『フェル・アルム刻記』 第二部 “濁流”

§ 第八章 ティアー・ハーン

一.

 開けた野原の中、沈黙が辺りを覆っていた。
 残された一同は面をあげて、今し方ハーンが飛び去った空を見つめながら、信じがたい出来事を反芻していた。
「何が……何が起きたっていうんだよ……」
 当惑を隠しきれず、ルードがぽつりと漏らした。

 高原に黒い雲が迫ってきた。そして引き返していった。ハーンの力で?
 聖剣ガザ・ルイアート。この刀身中央部に刻まれている紋様が時折煌めき、剣本来の神聖さを醸し出していている。何よりルードが感じ取っているのは、今まで以上の圧倒的な“力”だ。この“力”すらも、ハーンによって発動されたというのか?
 聖剣をルードに返したハーンは苦悶しながらも宙に浮かび、そして意識を失い――彼方へ飛び去ってしまった。
 ハーンがいなくなった。
 はっきりしているのは、それが今の現状だということ。

「ハーン……。何がどうなってるんだ……」
 ハーンが飛び去っていった方向を見つめながら、ルードが言った。
「だから、オレがさっき言ったとおりだって」
 ディエルはルードに話しかけてきた。ディエルのその視線もまた、未だぼうっと空を見つめたままである。
「なあ、ディエル。君が見たことをもう一度、俺達に話してくれないか? 何がなんなのやら……さっぱりだ」
「……うん」
 ディエルは草原に座り込むとようやくルードを見た。そしてディエルはくすりと笑い、何気なくつぶやく。
「しっかし……まさか、あんたがガザ・ルイアートの所持者とはね……。それに、この剣がこんな世界にあるなんて思いもしなかった」
「ちょっと待った!」とルード。
「なんで知ってるんだ、この剣のことを! ハーンから聞いたのか?」
「んにゃ。オレが見ればひとめで分かるぜ。とてつもない“力”を持ってる剣だってな。ガザ・ルイアート。冥王をやっつけたって剣だろう? それくらいは知ってるさ。オレが探していた大きな“力”が、こいつのことだったとはね。(“力”を取るうんぬんは、もうどうでもいいことだな)」
 ディエルは首を返し、今度は〈帳〉に言った。
「なあ、エシアルルの兄さん。さらにそっちはアイバーフィンの姉ちゃんっと……。まやかしを使ってるつもりなんだろうけどさ、オレには効かないぜ?」
 〈帳〉はぴくりと眉を動かした。よもや自分の術が見破られるとは思いもしなかったのだろう。
「ディエル、と言ったね。君はどうやら普通の人間ではないように私には思えるのだが? どうかな?」
「そうだよ」
 ディエルはあっさりと事実を認めた。
「こんなせっぱ詰まった状況でウソ言ったところで仕方ないからね。でもさ。ルード達だって、よほどわけありなふうに見えるぜ? この世界にはバイラルしかいないと思ったら、エシアルルが、しかも白髪のエシアルルがいて、アイバーフィンの姉ちゃんがいて――とどめに聖剣所持者のセルアンディルがいるなんてなぁ」
 ディエルは溜息をついた。
「ああ、オレのことを訊いてたんだよね? オレはディエル。トゥファール神の使い。もうひとり、ジルっていう出来の悪い弟がいるけどな。んで、大きな“力”を手に入れてトゥファール様のところに持ち帰るってのが、オレ達の役目ってわけなんだ」
「……なるほど」
 〈帳〉はうなずいた。
「アリュゼル神族のひとり、トゥファール。世界がその姿を保つように“力”をもたらしている神だね?」
「ふうん。兄さんよく知ってるねぇ。そうだ、名前は?」
「……〈帳〉」
「〈帳〉……か。それって本名じゃないね? エシアルルの語感じゃないし、彼らの名前ときたら、長い名前ばっかりだからなあ」
 ディエルは言った。
「……で、どこまで話したんだっけ? ルード」
 ディエルはルードに首を向けた。
「はい?! まだ何も話してもらってない、ですよ。……ハーンが今まで何をしたのかについて」
 ルードは、目の前の少年が神の使徒であるという事実を未だ飲み込めず、ぎくしゃくした言葉で答えた。
「そっか」ディエルは言った。
「んじゃあ話そうか。オレもハーンの兄ちゃんの持ってた“力”には、正直びっくりしたんだけどね」

