『フェル・アルム刻記』 第二部 “濁流”

§ 第六章 サイファ達の出立

一.

 七月五日夕刻。午前中まであわただしかった宮中も、烈火が進軍を開始した今は、いつもの平穏さを取り戻している。

 ぱたり、と音を立てて、フェル・アルムの千年が綴られた歴史書が閉じられる。
「『全ては神君ユクツェルノイレの思し召しのままに』……。よく使われる言葉だからといって、思し召しとやらを全て鵜呑みにしてしまっていいんだろうか?」
 図書室の中、誰に言うでもなく、ルイエはこぼした。
「アリューザ・ガルド、とか言ったかな、ジルは……」

 言語の変化、化け物の襲撃、司祭の神託、そして烈火の決起――この数日めまぐるしく彼女の周りに起こった異変。
 現ドゥ・ルイエは、政治家としての才覚こそ凡庸であったかもしれない。しかし彼女には、伝統と常識を重んじてきた歴代ドゥ・ルイエ王にはない資質があった。
 ルイエは隙を見ては城を勝手に抜け出し、近隣都市で色々見聞を深めていた。王宮の図書室では決して感じ取ることのない、町中の喧騒や、旅商達の世間話、農作物の出来映えや、ユクツェルノイレ湖の魚の捕れ具合など。侍女や側近の者達をはらはらさせながらも、二日や三日戻らないことはざらにあった。だが彼女が城外で体験したことによって、社会の雰囲気を読みとる鋭敏な感覚を自然と身につけていったのだ。
 そして彼女はその感覚を信じて、国王ルイエとしてではなく、フェル・アルムの住民サイファとして行動を起こそうとしているのだ。

 図書室を後にしたルイエは、決意を胸に自分の部屋に向かっていた。
(確かめなければならない。烈火がどのように行動するのか、そしてデルネアの思惑は何なのか……。自分の目で!)
 ルイエは思った。フェル・アルムに何が起ころうとしているのか、確かめたかった。そのためには、ルイエの名は邪魔でしかない。今、王の居室に向かっているのは、サイファというひとりの女性だった。
 デルネアも、〈隷の長〉こと司祭も、彼女の行動は予期出来なかった――。

* * *

[ええっ!?]
 扉の向こうから聞こえてきたのは、普段は冷静なリセロの声だった。
『人を払い、ルイエの部屋の中での会話をほかの者に聞かせないように』
 と、ルイエから命令を受けていたキオルは、自分自身も話の内容を聞かぬように律していた。今のリセロの大声を聞いたキオルは、大声が聞こえないようにと扉からさらに遠ざかった。
(陛下……。また無茶をおっしゃってるに違いないわね……)
 無茶を聞かされているであろう執政官に、内心同情した。
 今回はただの無茶ではなかった。ルイエは――サイファは、こんな折だというのに旅立つと宣言したのだから。

