『赤のミスティンキル』 第二部

§ 第二章 アザスタン空を往く

(一)

 びゅうびゅうと風が唸っている。真っ白な雲をかききり、探検者達は空の高みへ――分厚い雲の彼方にある、穏やかな青空を目指してぐんぐんと登っていくのだった。
 ミスティンキルがほうっと白い息を吐くも、それは瞬く間に雲の白色と同化してしまう。彼は蒼龍の体躯を両手で掴みながら、おそるおそる首を斜め後ろに向け、背後の景色を見やった。雲と雲の隙間からほんの一時、デュンサアルの情景がかいま見えた。

 先刻、二人がアザスタンの背に飛び乗ったとき、巨大な蒼龍はこう言った。
【さあ、飛び上がるぞ。荷物も飛ばされぬように十分用心しておけよ。ここ最近、デュンサアル周辺の天気は、飛ぶには不向きだ】
 アザスタンの忠告に二人はいったん了承した――が、用心すべきは荷物のみあらず、龍の背にまたがる彼ら二人をも含んでいたのだ。そして蒼龍はこともあろうか、頭を真上に向けて翼をはためかせたのだ!
 龍の背に乗る二人は、それはそれは肝を冷やした。仰天して青ざめたミスティンキルとウィムリーフは、ただ必死で龍の鱗にしがみつくほかなかった。まるで、ごつごつとした大樹の頂上を目指すために、しがみついて登っているようなさまで。
 当のアザスタンはそういった二人の慌てぶりすら想定していたかのように、しゅるると煙を吐いて小さく唸ってみせた。龍という生き物は基本的に無口である。龍の言葉そのものに魔力が宿っているということもあるが、そもそも必要以上の言葉を発しないというのが、彼らなりの美徳として存在しているのだろう。
 だがミスティンキルは、なにもかも分かり切っているような龍の態度が気に障り、腹立ち紛れにアザスタンを殴りつけた。しかし龍の鱗は異常に固く、両の拳を痛めるだけだった。それでも彼の悔しさが収まるわけがなく、かえって激高した彼は右足で何度か龍の背を足蹴にしたのだった。

◆◆◆◆

 穏やかな天上を目指し、急上昇する。真下にあるのは山々。
 恐ろしくてたまらない今の状況を、それでもすんでのところで抑えることができるようになったミスティンキルは前方を――空の上方を見やる。が、まだまだ雲は厚く重なっているようで、目指す青空はまったく見えてこない。ただ、灰色。

 ミスティンキルはウィムリーフを見た。彼女は、龍の大きく無骨な背びれを挟んでミスティンキルの真横に座している。冷たい風と視界を邪魔する雲は彼女にも等しく襲いかかってきているはずなのに、ウィムリーフはどうやってしのいでいるのだろうか?
(……やるなウィム。すっかり忘れてたぜ)
 ウィムリーフのさまを見て、ミスティンキルはしてやられたとばかり舌打ちをした。彼女は前面にガラスのような薄い幕を大きく張り巡らせ、風が直接身体に当たらないように逸らせていたのだ。冷たい水分を含んだ白い霧が大波を象って彼女に襲いかかるが、ウィムリーフは微動だにせず前を見据えている。案の定、霧は彼女をよけるようにして後方へと吹き飛んでいくのだった。

 ならば自分も、とミスティンキルは神経を集中させた。彼の脳裏には今し方ウィムリーフが張り巡らせているものと同じような幕のイメージが浮かんでいる。風を逸らす透明な幕。できれば寒さをもしのぎたい――。
 そうしてミスティンキルの意識は、自身の身体の最深部へと深く落ちていく。膨大な魔力と、魔導の知識が眠るという、ミスティンキル本人ですら把握しきれていない大きな力の源へと。
 ほどなくして、彼の意識は適切な手段をつかみ取った。瞬時、彼の瞳が赤く輝く。そしてミスティンキルの口元から一言、未知の言葉がついて出てきた。ミスティンキルの身体が内部からほのかに暖かくなり、また同時に前方から襲い来る風が止んだ。
 明らかに魔法だ。それは彼の望みを寸分違わず叶えたのだった。