「……オレ達がこの高原の村に着いたのが昨日だった。オレ達は北からやってくる黒い雲から逃げ出してきたんだ。んで、ようやくここに着いて休んで、ふと起きてみたらさ、あの黒い雲がここまで来て、空を覆ってるじゃないか! それだけじゃなくって魔物まで出て来やがった。しようがないからオレはそいつらをやっつけた。ハーン兄ちゃんも一緒になって戦った。兄ちゃんはオレの正体なんか知らなかったから、オレの戦いぶりには驚いてたけどさ。
「そんなことをしてる間に時間ばっかりが経っちゃって、気付いたら“混沌”そのものが高原に来ようってところまでせっぱ詰まっちまった。いくらオレでもあれに……“混沌”に飲まれたらひとたまりもない。そして“混沌”が押し寄せようとしていたその時、ハーン兄ちゃんがひとり駆けだして、村から出ていったんだ。
「最初は村を捨てたのかと思ったよ。でも違った。兄ちゃんは村を守るためにここまで――この野原まで来たんだ。村にまで押し寄せ飲み込もうとしていた黒い雲を、野原へと誘い出したんだ。どんな方法を使ったのか知らないけど、とにかく黒い雲は村から離れ、兄ちゃんのところに集まったんだ。
「オレは兄ちゃんが持っている“力”の大きさを知ってはいたけど、まさか雲を追いやる力を持ってたとは思わなかった。兄ちゃんは一声大きく叫んで、身体にまとわりついてた黒い雲をぜんぶ追っ払ったってわけ。
「雲はあの山の向こうにまで下がったけど、兄ちゃんは“混沌”を少し体内に吸い込んじまった。いくら“力”を持っているとは言っても“混沌”を吸い込んじゃったらただじゃすまない。その結果が……さっき見たとおりのことってわけさ。それでも、なんで聖剣の“力”を発動出来たのかなんていうのはオレには分かんないけど」

「そういうことか……分かった」
 〈帳〉は目を閉ざした。
「今し方、私達がハーンと出会った時には、彼は目覚めかけていたのだ。だからこそ、聖剣の“力”を発動し得たのか」
「そういうことって……何がどうなってるのか俺には分かんないですよ。〈帳〉さん?!」
 ハーンが何を為したのかということは、ディエルの語った言葉から分かったが、なぜハーンがそれだけのことをやる力があったのか。ルードに分かるはずもなかった。
 ふと、ルードの脳裏に〈帳〉の館での生活の記憶が甦った。あれはハーンが館を去る日のこと。ハーンと〈帳〉が、〈帳〉の居室で何やら話していたのだ。詳しい内容については不明だが、ガザ・ルイアートについてのことが語られていたのと、何より〈帳〉がハーンに対し丁寧な口調で接していたのが気がかりだったのだ。
「……〈帳〉さん。一つ、訊いてもいいですか?」
「なんだね」
「あなたは……知っているのでしょう? ハーンのこと。俺とライカがまだ知らない、ハーンの過去のことを」
 ルードはまじまじと〈帳〉の顔を見つめた。
 ややあって〈帳〉は口を開いた。
「……よく知っているとも。ティアー・ハーン、彼は――」

 その時。
 衝撃が駆け抜けた。

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二.