[へ、陛下それは……あまりにも無茶というものです]
 こうも狼狽えるリセロは見たこともない、と王の部屋に立ち入ったもう一名、近衛隊長ルミエール・アノウは思った。対するサイファは椅子に深々と腰掛けて、そんなリセロの様子を見ていた。
[そんなに無茶か?]
[当たり前でしょう!]
 間髪入れずにリセロは言い、大きく息をついた。
 リセロは『言葉』を変え、
このように失われた言葉をしゃべるようになったり……
 また戻し、
[化け物の出現が報告されるようになっているという時期なのですよ?!]
「それなのに陛下は、このアヴィザノをお離れになるとおっしゃる。なぜです!?」
 興奮するあまり、失われた言葉――アズニール語――をしゃべっていることにリセロ自身はまったく気付かなかった。
「なぜ……か」
 サイファも言葉を変えて話した。不思議なことに、こちらのほうが話していて違和感が無いように感じられるのだ。
「フェル・アルムに起きている異変を見るため。それと、烈火達の行動をそれとなく見るため……かな」
「そのようなこと、陛下がわざわざ出向かずとも、疾風などに任せればよいことではありませんか?」
「いや、違うなリセロ。私自らの目で確かめる、というところに大きな意味があるのだ。混乱している今だからこそ、椅子にふんぞり返るのではなく、外に出て状況を確かめるべきだと、私は考えるのだ。何より、実情を知らなければ、どうするのが最善の策なのか、判断がつくはずが無かろうに?」
 その言葉を聞いて、リセロはぐっと押し黙った。
「それに……」
 サイファは言葉を続ける。
「私が一番心配しているのは、ほかでもない烈火だ。彼らが――何よりデルネア将軍が何を意図して行動を起こしているのか、私がアヴィザノに留まっていては何も分からない。だから私は旅立ちたいのだ。いざとなれば、将軍を差し置いて烈火に指図出来る立場にあるのがドゥ・ルイエだからな。そのためには身をやつして、遠巻きに烈火を監視しなければならない」
 今度は、リセロは反対をしなかった。サイファの決意が固いものであり、それを覆すのは容易なことではないというのが分かっているから。何より今回の勅命に関しては、執政官という立場を離れた一個人としては、心中納得出来ないものがあった。それはサイファも同じだろう。自らの意思と反する神託を受け入れ、命令を下したのだから。だが、一家臣の立場上としては、やはり今回の決意には反対せざるを得ない。
「陛下がご不在とあれば、行政はどうすればいいのです?」
「……ルミ、そなたドゥ・ルイエの代行を務めてみる?」
 サイファはさらっと言ってのけた。
「え……」
 いきなり話を振られ、当惑するルミエール・アノウ。しかも、サイファはあえて『ルミ』と呼んだ。今のサイファは、君臣の間柄ではなく、友人として彼女と接しているのだ。
「私がルイエ代行……そんなの駄目に決まってるでしょう?」
「やっぱり駄目か?」
「無理です」とリセロ。
「陛下とアノウ殿が親戚の間柄だとはいえ、アノウ殿は近衛隊長。近衛隊長は政治を取り仕切る権限を持ちませんし、もともとドゥ・ルイエ皇をお守りする職務であるがゆえに、ドゥ・ルイエ代行を務めるなど許されていないのです」
「私が命令を出してもか? 近衛隊長にドゥ・ルイエ代行の権限を与える、と……」
「え……!?」
 顔を引きつらせたまま顔を見合わせるリセロとルミエール。どうやらお互いの考えるところは一緒だったようだ。
(この人はどこまで無茶を通す気なのだろうか)と。
「……冗談だ。私とて、しきたりをねじ曲げるまでの横暴はしないよ」
 二人の心配をよそに、サイファは言ってのける。
「まあ、どのみちドゥ・ルイエの代行は立てられないということか。……ならばこれはどうだろう? 私は病床に臥せってることにして、ルイエ抜きで行政をする。凡庸な私などより、そなたのほうがよほど優れていよう?」
 リセロはかぶりを振った。
「陛下のお考えの中には、旅を取りやめて、ご自分が政を取り仕切るというのは無いのですか?」
「無い。さっきからそう言っている」とサイファ。
(やはり、この方は考えを曲げないか……)
 執政官クローマ・リセロはついに折れた。
「分かりました。中枢の行政については私が取りまとめます」
 言葉を聞いてサイファは、ぱぁっと表情が明るくなった。
「すまないな、助かる!」
「……今、御身がドゥ・ルイエ皇としてではなく、サイファ様として私に話しているように、私も執政官としての立場を置いてお話をしたく存じますが、よろしいですか?」
 サイファはうなずいた。
「では申し上げますが……私もサイファ様とほぼ同じ考えを持っています。フェル・アルムの行く先も心配ですが、今は烈火の動向が恐ろしい。陛下に絶対忠誠を誓っている彼らとはいえ、何をしでかすか正直分かりませんし――」
 リセロは声を落として言った。
「あのデルネア将軍……どうも信頼を置きかねます。何か裏があるような気がしてならないのです。……ですから、サイファ様には彼の真意をなんとしても見届けて頂きたい」
「ありがとうリセロ。私が旅立つのを理解してくれて嬉しく思う」
 サイファは立ち上がり、彼の手を握り締めた。
「まあ、執政官としては、頑として反対なのですがね」
 リセロはやや照れながら言った。
「それはさておき、あなただけで旅立たれるのはどうかと思います。今回は散策というよりは旅……いや、冒険ともいえる行いなのですから、女性ひとりというのは危険過ぎます。フェル・アルムが混乱している今、どんな危険に巻き込まれても不思議ではありません」
「ひとりでは駄目だと?」
「はい。すみませんが、承諾いただかない限りは、私は家臣としての私に戻って、あなたの行動に反対しなければならないでしょう」
「なら……」
 サイファは何か言いたげにルミエールを見つめた。
「まさか……、私が?」
「そう。一緒に来て欲しい。これは君命だ」
「ずるいわよ。こんな時に立場をちらつかせて。近衛兵としてあなたを護る身としては、従うしかなくなるじゃないの」
 口を尖らせて抗議するルミエール。だが、本心からではないのは明らかだ。
「リセロ。これで問題ないだろう?」
「……確かにアノウ殿の剣技は宮中でも指折りですから、御身の護りとしては最適でしょう。しかし、若い女性二人だけで国を旅するというのは、奇異の目で捉えられがちと思いますし……その……何かと危険が伴いましょう?」
「だったら、わが隊のマズナフを加えましょう」
 とルミエール。
「エヤード・マズナフ殿ですか。サラムレの剣技大会優勝者の彼が加われば、サイファ様の護り役としては申し分ない」
「それもありますが……私達とは、親子ほどの年齢の開きがありますから彼を、と考えたのです。彼が父親役を演じてくれるのなら、家族で旅をしているだの、家を失って放浪中だの、色々言いわけが出来ますよ。まあ、国王と近衛兵が旅をするなんて、人は想像だにしないでしょうけど」
 そう言ってルミエールはころころと笑った。サイファもつられて笑みがこぼれる。
「では、明朝の前二刻、北の城壁の尖塔あたりで落ち合おう。マズナフにも言っておいてほしい」
「分かったわ」とルミエール。
「エヤードも、いきなりこんなこと聞かされてびっくりするでしょうけど、元来は旅が好きな人ですから、きっと快く承諾してくれると思うわ」
 君命だしね、そう付け加えてルミエールはサイファに目配せした。
「ルミ、ありがとう」
 二人の心遣いに心動かされるものがあったのか、その声はやや震えていた。
「リセロ。迷惑をかけるな。……やはり私は国王として失格なのかもしれない……。しかし、こうしなければ後悔するに違いないのだ。だから……」
「おっしゃられるな、陛下」
 激するサイファの言葉を遮り、リセロは優しく言った。その言葉は深くサイファの心に刻まれ、サイファが後に回顧するたびに励みとなるものだった。
「やはりあなたの行いこそ、ドゥ・ルイエ皇として真に相応しいものであります」