 魔法が発動したことに安堵した彼は、ほうっと息をつく。
 ようやく心に余裕が生まれたミスティンキルは、真横を向いてウィムリーフに話しかけた。が、彼らの間には相も変わらず風が吹きすさんでおり、とてもではないが会話などできる状況ではなかった。おたがいに大声を張り上げてみるものの、ごうごうという風の音に遮られて全く聞こえない。そんな幾たびかのやりとりの後、風を巻き込む音がぴたりと止んで、ウィムリーフの声が鮮明に聞こえてきた。二人の空間を繋ぐようにして、ウィムリーフが音の通路を作ったのだ。
「……。もしもし? 今度は聞こえるかしら。ミスト、大丈夫? さすがにこの急上昇はきついものがあるわね」
 その言葉を聞いてミスティンキルはすかさず悪態をついた。
「大丈夫もくそもあるかってんだ。このくそ龍ときたら危ねえじゃねえか、こんな急角度で真上に飛び上がりやがって! もっとまともに飛べよ!」
 ウィムリーフはそんなミスティンキルをなだめた。ウィムリーフはこの状況に臆することなく平然としているのだ。それは彼女が空と風をよく知るアイバーフィン《翼の民》だからこそなのだろう。
「どうにも天候が不順のようでね。今朝方からデュンサアル山を中心としたイグィニデ山系に嫌な雲がたまってきているのよ。すぐにも変わる山の天気だから一概にどうとは言い切れないけれど、ひょっとしたら横殴りの雨が打ち付けるかもしれない。そうしたら空の旅なんてできたものじゃないわ。……だけど雲の上に出てしまったらそんな悪天候とは関係なくなるでしょう? だからアザスタンはこうも急いでいるんじゃないかな」
「んん……理屈じゃ分かるんだが、気分としては最悪だぜ! こんな……木登りじゃあないってのに木にしがみつかなきゃならねえなんてこと、今まで味わったことがないからな。釣りに出てたとき、大しけの海になすがままにされたことはあったけれど、それと今とはまたわけが違う。……お前はどうなんだよ? 大丈夫なのか?」
「そうねえ……あたしはもともと翼を持ってるから、急上昇したり急降下したりと、ひとりで自分で飛ぶことに慣れているけれど……さすがに二人も乗せて急に上がっていくのにはびっくりしたわね。アイバーフィンの揚力じゃとても無理よ」
 それを聞いたミスティンキルはただうなずいた。
「酔ったの? ミスト」
「そういう気持ち悪さとはまた違う。なんて言うか……言うのが難しい。自分の力で何とかなるもんなら何とかしたい」
「翼を使ってみたら? あたしも今広げてるのよ。風の乱れた流れを緩和できるし、もしうっかりこの手を離してしまって空に投げ出されそうになったときでもすぐ対応できるわ」
 言われるままに、ミスティンキルは羽を伸ばした。物質界で見えない翼ではあるが、強く風が当たっているのが分かる。彼は試行錯誤しながら羽の位置を動かし、ようやく安心を得た。アザスタンが急に旋回したとしても、些細なことでは振り落とされないような体勢を取ったのだ。
 しかし今度は、前方から吹き付けてくる風が徐々に大きくなってきているのにミスティンキルは気付いた。手前に張り巡らせた幕が薄くなってきている。先に魔導を会得したとはいえ、知識や感覚としては全く身に備わっていない彼にとって、どうやら話すことに神経を向けると、他のこと――魔法を維持させることがおろそかになってしまうようだ。ミスティンキルは「悪い」とウィムリーフに合図をすると体勢を元に戻し、魔力を抽出して幕を強化するのだった。

 そう四苦八苦しているうちに。
【……もう出るぞ】
 龍の言葉が聞こえた。
 ばっという音の次に静寂がおとずれ、目もくらむような光に包まれる。
 そして五感がまったく瞬時に切り替わった。寒さは和らぎ、風切り音は止み、視界はまばゆい青になり、太陽が注ぐ。
 ついに彼ら三人は分厚く折り重なっていた雲の層を突破し、澄明な上空へと飛び出したのだ。

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(二)