 空高く浮かび上がったハーン。意識はすでに彼の身体から離れ、どこか遠いところを彷徨っている。ハーンはそう感じていた。先ほど吸い込んだ“混沌”がそうさせているのか。それとも闇の衝動によるものなのか。ともあれ、彼の意識は遠く、遠く落ちていき――。それと同時に、彼の内面のもっとも深いところに存在する“知識”の部分に触れようとしていた。
 ハーンが内包する“罪”。それは六百年ほど前までにさかのぼるものだった。

* * *

 そこは――全くの闇。
 いや、闇よりも遙かに暗く、ねっとりとした重さを持つ“混沌”の欠片が黒い空間を創り出していた。アリューザ・ガルドの住民にとっては忌むべき場所だ。
 そんなまったき黒い空間において、人間の輪郭が四つ、ぼうっと浮かび上がっている。
 否。
 うちひとりは人間ではない。すらりとした長身の彼は、その髪の色と同色の漆黒のローブをまとい、三人の人間と対峙している。始源の力の一つ、“混沌”をもはらんだ、凄まじく重い闇の圧力を常に身体から発し続けていた。そのあまりの重苦しさ。並みの人間であれば、この場に居合わせるだけで瞬時に発狂してしまうだろう。
 天上がどこにあり、地面がどこにあるのか? それ以前に天地の別など存在しているのだろうか? 四人がいる、とてつもなく黒い空間は、闇と“混沌”に覆われ、他の色の介在を許さない。そんな人智の及ばぬ空間なのである。
 そんな中にあってただ一つ、闘気をまとって蒼白く光る剣のみが空間を照らしていた。

 戦いはいつから始まったのだろうか? つい数瞬前なのか、はたまた遙か遠い昔から連綿と続いているのか。だが、時間の概念など、この戦いの壮絶さの前には意味を持たなかった。
 黒いローブの男の手から波動が放たれた。黒よりもさらに暗い色が三人を覆う。
 若者は蒼白く光る剣でひと薙ぎし、闇をうち払った。そのまま人間離れした素早さで、闇を放つ男の胸元まで瞬時に間合いを詰めた。剣を振り上げ、そしてローブ姿の男の頭めがけて振り下ろした。その速さのため、蒼白い光が残像をつくる。しかし。
 瞬時であるはずなのに、若者と対峙している男はかすかに笑い、朗々たる声をゆっくりと響かせた。
「私の胸元にまたもや入り込むとは! 大した腕前だね。だがな!」
 男は時を同じくしてことばを放った。

【レゥヒィーン!(まったき闇よ! そのちからもて、剣を象れ)】

 およそ人間には発音不可能なことばが発されると同時に男の右手には剣が現れ、若者の振り下ろした剣の一撃を捉えた。
「……やるね。名を訊いておこうか?」
「“名も無き剣”の所有者、デルネア」
 言いつつもデルネアは剣先をやや戻し、再び力任せに自らの剣を男の剣に叩き付けた。
「こちらも訊きたいことがある。なぜ! 御身がこのような真似をするのだ?」
「なぜ? 私は愚かしい人間が引き起こした“魔導の暴走”を消し去ったんだ。むしろ感謝して欲しいものだけどねぇ」
 男は薄笑いを浮かべつつ、剣を徐々に押し戻していく。力技で勝てる相手ではない。デルネアは間合いを少し取った。
「感謝など言えるものか! 御身が為したことは何か?! “混沌”を呼び込んだのだぞ?!」
「始源の力、“混沌”は私に力を貸してくれた。それは絶対的な力だよ。さっき言っただろう? 絶対的な力に支配されてこそ、アリューザ・ガルドは平穏を保てる、とね」
「絶対的な力……か」
 それを聞いた途端、デルネアの表情がなぜかやや翳った。
「ともあれ、御身は目を覚ますべきだ。冥王にさえ屈しなかった御身だ。“混沌”に魅入られているのが分かっているのならば、それを断ち切っていただきたい!」
「君も分かっていないね! 私は“混沌”すらものにしてみせるよ。それはザビュールをも越える力になる」
 そう言って男は再び“混沌”の波動を放った。が、デルネアはすんでのところで身をかわした。
「ねえ、後ろの魔導師達。さっきから呪文を編んでいるようだが無駄だよ。ここの空間はまったき闇に覆われている。“色”によって発動される魔導など、まったく無意味なんだ」
 さきほどから若者の後ろでは、男女二人の魔法使いが魔導の呼び出しのことばを唱えていた。男の言葉を聞きながらも彼らは諦めることなくさらに詠唱を続けた。
「無意味などではない! 人間の力だ!」
 デルネアは再度駆け寄り、男の胸元に剣を突きつけた。
「無意味なんだよ! ディトゥアの――ディトゥアを超越した私の力の前にはね!」
「ぐはぁ!!」
 デルネアは波動をまともに食らい、闇の中へと吹き飛ばされていった。
 男はそのさまを一瞥すると、魔法使い達に向かって言った。
「……さて、長い戦いだったけど、もういいかげん終わりにしようじゃあないか。デルネアは確かに凄腕の剣士だった。さらにあの剣も凄まじい力を持っていたよ。ガザ・ルイアートに比べたら力は劣るけどね。デルネアの助力がない今、君達には何も出来ない。身体に内包している“色”を用いる程度では、大した魔導も練れまい!」
「ならば、“色”の力場をここにもたらしてくれる!」
 “礎の操者”のふたつ名を持つエシアルルの魔導師は、男を見据えて凛と言い放った。