* * *

 翌朝。サイファ一行はアヴィザノを後にし、烈火の足跡を追うことになった。
 ユクツェルノイレ湖を左手に見ながらサラムレへ、そしてスティンへ。そのようにデルネアと烈火は向かうだろう。広大な平原を北に伸びる街道を見つめていると、烈火の進軍から一日経ているというのに、舞い上げる埃の中、真紅の一団が行軍する様子が目に見えるようであった。満悦したデルネアの顔すら浮かんできた。
 サイファはそのまま目を上方に向ける。禍々しい黒い空が青空を確実に侵略しつつある。
(あの黒い空の中に何があるというのだろう?)
 そう思いつつ、サイファは胸元の珠《たま》を握った。ジルから貰った珠の周りに装飾をつけ、胸飾りとしたのだ。
 出立の前に一言ジルに言い残そうとも思ったが、やめておいた。ジルがいれば、自分はすっかり頼りきってしまうだろうから。彼を頼るのは、いよいよ押し迫った時でよい。それまでは自分達の力だけで切り開いていきたいのだ。
「さあ、エヤード、ルミ、行こう!」
 サイファの一声にエヤード・マズナフとルミエール・アノウはうなずき、街道を歩き始めた。これは烈火がアヴィザノを離れ、北部クロンの宿りを絶望が覆いつくした翌日の朝のことであった。

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二.