 雲の上へ飛び出したアザスタンは急上昇をやめ、巨大な翼を水平にのばして滞空する姿勢を取った。
「わあ、下が真っ白! そうか、“雲の海”っていうのはこういうことを言うんだ! ああ、でもあっちの低くたれ込めているのは嫌な色……あれが雨雲ね」
 ウィムリーフは子供のように喜びはしゃいでいる。そしてすくりと立ち、満足げに周囲を歩き回ると、気持ちよさそうに大きく背伸びをした。
「アザスタン、海に出るまではまっすぐ南に飛んでちょうだい。ただし飛ぶ速さは今までの半分くらいに抑えてね。――海に出るより先に夕方が来てしまうかもしれないけれど、急ぐ旅でもないし」
【了解した】
 雲海の上、風に乗るかたちで蒼龍は静かに滑空していく。気候は冷涼ながらも、先ほど雲の中を突っ切っていたときに比べれば風もなく穏やかだ。頭上を遮るものはなにもなく、ただ紺碧。
 ウィムリーフは荷物のひもを解き、まっさらな冒険日誌を取り出した。彼女はあぐらをかいて座り込むと、今まさに自分の目に映っている雲海の様相を描き出すべく、ペンを走らせた。

 龍の姿勢がようやく水平になったのを知ったミスティンキルは、アザスタンの背にべたりとうつぶせになり、そのまま四肢を大きく伸ばした。精根が尽き果てているのが分かる。なにもできない。彼は翼をしまうと大きく一呼吸した。
 長いこと恐怖にも似た緊張を感じていたためだろう。全身の筋肉がすっかりこわばってしまっている。いつの間にか首の筋をちがえてしまったようで、思いもよらぬ痛みのために彼はうめき声を上げた。
「……あんまり力みすぎたからよ。湿布でもしたほうがいいかしらね?」
 ウィムリーフは写生をやめ、ミスティンキルを見た。じろりと、ミスティンキルは恨めしそうにウィムリーフのほうを見る。
「ウィムよう。お前さんはなんでそうも平気でいられるのかね?」
 ミスティンキルは力なくウィムリーフに言った。
「ミストと違って、あたしは力任せにしがみついてたりしなかったもの。アザスタンの飛び方には最初びっくりしたけど、風の助けと翼の使いようで、勝手が分かったらあとはそれほど苦でもなかったわ」
「さすが“風の司”ってやつか。おれはしがみつくのが精一杯で、翼を使うとか魔法を使うとか、そっちまで頭が働かなかったからなあ。……っ……。なんでこんなひでえ目に遭わなきゃならねえんだ……」
「魔法を使って癒すとか、そういうことはできないの?」
「そんな魔法もあるに違いないけどな。自分の中から魔法を探るのってのはけっこう疲れるんだぜ。心身ともにな。……今はとてもそんな気になれねえ」
 元気な口調のウィムリーフが恨めしい。この疲労の半分でも分けてやりたいとすらミスティンキルは思った。
「……ともかく助けてくれ。痛くてたまらねえ。さするなりなんなり、してくれねえか?」
「ミストがそうまで痛がるなんてよっぽどのことねえ」
 言いつつウィムリーフは日誌をいったんしまうと、龍の背びれをひらりと乗り越えてミスティンキルの横でかがみ、彼の肩や背をさすった。そのたびにミスティンキルは小さくうめく。
「わあ、この凝りかたは酷いわね! ずいぶんと痛いでしょう?」
「正直言って動きたくねえな。……なあ、ウィムのほうは魔法は使えるのか?」
「え?」
 ウィムリーフは一瞬きょとんとした。
「今まで考えたこともなかったな。そういえば月で魔導師の……ユクツェルノイレさんが言ってたっけ。『魔導は君達二人に託したい』って。あの時、あたしも一緒になって魔導を復活させたんだから、ミストだけが魔法を使えてあたしが使えないっていうのも変よね。うん! やってみる。どうすればいいのかな?」
「おれの場合は『こうしたい!』と心の中で願った。そうすると心の奥底からふっとわき出るように魔法が出てきたんだ。呪文だって同じだ。おれ自身、難しいことはしてねえし、考えてもない」
 昔から口べたで、人にものを教えることが苦手だというのはミスティンキル本人も分かっている。自分の感覚がうまく伝えられないもどかしさを苦々しく感じながらもミスティンキルは答えた。
「……ふうん。……なんていうかな、魔法って聞くと普通はもっといろいろと手間のかかるもののように思えるんだけど、魔法を使う本人にとってみれば意外にそうでもないのかしら。あたしたちアイバーフィンが風を操ってみせるのと同じような感覚だと考えていいのかな……とにかくやってみるわ」

