉ざされるであろう。急がねばならん。この世界は消え去ってはならぬのだ」
 デルネアは遠く、北の空を見やった。南部のこの街道からは何も見えないが、北部での混乱はいかばかりなものか?
「だからこそ、我に“力”が必要なのだ。二つの大きな“力”……それは、空間の歪みを生み出した者達が持っている。烈火が動いているということを聞きつけば、おそらく彼らは我がもとに来よう。そうだ、全てが無くなる前に早く我がもとに来るがいい。その時こそ我《われ》が“力”を得る、大いなる永遠の始まりの時なのだからな!」
「〈要〉様が全てを平定なさったその頃には、“混沌”により北部は失われているやも分かりませぬが……」
 〈隷の長〉は畏まって言った。
「構わぬ」
 デルネアはことも無げに言い放った。
「世界が消え去ることに比べたらその程度の損傷など無きに等しい。歴史は創られる。我によってな」
 デルネアは言葉を続けた。
「〈隷の長〉よ。この件が片づいたところで、クロンの者達をニーヴルと仕立て上げるとしよう。全ては住民になりすましたニーヴルの仕業である、とすれば丸く収まる」
 隷の長は深々と頭を垂れた。
「全ては〈要〉様の掌中に収まるべきなのです」
 絶対者としての思惑を胸に秘め、デルネアは烈火とともに北へ向かうのだった。

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二.

 デルネアらが進軍を開始した、同じ頃。フェル・アルム北部は混乱のきわみにあった。クロンの宿りは、今まさにその渦中に飲み込まれようとしていた。

 北方――“果ての大地”に“混沌”そのものを表す黒い空が出現したのは、三日ほど前だろうか。
 それは徐々に青空を蝕みつつ南下をしていた。クロンの人々は訝りながらも日々の暮らしを続けていた。しかし今日、夜が明けて一刻を報せる鐘が鳴っても空はいっこうに明るくならない。
 人々が気付いた時には、すでに災いが降りかかっていた。何の前触れもなく魔物が出現し、町中を混乱に陥れている。衛兵や傭兵達は、見たこともない化け物に怯えつつも被害が広がらないように自分自身の仕事をこなしていた。人々の嘆く声、叫び声が聞こえてくる。もはや平穏な日常など崩れ去っていた。いったい何人の人達がわずか半日あまりで犠牲になったというのだろうか?
 だが魔物の到来などは、崩壊の前触れに過ぎないのだ。魔物の襲撃を恐れてクロンの宿りからいちはやく逃げ出した人達はまだ幸運である。黒い空が運んでくるもの、すなわち太古の“混沌”そのものが押し寄せた時、間違いなくこの町は漆黒のもとに消えて無くなるのだから。

* * *

「ああ! いったい何なんだよ、こいつはぁ!」
 宿屋〈緑の浜〉にて。ディエルは、今し方自分に襲ってきた、今となっては骸となっているものを足蹴にした。
 ディエルとハーンが寝泊まりしている部屋に球状の空間が突如出現し、中から羽らしきものを幾多も持つ、鳥とも巨大な虫ともつかないような魔物が飛び出してきたのだ。魔物の突進を受けるより早く、ディエルは低い姿勢で一歩身を乗り出して、魔物の胴体あたりに手刀の鋭い一撃を見舞った。化け物の体はまっぷたつに裂け、床に落下して息絶えた。
「“混沌”の先兵どもめ。こいつらがこんな人の住むとこまで現れるなんて……!」
 ディエルは魔物の死骸を放って、窓の外を見やった。昼下がりだというのに、外はまるで夕暮れ時のように暗い。なぜならば、上空を黒い空が覆い、日の光を閉ざしているからだ。
「黒い空……昨日まではまだまだ遠くにあったのに、今日になっていきなりこんなとこまで来てるなんてなぁ!」
 ディエルの口調は余裕など全くなく、焦りが感じられた。

 ディエルは神の使いである。アリューザ・ガルドを創り上げたアリュゼル神族のひとり、“力”を司るトゥファール神の使徒。世界に点在する“力”をトゥファール神のもとに持ち帰るのがディエルとジルに課せられている使命であった。