 ドゥ・ルイエ皇が絶対的な力を持つなどというのは幻想に過ぎない。その権限をもってしても、国王の望むがままに物事が進むというわけでは、決してないのだ。
 歴代のドゥ・ルイエの中には、そのことが分からない者もいたが、専制の果てに得るものなどたかが知れていた。

 サイファは、ルイエとして自身の至らなさを知っていた。本来の意に反して烈火を発動させてしまったのは、その最たるものである。しかし、その至らなさを自覚していることこそ、サイファの強みでもあったのだ。しがらみに縛り付けられることなく、サイファ自身として行動することが出来る。
 デルネアの思惑とは?
 自分自身がルイエとして、為すべきことはあるのか?
 そして、フェル・アルムの行く末はどうなるというのか?
 サイファは、旅の果てにそれらの答えを見いだせるような予感を確かに抱きつつ、街道を歩いていた。
 汗を拭いつつ「冷たいものが飲みたい」とぼやく“姉”の様子に、黙々と前方を歩く“父”の様子に、サイファは思わず顔をほころばせる。ともすれば不安になりがちなサイファに心強さを与えてくれているのは、彼らにほかならないのだ。

 アヴィザノからサラムレへと延びる街道は交通の要所として整備がなされており、こと帝都アヴィザノ付近においては特に念入りである。石畳が隙間なく、奇麗に敷き詰められているのだ。しかし今の季節ともなると、昼下がりの日差しが容赦なく石畳に照りつける。徒歩で移動する者達にとっては酷な夏である。

 サイファと肩を並べるようにして歩くルミエールは、興味深そうに景色を眺めている。ルミエールが近衛隊長に着任して六年。アヴィザノ周辺の景色は飽きるほど見ているはずだ。しかし日頃の緊張感からの解放により、ルミエールの気分は開放的になっているようだ。
 もうじき街道に沿うようにして、神君を奉ってあるユクツェルノイレ湖が見えてくる。その時の彼女の表情を見てみたいものだ。その美しい景観を前にして、おそらく彼女は諸手をあげて喜ぶに違いないだろうから。
 エヤードは前方をひとり歩く。黙して語らないものの、時折ちらちらとサイファ達の様子を窺う。がっしりと筋肉のついたその背中を見ていると、不思議な感覚にとらわれそうになる。頼りになる背中は、まるで――。