 ウィムリーフは目を閉じ、両の手のひらをミスティンキルの背中に当てた。意識を集中させているのだろう、彼女の両腕が力んでいるのが分かる。
 しかしいくら経ってもその腕から魔力が放たれることはなかった。
「……どう?」
 自信なさそうにウィムリーフが尋ねる。
「悪いけれども……」
 ミスティンキルはかぶりを振った。はあ、とため息を漏らしてウィムリーフは両腕から力を抜いた。彼女の落胆ぶりが伝わってくる。
「『癒しの力よ来い!』とか『出ろ!』とか色々願ってはみたんだけれど……駄目ね。ミストだったら例えばどういうふうに願う?」
「やっぱりお前と同じだよ。『やる気出ろ!』みたいにな。……とにかく俺からはそういうふうにしか答えられない。理屈じゃなくて感覚で魔法を使っているんだろうな。だからウィムのやり方と俺のとでなにがどう違ってるのか、俺には分からない」

 彼女はやや憮然としながらも何回か魔法を試してみたが、結果に変わりはなかった。
「あたしは……駄目なのかしらね」
 しまいにウィムリーフは自嘲気味に笑みを浮かべて空を見上げるのだった。
「ウィム」
 ミスティンキルの言葉にも彼女は目をつぶって小さくかぶりを振るばかり。ミスティンキルは雰囲気を察し、なにも声をかけないことにした。しばし沈黙。彼女は今、どんなことを心の中で思っているのだろう? ウィムリーフには魔導は継承されなかったというのだろうか?

◆◆◆◆

 しばらくしてウィムリーフはすくりと立ち上がった。
「うん。……仕方ない。まだ痛むでしょう? 湿布をしてあげるわ」
 きわめて普段どおり、軽やかな足取りで龍の背びれをまたぎ、ウィムリーフは薬を取り出した。
「不公平よね。なんであたしにはなにも――」
 ミスティンキルの元に戻る最中、ウィムリーフはぽつりと漏らすのだった。納得しかねている様子がありありと伝わってくるが、彼女はそれ以上負の感情を露わにすることはなかった。
 ウィムリーフは包帯をちぎって薬を塗り込む。そしてミスティンキルの身体を撫で、特に筋がこわばっているところに包帯を当てていった。
 それがひとしきり終わると彼女は元いた場所に戻り、再び写生をはじめるのだった。ミスティンキルが感謝の言葉をかけたが、彼女からの返事はなかった。

 やがて太陽が雲海の上まで顔を出すようになり、暖かな光を放ち出す。節々を痛めているミスティンキルにとっても心地よい光だ。ウィムリーフは感嘆の声を上げた。今までとはまた違った情景へと変わったのだろう。
「あのう……あたしのこと、気を悪くしてたらごめんね?」
 ウィムリーフはおずおずとミスティンキルに声をかけてきた。先ほどのことをずっと気にやんでいたのかもしれない。魔法が使えなかったことではなく、それに対する彼女自身の態度について。
「おれは気にしてねえよ」
 うつぶせになったままのミスティンキルは目を閉じたまま答えた。
「うん。ありがとう」とウィムリーフ。
「……空ってやっぱりいいわね。気分が癒される。ミストも見てみたら? 雲に光が当たって、輝いて見えるわよ」
「ああ。けれども……眠くなってきた」
「それじゃあ眠ってしまいなさいな。心配しないで、突風が来てもあたしの力でそらせてみせる。次に起きる頃には調子も良くなってるに違いないわ」
 ウィムリーフはそう言うとミスティンキルのところにやって来て、彼の頬に口づけをした。そんなウィムリーフを愛おしいと思う。ミスティンキルは上半身をむくりと起こし、やや強引にウィムリーフの唇を奪った。ややあって。赤い瞳の彼は唇を離し、にやりと笑って彼女の青い瞳を見る。不意打ちを受けた彼女は、かあっと顔を赤らめた。
「……お休み、ウィム」
「あ、うん。お、お休み……」
 それだけ言葉を交わすと、ウィムリーフはまた元いた位置へと戻っていった。
 髪を撫でる心地のいい風と、さんさんと降り注ぐ暖かな春の陽光は、ミスティンキルを眠りの縁へと誘っていくのだった。