《ウォン!》

「させないよ!」
 男は凄まじい速さで近づいた――が、魔導師のすぐ手前で身体がはじかれた。微弱ではあるが、魔導による障壁が形成されていたのだ。
「さっき唱えていた呪文は、これを作るためだったのか!」
 攻撃を阻まれた男は、エシアルルの魔導師と女魔法使いをぎらりと忌々しげに睨みつけた。
 女魔法使い――正しくは魔法使いではなく、預幻師なのだが――は、エシアルルの魔導師が唱えていることばに呼応するように舞い始めた。彼女の身体が揺れるたびに、身体からきらきらとした結晶のような粒が放たれ、ゆっくりと舞い降りていく。
 黒いローブの男はその様子を見ていた。
「まあいいさ。この程度の障壁など私の力で消滅してやる。その時が君達の最期だからね」
 そう言って、透明な障壁に対して片手をかざす。見る見るうちに障壁の力が損なわれていく。
 不意に。女は舞うのを止め、低い姿勢で男に対して身構えた。と同時に、今まで詠唱を続けていた魔導師は、発現のことばを放った。

《マルナーミノワス・マルネガインザル・デ・デル・ナッサ・レオズサン・フォトーウェ!》

 煌めいていた結晶の粒は、ぱっと魔導師の周囲にまとわりつく。それは魔力を帯びた様々な“色”だ。魔導師は、幾重にもわたって積み重ねあげようとしていた。必殺の魔導を放つために。
 その時、障壁はついに破られ、男が魔導師に対し攻撃を仕掛けてきた。それを見た預幻師はフェイントの足払いをかけ、次には光弾を放ったが、男にはさして効いていないようだ。預幻師の攻撃のたびに男はしばし足を止めるが、ついに魔導師の前に辿り着いた。
「終わりだよ!」
 男はねっとりと重い“混沌”の波動とともに、剣を見舞った。しかし――

「……御身がな」
 男の背後から低い声が聞こえた。
 デルネアだった。デルネアは重傷を負いながらもかろうじて意識を保ち、男の背後まで忍び寄っていたのだ。そして彼は男の背後から深々と剣を突き立てた。
「がはっ」
 男は信じられない面もちで、自分の胸元を見つめた。蒼白い刀身が彼の身体を貫通している。剣から発される蒼い闘気はやがて男の全身を包み込み、実体を伴う蒼い炎がめらめらと身体を燃やし始めた。
「滅せよ!」
 すいっと剣を引き抜くと、デルネアは言い放ち、人間離れした速さで何回も剣を振り払った。
「ウェイン! さあ!」
 デルネアに呼ばれた魔導師は静かにうなずくと、彼の持てる最大の魔導を行使した。魔導師は、結晶が象る“色”の膜に手を触れて、呪紋を刻み込みながらも、素早く詠唱を続けた。そして膜はまるでしゃぼん玉のように膨らみ、はじけた。
 その時、とてつもなく大きな火柱が空間の底から立ち上った。火柱は不気味に色を変えつつ、徐々に魔導師の目の前に凝縮していった。とうとう一点にまでまとまったその魔力を、魔導師は男めがけて放った。