 旅をしているこの三人は、何と奇妙な取り合わせなのだろうか。そう思ってサイファはふと笑みを浮かべた。道行く商人達も、畑を耕す農夫達も、よもや国王が近衛兵二人を連れて、こんなところを歩いているなど思いもしないだろう。
「サイファったら、何を笑っているの? どこかに面白いものでも見つけたのかしら?」
 ルミエールがにこやかに話しかけてきた。王に対する臣下の言葉遣いではない。幼なじみとして、親しい間柄として話しているのだ。言葉の変遷や化け物の出現――南部域が混乱に見舞われている最中、三人の旅の道程は決して容易ではないはずだが、ルミエールの快活さは宮殿で奏でられるタールの音色のごとく、サイファの心の焦りを落ち着かせる。
「なんて言うか……ルミとエヤードを見てると、どこか可笑しくなってしまうんだ。私達はいったい何なんだろうな、と思ってしまうとつい、ね。何しろ、普段の私達では考えられないことを今やっているのだから」
「確かに可笑しいかもしれないわね。……ねえ、父上はどう思いますの?」
 ルミエールはエヤードに訊いてみた。
「こういう関係っていうのも新鮮な感じがして、面白いと思わないかしら?」
「え……はぁ」
 父上、と呼ばれたエヤードは立ち止まって、煮え切らない言葉を返した。
「はっきりしないな」
 サイファがこぼすのを聞いて、エヤードは平謝りした。
「は、申しわけありません。お二方の言われるとおり、たしかに普段では考えられない行動をしております」
 エヤードの言葉を聞いた途端、サイファとルミエールは吹き出した。
「堅いな、エヤード……。世間一般に考えてみて、父親が娘に対して、そのような言葉遣いをするものなのか? それこそ可笑しくないだろうか」
 自分自身の言葉遣いが普段と変わらないのは棚に上げて、サイファは揶揄した。
「そうだ、私のことを呼んでみてほしいな。父上は私のことを何と呼ぶのかな?」
「あ、だったら私も一緒に呼んでよ、父上!」
 二人の娘は父親にそうお願いごとをすると、顔を合わせてくっくと笑い出した。
 当のエヤードは困惑した表情を浮かべて二人を交互に見る。今までであれば、かたや君臣の間柄であり、かたやルミエールとも上下の関係が存在しているというのに、いきなり『娘として呼べ』というのも酷なことである。元来の隔たりが大き過ぎるというのに。
「……サイファ様、それに隊長……勘弁してくださいよ」
 エヤードは漏らしたが、二人の娘が認めるわけもない。
「勘弁ならないわね。私達は家族として旅をしているのよ。そんなことでは烈火に追いつく前に尻尾が出てしまうわ。さあ、目的遂行のためよ、堪忍なさい!」
 言いつつ、ルミエールはサイファに目配せする。サイファは、“姉”の意図するところを感じ取ってうなずいた。
「ならばルイエとして、エヤードに命令を出してしまおうか? ルミと私のことはきちんと名前で呼ぶように、とな。何しろ家族なのだから……宮中での関係というものは、この際さっぱり忘れてほしいんだ」

 マズナフ一家として旅をする――それは、アヴィザノを出発した後、道すがらルミエールが案を出したものだった。烈火達を追うというのはまさに隠密行動であり、それが明るみに出るなどは絶対に避けなくてはならないのだ。国王と道中を護る近衛兵という本来の立場は、烈火とデルネアの思惑が知れるまでは隠し通さねばならない。
 そのために家族を演じる。父親役がエヤード、姉がルミエールで、妹がサイファ。
 いささかの戸惑いはあるものの、いずれ慣れることだろう。
 何より――心地よいのだ。本来の目的のために、家族というものを演じているに過ぎないはずなのだが、しばしば本当の家族であるかのような錯覚さえサイファはおぼえた。
「分かったよ、ルミにサイファ。お父さんについてきなさい!」
 エヤードはそこまで言うと文字どおり顔を真っ赤に染め、くるりと向き直るとぎこちなく歩き出した。
「父上……照れ屋なのね」
 父の背中を見ながら、二人の娘は再び吹き出した。

 三人には、家族と呼べるものがいない。
 サイファは六年前に父王をなくし、母親は――サイファが物心つく前に亡くなっていた。
 ルミエールも同様。代々優れた騎士を輩出しているアノウ家は、ドゥ・ルイエと血が繋がっている。しかし、今やアノウ家は、ルミエールひとりとなってしまっている。十三年前、アヴィザノで起きた悲劇のために。術の力に覚醒した者達が、自らの魔力を制御しきれずに暴走させてしまった結果、アヴィザノ市街の一部は破壊されてしまった。その際に、ルミエールは幼くして両親を失っているのだ。
 エヤード・マズナフはかつて、フェル・アルム各地を巡り歩く戦士だった。剣士の名声を高めていき、ついに近衛兵に抜擢されたのだ。ドゥ・ルイエを護るという名誉ある職務。だが天涯孤独の寂しさは、けっして拭い去ることが出来ない。
 今、三人は、忘れかけていた暖かみを、確かにつかみつつあった。ともすれば挫けそうになる自分達に、強さを与えてくれる暖かみを。

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三.