◆◆◆◆

 次にミスティンキルが目覚めたとき、風はぱたりとやんでいた。ウィムリーフが手当したかいがあって、筋肉の痛みはすっかり引いている。あれだけ緊張して張りつめていた心身は、今や全く普段どおりになっている。ミスティンキルはぐっと四肢を大きく伸ばしたあと、ふと、様子がまるで変わっているのに気付いた。ミスティンキルは龍の背からがばりと起きあがって周囲を見渡した。
 自分達を中心として、丸天井を象った大きな空間がぽっかりあいており、その周囲を乳白色の厚い雲が覆っているのが分かる。そこから外側の様子は見えない。寝ぼけまなこをこすりよく見てみると、これは雲に見えるようでいて実は雲ではない。
 龍の背びれの向こう側ではウィムリーフが仰向けになって気持ちよさそうにすうすうと眠っていた。
「で、ここはなんなんだ?」
 身体を動かして筋を伸ばしたあと、ミスティンキルは呟いた。この奇妙な空間はどこかで目にしたことがあるような気もした。
【わしが作った巣だ。お前達二人とも眠ってしまったから、今晩はここで過ごすことにするぞ】
 ぐぐっと、アザスタンが長い首を向けてミスティンキルに語りかけた。
「龍《ドゥール・サウベレーン》の巣か?!」
 “炎の界《デ・イグ》”では、赤水晶《クィル・バラン》のように煌めく球体が浮かんでいたのを思い出した。
「……にしては赤くねえんだな」
【赤さは“炎の界《デ・イグ》”の中にあってこそのもの。ここアリューザ・ガルドでは、見てのとおりの色合いとなるのだ】
「降りられるのか?」
【むろん。お前達にとってはそのほうが居心地が良かろう】

 言われて、ミスティンキルは龍の背から降りてみることにした。二人分の荷物を抱え込み、アザスタンの大きな脚を伝って地面に降り立った。この床面はまるで羊毛の絨毯のようにふかふかして暖かい。
 彼は荷物をどかりと下ろすと、ウィムリーフのもとへ向かった。だが彼女は深く眠っているようで、いくらミスティンキルが揺り動かし呼びかけてもぴくりとも応えなかった。仕方なくミスティンキルは彼女を抱き上げて龍から降り、やや歩くと、綿毛のような床に横たえた。このあたりは寝床にするにはもってこいのようだ。
「アザスタン。今どのあたりなのか、あんた分かるか?」
 ミスティンキルはアザスタンの側に寄ると、彼に訊いた。
【デュンサアルから真南、ちょうど海に出たばかりのところだ。この先どうしようかとウィムリーフに訊こうとしたのだが、寝てしまっていた。まあ夜も近かったことだし、この空に巣を張ることにしたのだ。あとどうするのかはウィムリーフが起きたときに訊け】
「ああ、そうさせてもらう。……今日一日、ありがとうな」
 ふんと、アザスタンは鼻を鳴らせて答えた。

 ミスティンキルはウィムリーフのところまで行き、床に腰を落ち着けた。ぬくぬくとした心地よさが伝わってくる。再びまぶたが重くなってくるのを感じたミスティンキルは、もう一度眠ってしまうことに決めた。結局食事をとっていないのだが不思議と空腹感はないし、これ以上起きていてもなにもやることはない。
 彼はウィムリーフにぴったりとくっつくと彼女の頭を自分の左腕に乗せ――ゆっくりと目を閉じるのだった。

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(三)