 そんな彼であっても、目の当たりにする太古の“混沌”に対しては、なすすべがない。あの暗黒の中に入ってしまえば最後、自身は抗うことが出来ずに消滅してしまうだろう。
「ジルはまだ城のところにいるみたいだな。ジルのやつ、もう一回こっちに来てくれよぉ! オレの足だと城まで何日かかるか……もう迷うのは金輪際ごめんだし……どうすればいいんだよ?! くそぉっ」
 ディエルは舌打ちをして身体を翻す。
「もうだめだめ! こんな“混沌”が来ちゃったら、オレの手には負えないよ。ここは逃げるしかないね! 馬でも盗ってきちゃってとっととジルに会って、一発こづいたらこの世界からおさらばしよう! うん、それしかない!」
 自分を納得させるかのようにひとりごちると、彼はそそくさと魔物から離れ、扉の取っ手に手をかけようとした。
 だが取っ手を回すのを躊躇する。がちゃり、がちゃりと取っ手を回す動作を繰り返すが、しまいにディエルはくるりと身を返した。
「……ああ、もう! なんでオレはこの兄ちゃんが気になるんだよ?! このさい“力”を取ることなんて気にしてる場合じゃないってのにさ!」
 ディエルはハーンが寝ている枕元まで近づいた。ハーンがうめき声をかすかに上げて寝返りを打つのを見て、ディエルの顔がほころんだ。じきにハーンの意識が戻りそうである。
「ジルとおんなじように……オレもこの世界に入れ込んじゃってるっていうのか?」
 ディエルはぽつりとこぼした。

 その時、ハーンの両目がゆっくりと開いた。金髪の青年はけだるそうに首を左右に動かし、まわりを見渡す。
[あれぇ? ここって?]
 がばりと毛布を跳ね上げて、ハーンは起き上がった。
[兄ちゃん、ようやっと目が覚めたようだね]
[ディエルかい? ここはまさか……親父さんのとこかい?]
[そうさ。兄ちゃん、あの化けもんと戦ったあとでぶっ倒れちまったからな。はっ! まったく、ここまで連れてくるのに苦労したんだからな!]
 ディエルは、ハーンが倒れたあとの顛末を簡潔に語った。ハーンが倒れた原因は、ハーンの漆黒剣に細工を施したディエルにあるのだが、ディエルはおくびにも出さずに軽口を叩いた。
[そうか、戻って来ちゃったのか……今はいつなんだい?]
 やや落胆した面もちでハーンが言った。
[あれからかれこれ三日経ってるんだよ。さあ、さっさと起きておくれよ! こんなことしてる場合じゃ……]
[たしかにこうしてる場合じゃないよ。三日も経っちゃったなんて! とにかく早く出かけなきゃ! 行こうディエル、君には面倒を見てもらって、迷惑かけたみたいだしね]
 言いつつハーンは衣装掛けから自分の上衣を取って着替え始めた。
[そうだよ、とにかく早く逃げ出そうよ!]
 こんなとこでのんびり構えている場合ではない。“混沌”に飲まれる前に、ディエルは一刻も早くクロンの宿りから逃げたいのだ。
[……逃げ出すって? うわ! なんだこいつは?!]
 ハーンが嫌悪の声をあげた。未だ体液を流しながら床に転がっている骸に気付いたのだ。
[死んでる……。しかしこんな化け物がどこから……?]
 その時、がいん、という何とも重々しく鈍い響きが外から聞こえてきた。間髪入れずに雄叫びが上がる。
 ハーンは窓に駆け寄って、おもての様子を見た。
[な……!]