 白銀の髪と、それに対照的な深紅の衣に身を包み、聖獣カフナーワウを従える英雄。その者こそユクツェルノイレ。大いなる神君にして、大地の神クォリューエルの息子。
 ユクツェルノイレは“混沌”たる大地に平和をもたらし、唯一の国家フェル・アルムを建国した。今より千年も昔のことである。神君と称されるかの王の統治は百六十年の長きに渡り、崩御した後はアヴィザノ北方のアヴィザノ湖に水葬された。アヴィザノ湖はユクツェルノイレ湖と名を変え、現代に至っている。そして今なお神君は、フェル・アルム全土を見守っているのだ。
 フェル・アルムの民であれば知らない者などいない伝承であり、数ある歴史書の冒頭には必ず記されている事柄である。
 しかしながらサイファには白々しく思えてならない。

* * *

 混乱のまっただ中にあるフェル・アルムにおいて、ここユクツェルノイレ湖は、あいも変わらず紺碧の水をたたえている。神秘的なその眺めを見れば、神君が今もフェル・アルム全土を見守っているように感じよう。そしてまた、昨今の忌まわしい出来事こそ、偽りであるかのようにも。
 湖畔には多くの人々がつめかけていた。彼らは一様に手を組み、ひざまずいて、湖に浮かぶ小島――偉帝廟《いていびょう》に向かって祈りを捧げている。神の名において中枢の騎士達が動き出したのだから、これでフェル・アルムは救われる。何も恐れることはない。神君が救ってくださるのだ。
 そのような救いを信じて、人々は無心に祈りを捧げている。

 サイファは小高い丘から湖を見下ろしつつも、神君と呼ばれた偉大な王は実在しないのではないか、とあらためて確信していた。
――ここフェル・アルムは、もともとはアリューザ・ガルドという世界の一部なのだ。今は隔絶されているが、本来の世界に戻るべきなのだ――。
 トゥファール神の使徒であるジルと出会い、彼の力を目の当たりにしてから、サイファの価値観は大きく変わった。唯一の真実であると思われていた事柄が、虚構に塗り固められていたのに気付かされた時、サイファは衝撃を受けた。だがそれ以上に、彼女は衝動に駆られた。その衝動は今もサイファを突き動かしている。