 深く心地よい眠りの底からミスティンキルはゆっくりと浮上していった。“目覚めた”と彼の意識が認識すると同時に、彼は左腕に異物感を覚えた。だがそれは優しく暖かい感じがする。彼の横に寄り添うもの、それは――。
 ああ、そうか。ミスティンキルは首を左に向けてゆっくりとまぶたを開けていった。
 ミスティンキルの左腕を枕にして、すうすうと寝息を立てているウィムリーフ。成人したてで彼よりほんのわずか年上とはいえ、間近に見る彼女の寝顔はとても可愛らしい。
 ミスティンキルは神妙な顔をした。自ら進んで腕枕をするなどいかにもきざで、まったく自分らしくもない。旅の準備の一週間、ほんの一週間ウィムリーフに会わなかったからといって、こんなにも彼女のぬくもりが恋しくなるものなのだろうか。
 ミスティンキルは首を元に戻し、龍の巣の乳白色をした天井を見つめる。小さく息を吐いた。
(口づけたり、こんなことしたり……おれはウィムが欲しいってのか?)
 彼の心は否定しなかった。だが二人で愛を交わすにしても、この冒険行が終わってからだ。彼は律した。これからしばらくは常に身の回りに注意を払うことを怠ってはならない、と。自分達がこれから向かう遺跡は魅力的ではあるが、長いこと人を遠ざけてきた孤島なのだから。
 それでもミスティンキルは恋人のぬくもりを少しでも長く感じていたいと思い、彼女を起こさずにいようと決めた。

 やがてウィムリーフが小さく唸り、目を開けた。
「ミスト? あ……おはよう……」
 彼女はミスティンキルの顔を見た。やや頬を赤らめる。ミスティンキルの腕を枕にして寝ているという状態は、彼女にしても照れくさいのだろう。
「……やぁねえ。いつの間にか寝ちゃってたのね」
 ウィムリーフはくすりと笑った。そして周囲の様子を見やる。龍《ドゥール・サウベレーン》の巣の中というのは、彼女にとって初めての情景だ。ゆっくりと上半身を起こした。
「ここは……アザスタンの巣?」
「そうだ」
 彼女の身体の柔らかさ、暖かさを直に感じ取れなくなったことを惜しみながら、ミスティンキルは答えた。
「そう、“炎の界《デ・イグ》”で見たような龍の巣の中に、あたし達はいるってわけね!」
 ウィムリーフは足場を慎重に確かめながら立ち上がって大きく伸びをした。そして羊毛のように柔らかそうな壁まで歩いていくと、そおっと手のひらで触れてみた。
「あ、やっぱり。龍王様の御殿の外壁と同じだわ。まるでお菓子の生地みたいにふわふわしてる」
 ミスティンキルも彼女の横に立って壁に触ってみた。
「いや、やっぱりクリームだろう、どっちかってえと」
「クリームたっぷりのお菓子が食べたくなるわね! アルトツァーンにいた頃が懐かしくなるわ。春になってからまったく口にしてないもんね」
「そういや、お前さんは甘党だったな」
「甘いものは別腹、ってね!」
 白い壁に手を当てながら、ウィムリーフは笑って見せた。

【起きたな】
 龍の声。この空間の中央に居座る主はぬうっと首を伸ばした。
「おはようアザスタン。あなたは寝てたの? ……いえ、そもそもの質問だけれど、龍は眠るものなの?」
【眠る。アリュゼル神族にしても眠って英気を養うのだ。我らとて同じこと】
 アザスタンは答えた。
【さて。お前が寝てしまったからどこへ飛ぼうか見当がつかなくなり、こうして巣を作って中にいるわけだが……ウィムリーフよ。これからどうする? 今わしらは、デュンサアルから真南に飛び、海に出たところにおる】
「ああ、ごめんなさい二人とも。アザスタンの巣から出たら、島がどの方角にあるのか調べるわ。もう朝なのかしら?」
「腹時計からしたら、おそらくはな」
 とミスティンキル。ウィムリーフはくすりと笑った。
「そうね。じゃあまずあたし達人間は朝食にするわ。それから出発ね」
「ところでウィム。飯はいいとしてだ。アザスタンに乗ってて、もよおしたくなったときはどうするんだ」
「……その話題か」
「大事なことだぜ?」
 やれやれと、ウィムリーフは腰に手を当てた。
「いい? あたし達には翼がある。そして真下は海。つまりは――鳥がどうするのかを考えてみなさい」
 ミスティンキルは頷いた。
「空の上からばらまけってんだな」
「――――!! あたしの前でそういうこと言うのか、あんたって人は!」
 ウィムリーフは唇をかみしめ、ミスティンキルをにらみつけるのだった。