 言葉にならない。町の衛兵達や、見知った傭兵達が、異形の魔物達と戦っているのだ。すと、と槍の鋭い一撃が見舞われ魔物が倒れるところを、ハーンとディエルは目の当たりにした。そんな戦いの光景が、街のあちこちで繰り広げられているようなのだ。
 そして何より、空を覆い尽くすのは漆黒そのもの。
[“混沌”が……こんなところにまで……]
 思わず、ハーンはつばを飲み込んだ。窓の格子をつかんでいる腕が震えるのが分かった。
[なんて巨大で……忌まわしい空なんだ! “あの時”とはまるで比べものにならないよ]
 そして、意を決したように両開きの窓を開け、今し方まで戦っていた戦士に叫んだ。
[そこの槍使いはリュスだろう?!]
 魔物の死体を検分していた戦士のうち、槍を持っていた男が顔を上げた。
[ハーンか! 気がついたようだな! 目が覚めてんのなら、手を貸してくれよ!]
[今から行くよ! だけどリュス、町のみんなに言ってほしいんだ。クロンから出来るだけ早く逃げ出すようにってね!]
[大丈夫だ、ハーン! 俺達のほうが化けものどもを圧倒しているからな! これ以上こいつらが増えることもなさそうだし、そのうち全部退治出来るさ! そうしたら、避難してる町の連中も引き返してくるよ]
[違うんだ! 僕が言ってるのは魔物達のことじゃない! 見えるだろう、あの黒い空のことだよ! あれが向かってきたら、何もかも全て無くなってしまうんだよ!]
 大げさに身振り手振りを示しながら、ハーンも必至に声をあげた。リュスは何気なく上空を見つめる。
[……確かにこの空は嵐を呼びそうで薄気味悪いけどよ……]
[嵐なんてもんじゃないよ、あれが呼ぶのは! もっと、もっと恐ろしいものだ! 頼む、みんなに言ってくれ!]
 だがハーンの懇願もむなしく、リュスはまったく的を射ない面もちで、ぽかんとハーンを見つめるのみ。
[とにかくハーン、お前さんがいたら心強い。早く支度をしてくれないか? ま、もうじき片が付くとは思うけどな!]
 リュスは右手を挙げて挨拶をすると、ほかの戦士達とともに走っていってしまった。

[だめだ、こんなことじゃあ、みんな“混沌”に飲まれてしまう!]
 だん! と、ハーンは珍しく感情を露わにして、壁に拳をたたきつけた。ディエルは思わず肩をすくめる。
[ディエル。親父さん達は無事なのかい?]
 ハーンは言葉の調子を落ち着かせて言った。
[え? うん、多分下の階にいるだろうけど]
[分かった。……今何が起きようとしているのか、君にはわけが分からないとは思うんだけど、とにかく親父さん達と一緒に町の外に逃げてくれ。覚えていてほしいのは、必ず東の門から逃げるっていうこと。そのまま南に行けばスティンに行けるからね。西の門から逃げたら……絶対にだめだよ!]
 横に倒れている魔物を気にしつつも、ハーンはそそくさと支度を整え、漆黒の剣を取り上げた。
[さあ、行こう。親父さんには僕から話を付けるから]
[その後、兄ちゃんはどうするんだよ?]
[ここからみんな避難するように呼びかけるさ。町長のバルメスさんにお願いをしてみる]

 ここクロンの宿りが形成され始めたのは二百年前。サラムレから移住してきた人々の中にバルメス家があり、以来バルメス家は、この地に居を構えている名家として知られている。クロンが町と呼べるほどに成長したのも、かの一族の人脈と人望によるところが大きく、町長に推されたのは当然の成り行きであった。
 来る者は拒まず、暖かく迎え入れる。はじめてハーンがクロンを訪れた時も、初老の町長は親身になって接してくれたのだ。ハーンは今一度、町長の恩にすがろうと思った。バルメスの一声があれば、町の人を全て避難させることくらいたやすいはずである。ハーンとしても、それ以外に手の打ちようがなかった。