「……神君が実在しない、と言ってたわよね?」
 ふと漏らしたルミエールの言葉が、まさに今の自分の思いと重なったために、サイファはひどく驚き、目を丸くしてルミエールを見た。
「驚いた! 私は、今まさにそのことを考えていたんだ」
 そう、とルミエールは豊かな紺色の髪をかき上げて、相づちを打った。
「あなたがそのことを言った時、私には信じられなかったわ。今までの歴史、それに王家自体も否定しかねない言葉だったのだからね」
「どこの文献を見ても、そんな突拍子もないことは載っていない。神君の存在うんぬんは、あくまで私自身の考えだ。サイファとしての、ね。だが、それこそが真実の一片であるような気がしてならない」
 サイファは顔を曇らせた。
「だけれど、もしかりに私がこの旅の果てに真実をつかんだとして、それが今までのフェル・アルムを否定しかねないものだとしたら……真実を語るべきだろうか。ドゥ・ルイエとして私はどうすればいいのだろうか?」
「あなたの臣下であるアノウとしては、陛下の望むままにするべきだ、と答えるでしょうけど……」ルミエールは言った。
「それはあなたの望んでいる答えではないでしょう?」
「そう」サイファはうなずいた。
「ルイエの立場というのは、時として私を不安に陥れる。私のごとき若輩者の一言によって国家を、人々を動かしてしまっていいのか。私は……自分自身がよく出来た人間だとは、とても思っていない。そんな者が……」
 ルミエールは静かに首を振った。
「『あなたの行動こそルイエに相応しいものだ』そうリセロ様がおっしゃってたわよね。覚えてる?」
 サイファはうつむいたまま、小さくうなずいた。この旅を決意した時に、執政官クローマ・リセロが言った言葉である。
「私も同じよ。あなたが今やろうとしていること、それが結果的に今までの歴史を否定することになるとしても、別にいいじゃない。昔のしがらみにとらわれることなく、真実を見つめるべきだと、私は思うわ」ルミエールは湖を見つめた。
「とは言っても、今はそれを人々に明かすべきではないと思うの。今、混乱に陥ってる中で、人々はすがるものがほしいのよ。それを否定することは出来ないわ。たとえそれが偽りであったとしても……ね!」
 不意にルミエールは、うつむいたままのサイファの背中を思い切り叩いた。
「痛っ!」
 思わず転びそうになったサイファは、背中をさすりつつ、ルミエールをうらめしそうに見る。
「何をするんだ、ルミ!」
「気合いをつけてあげたのよ!」
 ルミエールは笑った。
「大丈夫、いずれ時は来るわ。全てがうまくいくようになる時が。それを今は待ちましょう。……とにかく自信を持って。サイファ、あなたの眼差しが自信に満ちあふれている時こそ、あなた自身も輝いて見えるのだから。ルイエとしても、サイファとしても」
 さすがに照れくさくなったのか、ルミエールは思わずそっぽを向いた。サイファは照れている姉の肩をぽんと叩いた。
「……ありがとう、ルミ。私なりに頑張ってみる。まずは真実が知りたいのだ!」
 真摯な眼差しと、毅然とした口調。サイファは決意のほどを新たにしていた。デルネアが鍵を握っているような気がしてならない。そのためにも、自分達は烈火を追う。
 真実をつかむこと。それこそがサイファを動かしている衝動にほかならない。

「見て! サイファ」
 ルミエールが指さした方向を見ると、湖の遙か対岸では、もうもうと砂塵が舞っている様子が見てとれた。
「あの砂塵が人の群によるものだとしたら、尋常ではない数ですな。その数、千人はゆうに数えましょう」
 未だ父親役に慣れないエヤードは、普段の口振りで言った。
「そうすると、あれはやはり烈火の行軍しかありえないかな。“父上”?」
 サイファが“父上”の箇所をことさら強く言ったため、エヤードははっとなった。
「はい、そうだな。ええと、あれが烈火だとして、彼らがこのままの調子で行軍を続けたとして、明日の朝にはサラムレに入りましょう……だろう!」
 しどろもどろになりつつも必死にエヤードが説明をするものだから、サイファは吹き出してしまった。ルミエールも笑っている。
「ただ、大軍であるゆえに、必ずやサラムレでは補給を行うだろう。大丈夫、まだまだ追いつけるさ」
 気を取り直し、エヤードは言った。
「私達も湖で休憩したら、再び彼らを追うことにしよう」
 サイファはそう言って丘を下りはじめ、振り返ってルミエールに呼びかけた。
「ルミも早く来るがいい。水辺はさぞかし涼しいことだろうからな!」

 神君などいない。
 湖畔にて祈りを捧げている人々にそのことを告げるのは残酷でしかない。それが真実だとしても、一片の希望に全てを委ねている人々を絶望の淵に追いやる真似など、王であるルイエとして出来るわけがない。
 その一方でサイファ自身としては、盲目的に信仰する人々が痛ましく思え、全ての真実を彼女が知ったあかつきには一刻も早く伝えたい思いもある。人々を目覚めさせることこそ、真の救いにほかならないのだから。
(しかし、今は押し黙るしかない。全ての事柄に決着が付き、平穏を取り戻したその時こそ、私は神君に誓って、真実を語るのだ)
 サイファは、自分が誓ったことの矛盾に気付き、苦笑を漏らした。そして、心の葛藤をうち払うかのように、湖に向けて走りはじめた。

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