 そしてまぶしい光に全ては包まれ――。
 永遠とも思われた戦いに、終止符が打たれた。

* * *

 ハーンは、さらにその後の知識が、自らの記憶として甦ってきたのを知った。やがて記憶は一つの光景を象っていく。

 そこに居並ぶのは、長たるイシールキアをはじめとしたディトゥア神族達。彼はディトゥア達を前にしてひざまずき、深く頭を垂れていた。

「……そなたの罰は決まった。これは我ら、ディトゥアの総意である。もはやそなたはディトゥアを名乗ることは許されない。その身をバイラルと化し、また長きに渡るそなたの“意識”を、バイラルの体内に封じ込める」

「絶対の力を求めるなど――それを考えることさえ許されることではないこと。お前さんほどの者が、どうしたことか。……とはいえ、アリューザ・ガルドに“混沌”が紛れ込んだ。これは事実じゃ……」

「かつてのあなたの働きを考えても、また、やむなく“混沌”に魅入られてしまったことを考慮しても、あなたの犯した行為は……罪です。残念ながら」

 居並ぶディトゥア達は彼に対して、めいめい言い放った。同族とはいえ、彼の為したことには同情の余地など無かった。
「だが、そなたの存在そのものを消されなかっただけ、まだ救いがあったと知るがいい。そなた、罰を受け入れるか?」
 イシールキアの問いかけに対し、ひざまずく彼は言った。
「全て、受け入れます」

 こうして彼の意識は封じられ、ディトゥアではなくバイラルとして幾多の転生を続けた。バイラルたる彼が生まれ育っていくのが常にフェル・アルムであったことは、運命なのだろうか?

 この災いから数百年を経た今――ついに彼は覚醒した。

* * *

 意識がハーンの身体に戻り――彼はゆっくりと目を開いた。彼は今、フェル・アルムの空高く浮遊していた。ずきんと、胸の奥が痛くなる。スティンで吸い込んだ“混沌”が、身体を苛んでいるのだ。

 ――“混沌”がこの地にある。それをもって再び世界を掌握するか?

「そんなことはしない!」
 その声に抗うように、ハーンは頭を抱えて叫んだ。

 ――そうすれば絶大な力を持ち得るのだぞ? 滅び行くこの世界も安定するというのに。私自身の手によってね。

 ハーンは、この声が自分の中から囁く声であることを知った。今までは単なる“知識”としてしか認識していなかった、“混沌”に魅入られていた時の自分が覚醒したのだ。
「だめだ! 僕はもはや過ちを犯さないと誓ったんだ! 〈帳〉やライカ、ルード達にね!」

 ――人間に対して誓うなどとは、笑止。ならば……その脆弱な意識が吹き飛ばされるまで、本来の私が持っている闇の力にせいぜい抗うがいいさ!

「があっ!!」
 途端に、ハーンは五体が張り裂けて飛び散ってしまうかのような激痛に苛まれた。心の奥底からわき上がる誘いに身を委ねてしまおうか? だがハーンはかたくなに拒絶し続けた。悶絶する中で、ハーンは今までの出来事や、人々を思い出していた。〈帳〉、ディエル、ナスタデンをはじめとするクロンの宿りの面々、ライカに――新たなる聖剣所持者ルード。彼らの想いを踏みにじるわけにはいかない。
「ルード! 君達は、色々と頑張ってきたんだ! 僕も……それに応えなきゃならない……そうか!!」
 ハーンは突如悟った。
 痛みや誘いに抗うことすら止めた彼は、目をつぶって押し黙り、内なる自分に話しかけた。
「……全てを受け入れよう」

 ――全てを、だと? どういうことだ?

「“混沌”に魅入られていた時の僕を含め、僕の“記憶”に甦っている全ての僕自身を。結局のところ僕はただひとりの僕でしかないのだから、僕は全てを受け入れる」

 内なる声はもはや押し黙り、それ以上語ることはなかった。と同時に、ハーンを苛んでいた激痛も収まった。

 ハーンはゆっくりと目を開けた。
「僕は――“宵闇の公子”――」
 負けたわけでもなく打ち克ったわけでもない。ハーンは臆することなく、自分が何者か、全てを受け入れたのだ。と同時に、ハーンの意識は再び深いまどろみへと落ちていった。そこに不安や不快感はなかった。

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三.