 階下では、〈緑の浜〉の宿泊者達とナスタデン夫妻が神妙な面もちで座り込んでいた。
[親父さん!]
[ハーンか! 良かったぞ。気がついて何よりだ!]
 ナスタデンはハーンが目覚めた喜びと、現状の不安が入り交じったような顔で、狼狽しながら話しかけてきた。
[しかしハーンよ。……気を落ち着けて聞いてほしいんだが]
[分かってるさ。化け物が町中を荒らしている。“混沌”が近づいてきて、魔物達が跋扈《ばっこ》している、てことなんだろう?]
 戦士として、毅然とした口調でハーンが言った。
[ハーン……。お前ってやつは、ふだんぼぉっとしてるくせに、時々とてつもなく鋭くなるんだな……]
 ナスタデンは目をぱちくりして驚いてみせた。
[ともあれ、今朝からこの有り様だ……一体クロンはこれからどうなっちまうんだ?!]
[親父さん、頼みがあるんだ]
 ハーンはナスタデンの両肩にぽん、と手を置き、諭すように話し始めた。
[正直なところ、クロンの宿りはもう保たない。いずれ近いうちに“混沌”の闇の中に消え失せてしまうだろうからね。そこでお願いがあるんだ。聞いてくれるよね?]
 ナスタデンは素直にうなずいた。
[ディエルを連れて……ああ、もちろんお客さん達も一緒に東門から出て、出来る限りクロンからは遠ざかっていてほしいんだ。僕はバルメス町長に、みんなを避難させるようにって話を付けたあとで、必ず親父さん達に追いつく。とにかく一刻を争うんだ!]
[しかしハーン。……俺はここを手放すつもりはないぜ? もし、避難するにしても、色々と持っていくもんとかが……]
[だめだよ!]
 有無を言わせぬハーンの物言いは、恐ろしく威圧感に満ちていた。
[頼むから、僕の言うことを信じてほしいんだ。今すぐ逃げ出してくれ、お願いだから!]
 雰囲気に圧倒されたナスタデンがうなずくのを見ると、ハーンは笑みを浮かべ、玄関の戸口へ向かった。
[じゃあディエル、あとで会おう! あ、そうだ、僕の部屋からタールを持っていってくれないか? あれがないと商売あがったりだからね]
[あの楽器を持ってけばいいんだろ、分かったよ、兄ちゃんも気を付けろよな]とディエル。
[ハーン、お前の言うとおり、俺達は今から逃げ出そうと思う。が、気を付けろよ。化けもんが外をうろついてるからな。……しかしお前ってやつはほんと、とらえどころがないやつだなあ]
 ナスタデンが言った。
[それがティアー・ハーンだからね! くれぐれも東の門からスティンに向かってちょうだいな、お願いだよ!]
 念押ししたハーンは目配せ一つして、宿から出ていった。

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三.

 表に出たハーンは再び黒い空を見つめた。剣を持つ手がわなわなと震えているのは、怒りのためでも、恐怖のためでもない。かの漆黒を懐かしむ感情が心の底からわき出ている。そんな自分自身に戸惑っていたのだ。
 そんな感情を払拭するかのように、ハーンは駆けだした。
 町の通りには魔物達の黒い屍が至るところ転がっていた。時折、町のどこかから金属のあたる音が聞こえてくる。数こそ少なくなったものの、魔物達はまだ襲ってきているのだ。民家はどこも固く門を閉ざし、灯りを消して侵入者の襲来を拒絶している。だが、魔物どもはクロンの外からやって来たのではないのだ。彼らは、黒い空の下であればどこであれ、空間を渡ることが出来るのだから。屋内に突如として現れた魔物達の犠牲になった人々も多いだろう。
[お願いだから逃げてください! 東の門から出てスティンへと! クロンはもう保ちません!]
 ハーンは喉が枯れんばかりの大声を張り上げつつ、ひたすら走った。一人でも多くの人が避難してくれることを願って。
(理解してくれる人などいるだろうか?)
 詮ない願いでしかないのかもしれないのだが、諦めてしまっては助かるものも助からなくなる。この場で、状況を正しく把握しているのはハーンひとりしかいないのだ。
 どこかで断末魔の悲鳴が聞こえた。何も出来ない自分が情けなく思えてくる。ハーンは泣き出しそうになっている自分を抑えるために、唇を固くかみしめ、ふたたび大声で人々に呼びかけた。戦い終わった戦士達が一瞬、ハーンの言葉に耳を傾けるも、とりたてて反応はしなかった。

 小さな町だとは言っても〈緑の浜〉から町長宅まではかなりの距離がある。さすがのハーンも、人々に呼びかけながら走るのは堪える。途中、魔物が飛びかかってきたが、ハーンは光弾を飛ばして撃退した。
 ようやく通りの正面にバルメス宅の白塗りの塀が見えてきた。しかし、そこに行くまでの通りを魔物が暴れていて邪魔をしている。がっしりとした四肢を持つ魔物のすがたは、熊のようでも猪のようでもありながら、そのどちらでもない。以前、ハーンがディエルを連れてスティンへ向かう最中に出くわした魔物と同じ種族である。
 魔物はしかし、ハーンに向かわずに、赤い目を不気味に輝かせながら、道ばたで倒れている戦士めがけて突進していった。このままではあの戦士はやられてしまう! そう思ったハーンは力を振り絞って疾走すると剣で一閃、魔物を瞬時にして撃退した。
[……やあ……魔物達の状勢は……どうだい?]
 荒く息を吐き出しながらも、ハーンは戦士に訊いた。戦士は一言礼を言うと起き上がった。
[まったく酷いもんだ! 一体どれくらいやられたのだか、見当がつかない]
 彼は額に流れている血をぬぐって言った。
[でも町の中も、だいぶ落ち着いてきたようだ。化けもんどもはあらかた始末したんじゃないか?]
[そう……お願いだから、町の人に呼びかけて一刻も早く東門から逃げて欲しいんだ。僕はこれからバルメスさんにかけ合ってくる]
[町長さんだって?]
 戦士は顔を曇らせた。
[無事だといいが……はたして大丈夫かどうか]
[彼に何かあったのかい?]
 戦士は、足下で未だ痙攣を繰り替えしている魔物に、忌々しげにとどめを刺した。
[こいつはな……バルメスさんのところから飛び出してきたんだ。……てことは、やられちまってるかもしれない]
 そう言って顔をしかめた。それはハーンにとって、もっとも聞きたくない言葉であった。
[だけど、僕は行ってみる! まだ、そうと決まったわけじゃあないだろう?! とにかく、このままじゃあみんなやられちゃうんだよ! あなたも早く逃げてくれ! 東へ!]
 再度忠告をして、ハーンは一目散に駆けだした。

 門をくぐると、玄関の扉は無惨にもうち破られていた。ハーンは勢いをつけて扉を開けた。
「これは……」
 館の中はまるで嵐が訪れたかのような酷い有り様だった。壁はいたるところで破られ、調度は壊されており、あの魔物がどのように暴れ回ったかが分かる。
 玄関口付近で女中が一人伏していた。ハーンは駆け寄って抱き起こすが、すでに彼女はこと切れていた。ハーンは冷たくなった女中の手を握りしめ、黙祷を捧げた。
「せめて僕がもう少し早く目覚めていれば! 黒い空が見えた時にバルメスさんに会っていれば! みんな逃げられたのに! こんなことにはさせなかったのに……」
 彼女を壁際に横たわらせ、もう一礼すると、ハーンはよろよろと歩き出した。目頭が熱くなるのを感じるが、感情を押し殺してハーンは駆けだした。
 一つ一つ扉を開け、室内を見渡す。三つ扉を開けたが、中はもぬけの殻だった。しかし、四つ目の扉を開けた時、むせかえるような嫌な匂いが室内から立ちこめ、ハーンは思わず顔を背けた。血の匂いだ。
 ハーンは覚悟を決めて向き直った。戸口付近に二人、テーブルに五人、多量の血を流して倒れていた。ちょうど食事どきだったのだろうか? 食堂に一家全員が集まったその時、あの魔物が姿を現したのだ。そして、バルメスの家族や住人達の逃げる間もなく――。
[町長! バルメスさん!]
 声を裏返しながら、ハーンは血に染まったバルメスの身体を抱えた。だが、もはや言葉は返ってこない。伝わってくるのは、冷え切った肌の感触と、なま暖かい血である。ハーンの望みは絶ちきられた。
(あなたがいなくなって、どうすればいいのです?)
 堪えていた感情が堰を切った。ハーンはバルメスの胸に突っ伏して嗚咽を繰り返した。

 その時、窓から光が射し込んできた。太陽が姿を現したのだ。
(日の光が、死者の魂を清めてくれているみたいだ……。浄化の乙女ニーメルナフよ。イシールキアの妻よ。あなたの力をもって、これらの魂に救いを与えて下さい)
 弔いの言葉を述べ、力なく座り込んだハーンは、呆然と考えた。
(日が差したってことは、これで黒い空は去ってくれたのか? でもなぜ突然明るくなったんだ?)
 ハーンはゆっくりと立ち上がると、バルメス達に深々と黙祷を捧げて部屋をあとにした。ひょっとしたら最悪の事態だけは免れたのかもしれない。ハーンは淡い期待を胸に、館からのろのろと這い出ていった。