 黒い雲がまさに覆わんとしていた時には混乱の渦中にあったスティンの高原。災いが退いている今は、住民達も少し落ち着きを取り戻している。
 ここは今までの高原ではない。のどかな日常を過ごしていた羊飼い達は、住み慣れたこの地を離れようとしている。ほんの一日前まではとうてい考えも及ばなかったことだ。彼らの感情は、悲しみの一言で言い表しきれるものなのだろうか?
 だが、そんな人間の感情など些細なものとあざ笑うかのように、崩壊は着実に世界を侵しているのだ。

 ムニケスの山を下り、高原の村に戻ったルード達は、真っ先にルードの家であるナッシュ家の門を叩いた。
 予期せぬ天変地異に唖然となり、顔面蒼白となっていた叔母のニノだが、ルードの顔を見るなり彼女は破顔し、「よく帰ってきた」とルードの頭を抱えながらも涙を流した。
 従姉妹のミューティースも堪えきれずにルードをきつく抱きしめ嗚咽を繰り返した。緊張の解けたルードは感きわまり、二人の身体にうずくまるようにして大声をあげて泣いた。
 そして叔父のディドルはルードの肩を叩き、一言。
「よう帰ったな」
 はじめて聞く、アズニール語の叔父の声だ。だが、それは変わらず暖かみのある声だった。家族の愛。ルードはナッシュの人々の暖かい思いをひしひしと感じ、再び涙をこぼした。
「ただいま」
 ルードは泣きはらした顔を隠しもせず、家族に微笑んだ。

 皆の気持ちが収まり、一段落したところで、ルードはライカを迎え入れた。フェル・アルムの言葉を解さなかったライカは、はじめてアズニール語で名乗った。
 ルードの家族達には、ライカの髪の色は銀色に見えている。
 〈帳〉のかけていたまやかしの術は、すでに〈帳〉自身が解いていた。この期に及んで、もはや隠すことなど何もない。
「ねえ、ハーンとは会わなかったの?」
 ミューティースが訊いてきた。
(ハーン……)
 先ほど、ハーンの変容を目の当たりにしたルードは一瞬顔をこわばらせたが、首を横に振った。
「そう……。ハーンも君に会うのを楽しみにしてたみたいだったのよ?」
「うん……残念だな」
 ルードは言葉を繋げようとしたが思いとどまった。今さら嘘をついて何になると言うのか? ルードは言葉を正した。
「いや、違う。……そうじゃない。ほんとうは、ハーンには会ってきたんだ。ムニケスの山の中で、今さっき。俺達は、この場所でハーンに会えることを教えてもらっていたし、俺も会いたかった」
 ルードの口からは自然に言葉が流れた。
「だけど、ハーンは“混沌”を追い払うために自分をなげうって……いなくなっちまった」
「どういうこと?」
「ハーンは無事なのかい?」
 ミューティースとニノは、口々に訊いてきた。ルードは下唇をかみつつ、話すべき言葉を探したがついに出てこなかった。ルード自身ですら、未だに信じられない思いで一杯なのだから。
「……分からないよ。俺自身だって、ハーンのことで頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃってるんだから。ねえ、ライカ?」
 ルードはどうすべきか、銀髪の彼女を見た。
「〈帳〉さんを呼んで、きちんと話したほうがいいと思うわ」
「そうしようか」ルードはうなずいた。「叔父さん」
「うん?」とディドル。
「……俺達は、家から出ていったあとに、いろんなことを知ったんだ。フェル・アルムのことを、それこそ色々とね。俺達は今まで、嘘で固められた世界で生きていたんだ。そして、そのつけが今になって現れてきてる。そうだな……」
 ルードは頭をぽりぽりとかきながら、言葉を続けた。
「……うまく言えないけど、俺とライカ、そしてハーンがお世話になった人を連れてきている。“遙けき野”に住んでる大賢人様なんだ。その人と一緒になって考えてほしいんだ。俺達が、スティンの人達がこれからどうするかをさ」
「……分かっとる。とんでもないことが始まろうとしてる、ってえのは俺にだって分かる。なあルード。俺とお前は今、こうやって何気なく話してるわけなんだが、こんな言葉、俺は今までしゃべったこともない。これだってとんでもないことだろう? それにな、クロンから逃げてきた連中や、ハーンも言ってた。『世界中がとんでもないことになってる』ってな。それと……そうだ、ハーンにはすまないことをしたって思ってる」
 ばつが悪そうにディドルは口を閉ざした。
「父さんは、ハーンが君を連れ去ったと思いこんでたからね。ハーンが昨日うちに来たんだけど、父さんたいそう怒ってね。ハーンの言うことを聞かないで、水をかけて追い返しちゃったんだから」
 やれやれといった口調でミューティースが言った。
「でもハーン……心配ね」
「大丈夫だと俺は思ってる。ハーンならきっと……」
 根拠など全くなかったが、ルードはそう思った。いや、そう思うほか無かった。
(ハーンとはまた会える。“混沌”の虜になるなんて考えたくもない! ハーンは無事に自分を取り戻すに決まってる!)
「〈じゃあ、帳〉さんを呼んでこよう」
 ルードはライカとともに、門の外で待たせている〈帳〉を呼びに行った。