 表に出たハーンは、日の光の明るさに目がくらんだ。上空は雲一つない青空になっている。黒い空は――波がひくように北へと戻っているのだ。ハーンは、泣きはらした目を拭い、とりあえず窮地を脱したことを実感した。が。
(――ちがうな)
 ハーンの“知識”が、あまりに重い言葉を囁いた。
 そうは言っても黒い空は見る見るうちに引き下がっているじゃないか、ハーンは陰鬱と安堵が混ざった頭で考えた。しかし次の瞬間、ハーンの顔色は真っ青になる。
「違う! あれは……あの空は還っていったんじゃない!」
 黒い空は、波がひくように、すぅっとひいていった。
 そう。あたかも、大津波が訪れる前に海の潮が大きく後退するがごとく――。
「この地域一帯を“混沌”の中に飲み込もうとしてるんだ!」
 ハーンは最悪の絶望とともに確信した。

 もはやハーンに出来ることは無くなってしまった。
(聖剣を持ったルードがここにいれば? いや、だめだ。あの剣は本来持ちうる力をまだ発揮していない。じゃあ、僕が“混沌”を抑えきるというのは? 無理だ。人間の体で抑えきれるようなものじゃあない!)
 ハーンは、枯れ果てた喉をそれでも張り上げながら、住民達に逃げるようにと勧告し続けた。じき、クロンの宿りは濁流のように迫り来る“混沌”に飲み込まれてしまうのだ。
 血にまみれた衣服を振り乱し、息せき切って駆け抜けるハーンを、人々は奇異の目で見つめていた。化け物がいなくなって、空も元どおりに戻ったというのに、この若者は何を必死になっているのだろう? ああそうか、親しい人が亡くなったので悲しみに暮れるあまり走っているのだ。かわいそうに。
[頼むから……逃げてください! はやく! “混沌”に飲まれる前に!]
 ハーンの必死の懇願もむなしく、人々はただハーンを哀れみの眼差しで見つめるだけだった。
 足下のぬかるみに足を取られ、ハーンは危うく転びそうになった。石の敷かれた通りを走っているというのに、なぜ泥を踏みつけているような感じがするのか、ハーンは訝しがって足下を見た。
 地面が“混沌”の影響を受け、腐りつつあったのだ。ハーンの踏みつける石はぐにゃりとひしゃげ、彼の足下を危うくさせる。振り返ると、黒い空は北に引き返すのをやめていた。
(僕が外に出るまで、“混沌”の侵攻から持ちこたえられるのか?)
 心臓の鼓動は悲鳴を上げ、とうに限界に達したことを主に伝えるが、ハーンは走るのをやめるわけにいかなかった。

 やっとの思いでハーンは東門――二つそびえる石造りの監視塔まで辿り着いた。東門ではナスタデン達が衛兵達と話をしていたが、ハーンの息遣いに気付き、彼を迎えた。
[兄ちゃん、やっと来たね!]
 ディエルの声にハーンは安堵した。だが、まだ腐らずに固さを保っている小石にけつまずくとその場に倒れ伏せた。
[こんなになるまで走ったってのか? 大丈夫かハーン]
 ナスタデンはハーンを抱え起こして言った。
[だいじょうぶ……]
 息も絶え絶えにハーンは言った。
[何が大丈夫なもんか。とにかく落ち着けよ、な? 化けもんも退治されたって言うし、もう戻ろうと思ってたところだ。宿に戻ったら休ませてやるからさ]
 ナスタデンはにんまりと笑って見せた。ハーンは目を見開いてわなわなと打ち震え、宿の主人の裾をぎゅっとつかむと、大きくかぶりを振った。
[ハーン?]
 ハーンの表情が冴えないのに気付いたナスタデンは、声の調子を落として語りかける。
[戻っちゃだめだ、親父さん! うっ……]
 ハーンはそれだけ言うと激しく咳き込み、胃の中のものを吐き出した。未だ肩で息を繰り返しているハーンはそれでもすくりと立ち上がり、ナスタデンと対峙した。
[今は詳しく話している時間がないんだ……とにかく逃げよう! せめてあそこに見える丘まで辿り着かないと……]
 門を出て二、三十フィーレ先にある小高い丘を示した。

[おい、なんだあれは?!]
 衛兵達の声を聞いたディエルは町の中を見渡した。
「うわ……」
 ディエルは顔をしかめた。大地は今まであったかたちを成さなくなっており、ぼこぼこと音を立てて腐っていく。
[兄ちゃん達、町はもう保たないぜ! あの空が引き返してくるよ!]
 ディエルが叫んだ。
 土が腐り、今までの固い地盤を失った家々は、徐々にではあるが地中に沈みつつある。町の中からは予期せぬ出来事に対し、再び驚きの声が聞こえてきた。
 ナスタデンはおもむろに足下の石をつかんだ。石はまるで柔らかい粘土のようにどろどろになっていた。ナスタデンは苦虫をかみつぶしたような顔をして、気色悪い感触のする石をうち捨てた。
[せめて……これだけでも……救いになってくれれば……]
 ハーンは胸の前で両手をかざし、聞き取れないような声で二言三言呪文を唱えた。すると手の間から、シャボン玉のような透明な球がぽうっとわき上がってきた。
[な……ハーン?!]
 術の行使を目の当たりにして驚くナスタデンを後目に、ハーンはふわりと浮く球に向かってあらん限りの大声を上げた。
[クロンの宿りはもう保たない! お願いだから東門から逃げ出してほしい!]
 言い終わったハーンは、ボールを投げ込むような要領で、言葉を吹き込んだ透明な球を町の中めがけて投げた。ハーンの手を離れた球はまるでそれ自身が意志を持っているかのように速度を上げ、町の中心と思われる辺りで大きく上に昇って弾け散った。そして球にこめられたハーンの声は、あたりにわんわんと響いた。
[これで少しでも多くの人が逃げ出せたらいいんだけど……]
 意識が朦朧としつつあるハーンは、再びナスタデンの肩に寄りかかった。
[逃げよう、親父さん。ついに崩壊がはじまってしまった]
 ハーンが指さす方向。一度は引いたと思われていた黒い空が、再び押し寄せようとしていた。しかも今度が空だけではなく、大地をも染めんとばかりに、漆黒の空間をともなって。
[……分かった。逃げよう]
 ナスタデンは幾多ものこみ上げる感情を抑えつつ、短く言い切った。

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四.

 その瞬間。
[あああっ……]
 叫び声、泣き声、驚きの声――。丘に登った人々の多くは何かしらの声をあげ、自分自身の感情を露わにしていた。
 クロンの上空まで黒い空が迫って来る前に何かしらの反応を示せばよかったのかもしれない。
 黒い空がクロンの上を覆った時点で、事態の異常さを把握するべきだったのかもしれない。
 せめて土が腐ってきた時、全住民が逃げ出す支度を整えておくべきだったのだ。
 だが全ては遅過ぎた。
 黒い空の下、クロンの宿りの土壌はどろどろに腐り、建物を解かし、住んでいる人もろとも飲み込んでいく。そして全てが無くなる前に、漆黒の空間が大きな津波のごとく、しかし音もなく押し寄せ、クロンの町をひと飲みした。
 クロンの宿りは漆黒のもとに消え失せたのだ。

 状況を把握出来ないままクロンに残っていた人々の断末魔の叫びを、丘の上の彼らは聞いたような気がした。丘のそこかしこから嘆き声があがった。
[ぐぐぅ……]
 ナスタデンはもはや言葉も出せず、わなわなと震えながら涙した。
[宿だけじゃねぇ……フロートのとっつあん……ウルの家のみんな……ほかにもだ! みんな……みんな、あの中にいるんだぜ……]
 大柄な主人はがっくりと膝をついた。
 その肩をぽんと叩き、
[せめて僕達が助かっただけでもよかったって思わなきゃ……。じきにここも“混沌”に覆われる。はやくスティンの人達にこのことを伝えなきゃならないよ。ね? 親父さん]
 自身も目を潤ませつつ、ハーンは言った。ナスタデンは嗚咽しつつも弱々しくうなずいた。ハーンもそれ以上語るべき言葉が無く、背中を向けて馬に乗った。
[行こう。スティンへ]
 ハーンはディエルの頭を優しげに撫でた。ディエルは、いつもであれば鬱陶しげに手をはねのけていただろう。しかし今は、撫でられるままに、現前した漆黒を無表情に見つめるのみであった。

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