「父さん?」ミューティースは不安げにディドルを見た。
「これから何が起こるっていうの? さっきだってあんなに怖い思いをしてたって言うのに」
「分からん」
 ディドルは娘の頭をぽんと撫でた。
「だが、あいつを信じるしかないだろうて。大丈夫だよ、ミュート。ルードは大きくなってここに帰ってきた。大丈夫だ」
「そうね。でもルードが無事でよかったよ……ほんとに」
 ニノの漏らした言葉に、三人はうなずいた。

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四.

 それから――ルード達は家族に、友人に、全ての村人達に語った。ライカとの出会いから始まった、ルード達の行動のことを。世界が変動しようとしていることを。そして間違えば崩壊してしまうということも、全て隠さず話した。
 集まった村人達に紛れて、幾人かの疾風が紛れていることをルードは察知した。が、疾風達はルード達を妨げる仕草や殺気すらみせずにたたずんでいた。害する意志など全く無いように。
「“混沌”によって大地が崩壊するさまを目の当たりにしてしまったならば、疾風とて自らの存在意義を見失うだろう」
 〈帳〉の言葉どおり、全てを話し終えた後、疾風達はいつの間にかいなくなり、その後見かけることなど無かった。

 ついにスティンの、いや、北方の民全体の意志はここに固まった。“混沌”をもたらす黒い雲を避けるために南へ向かうこと。それが全てだった。
 そこから先は運命の渦中の者達が、為すべきことを成し遂げる。聖剣の“力”と双子の使徒の力によって“混沌”を追いやる。そしてデルネアと相対し、フェル・アルムを還元するすべを聞き出した後、それを発動させる。
 ハーンの所在がようとして知れぬとはいえ、やり遂げなければならない。

* * *

 時ははや、夕暮れを迎えようとしていた。世界全てを赤い光が包み込む。それは落ちゆく陽の暖かさを感じさせるもの。空も大地も一面真っ赤に染まり、彼方に流れるクレン・ウールン河は、光を反射して時折きらきらと水面を輝かせている。
 高原の切り立った場所に膝を抱えて座り込むのはルードとケルン。二人はただ、大河の流れゆくさまをじいっと見つめていた。
 あれは――春を祝う宴の時だった。二人は今と同じようにして彼方の大河を、ウェスティンの地を見やっていたものだ。嬌声、フィドルやタールの音色――そんなものが遠くから聞こえてきたのを覚えている。それから三ヶ月経った今。あの時のことはひどく昔のことのようにルードには思えた。

「ケルン。祭りの時にお前が言ってたことなんて……お前は覚えてないだろうなぁ」
「酒に酔っててそんなの覚えてないって。言ったろうに?」
 ケルンはけたけたと笑った。
「ルード、お前も嫌なやつだよな。祭りの時の俺が酔っぱらってたのを知ってて、今さらその醜態を晒そうってのか? ひでえなぁ」
「馬鹿」ルードもつられるようにして笑い返した。
 幼い頃から見知っている親友。彼と話す時に感じる独特の穏やかな雰囲気。それこそ何ものにも代え難いものだとルードはあらためて知った。自分が聖剣を持とうと、セルアンディルになろうと、ケルンがかけがいのない友人であることにまったく変わりはないのだ。
(そう。ケルンはあの時言ってたっけ)
 宴の日。酩酊しながらも言い放ったケルンの言葉を、ルードは思い出していた。
(この世界では海の向こうに陸など無いし、“果ての大地”の向こうに別の国なんて無い――ケルンはそう言ってた。それが当たり前とされて考えてたことだから。でも、元々はそうじゃなかった。フェル・アルムがアリューザ・ガルドの一部だった頃には、この海の向こうには大陸があったんだろうし、ここから北の大地をずうっとのぼっていったら、その大陸と地続きになっていたはず。それが本当にあるべきごく自然の世界なんだ)
「……でも、見てみたいよな。海の向こう。どんな世界が広がってるのかな?」
 ケルンの願いはルードの思いと同様だった。ケルンは落ちていく太陽の方角をじっと見つめて大きく伸びをした。
「ま、そのためには色々としなきゃあいけないことってのがあるんだよな」
「……ああ」
 ルードは気の抜けたような声で返した。そうだ、するべきことはたくさんあるのだ。
「なあ、一回しか言わないから、ようく聞いとけよ!」
 ケルンは突如すくりと立ち上がって言い放った。
「お前や〈帳〉さんのようにだ。世界そのものを救うとか、元に戻すとかいった力なんざ、俺達は持ち合わせていやしない。でもな、少なくとも心の支えにはなれるつもりだ。俺だけじゃない。シャンピオもストウもいる。うちの親父さん達、それにお前んとこの家族――いや、スティンの連中全員がお前の支えになってくれるだろうさ。
「頑張れ。俺にはそれしか言うことが出来ない。でもみんながお前を応援してくれてるっていうのは、大きな支えになると思わないか?」

 ルードはこみ上げてくる熱いものを感じ、顔を膝頭に押しつけた。ケルンは、ルードを気遣うように少々距離を置くと、ゆっくりと周囲を歩きながら赤く染まるウェスティンの平原を眺めるのだった。
 ややあって。
「……な、なあルード。いいかな?」
 ケルンはさすがに声をかけずにいられなかった。眼下に広がる平原は、普段よく目にしている情景なのに、明らかに異質と思える変化を見つけたからだ。
 ルードはズボンで目元を拭うと、ゆっくりと顔を上げた。
「あれ……なんなんだ? 前からあんなのがあったっけ?」
 ケルンはやや訝しがりながらも、彼の感じた違和感の元凶を指で示した。
「ほら、見えるか? そこ……もうちょっと右だ。河があってその奥に木がたくさん生い茂ってるとこがあるだろ?」
「うん」ルードはうなずいた。
「で、そのちょっと手前……黒い何かが見えないか?」
 ルードは目を凝らして、ケルンの言う場所を見つめた。確かに、あの辺りには草地しかなかったような記憶がある。それなのに黒い染みのようなものが見えているのはなぜだろう? しかもそれは静止しているわけではなく、やや動いているように見受けられる。
 ざわざわとした嫌な感じ。体の中を悪寒が走り抜けたような気がして、たまらずルードは立ち上がって、さらに目を凝らして目標を見つめた。
「生き物? 羊の群か?」
 言葉ではそう言いつつも、ルードは内心不吉な予感がしていた。心なしか、その場所からは強く敵対する意志が伝わってくる気がするのだ。
「まさか、魔物ってやつじゃないだろうな」
 ケルンは声の調子を落として言った。
「いや、違うような気がする。大勢の……人なのかもしれない。……けど、なんだかひどく嫌な感じがするぜ……」

 ルードの予感は的中した。
 ――その報がスティンの高原に伝えられたのは夜になってから。南方の行商から帰ってきたシャンピオによって伝えられた。
 中枢の戦士達が、北方に巣くうニーヴルを討つために進軍している、と。
 その数は二千。そして将の名は――デルネア。

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