◆◆◆◆

 小箱のような四角形をした食料は保存性と携帯性を兼ね備え、加えて満腹感をも満たされるものだった。“味”という観点からは決して賞賛されるものではなかったが。これから毎日毎食、これを食べ続けなければならないのだ。もっとも島に着けば自然の食材にありつける可能性はあるのだが。
「せめて、新鮮な魚でも食いたいぜ。この真下にはたくさんいるだろうに……アザスタンが海すれすれを飛ぶんなら、網を作るんだがなあ。そうすりゃたんまり獲れるぜ」
「良い案だし、本音のところあたしも賛成だけれど残念。却下ね。あたしは早く島に着きたいの。それにあたし達が持ってる武器のたぐいは、魚をさばくために持ってきたんじゃない」
「漁師の料理が味わえる絶好の機会だってのになあ。ああ、生魚なんて一年以上食ってねえよ……」
「なま? 焼いたりせず、生で食べるの?!」
 食事の途中、水筒から水を飲んでいたウィムリーフは、怪訝そうな表情を浮かべた。
「あれ、冒険家さんは知らねえのか? 海の男の料理っていやあ、とれたての魚を――こうさばいてな。その肉を粥飯にのっけて塩をかけるってのが定番だ」
「聞いたこともないわよ。ラディキアあたりではミストの言うとおりなのかもしれないけど、生まれて五十五年、そんなもの食べたこと無いわ」
「おれはこの五十年間、いっつも食ってたけどな。あれはうまい。冒険が終わったらお前にも食わせてやるよ」
「うーん……」
 ウィムリーフの表情は今ひとつ浮かない。
「だが冒険家テルタージの娘よ。冒険してるときには草だの蛇だのを食わなきゃならねえ時ってのもあるんじゃねえか?」
「あああ!!」
 あわれ、ウィムリーフは頭を抱え込んだ。

◆◆◆◆

 食事を済ませ、旅支度も万端。ミスティンキルとウィムリーフは蒼龍の背中に乗り、背びれを挟んで左右に座した。
「いいわよ、アザスタン。お願い」
 ウィムリーフの声を合図にして、アザスタンは両の翼を広げた。羽ばたきがはじまるとともにふわりと浮遊する。それから龍は首を高く真上に突き出し、大きく息を吸い込んだ。巣としていた乳白色の球体が、天井からみるみるうちに消え失せていく。綺麗な空が見えてくる。やがて龍の巣はアザスタンの体内にすべて取りこまれた。
 太陽は東の空から昇ったばかり。上にも下にも、空には雲ひとつ無い。前方、見渡すかぎり広がるスフフォイル海が煌めいて見える。上空の空気はまだ寒々しいが、じつに爽やかな春の朝だ。

【さてどうする】
 滞空した姿勢でアザスタンが問いかけてきた。
「ちょっと待ってて」
 言うなりウィムリーフは浮き上がり龍の体躯からやや離れると、周囲をゆっくり飛んで廻った。しばらくして彼女はアザスタンの正面に立った。
「まっすぐあちらへ」
 ウィムリーフは行くべき方向へと右手を指し示した。この時期の太陽の位置から察するに、西南西といったところか。
「かつてカストルウェンとレオウドゥールがラミシスへ入った経路と同じ道をたどることにするわ。彼らもあたし達と同じく、龍に乗ってラミシスに入ったとされてる。同じ道を行けば、上陸を前にして休憩が取れる小島があるし、そこからだったら島の岬に建っている“壁の塔”ギュルノーヴ・ギゼが見えるかもしれない。――お願いアザスタン、昨日の速さのまま飛んでちょうだい。今日中に島までたどり着けるかもしれないけど、まあ余裕をもって明日の朝に上陸、と行きたいわね!」
【了解した】
 ウィムリーフは満足そうにうなずくと、アザスタンの背びれを挟んでミスティンキルの右隣に再び座した。
 龍は徐々に飛ぶ速度を速めていく。心地よい風が背の上の二人の髪をなびかせた。

「なあウィム、朱色《あけいろ》のヒュールリットを知ってるか?」
 龍の背びれにつかまりながら、ミスティンキルはウィムリーフに訊いた。
「うん、龍の名ね。もちろん知ってるわ。魔導王国ラミシスの王であるスガルト。その彼を倒すべく魔導師シング・ディールに協力したのが朱色の龍ヒュールリット。ヒュールリットと他の龍達の協力がなければ、ディール達の軍勢はラミシスを滅ぼすどころか、島に入ることすらままならなかった、と言うわね」
「……なら、そいつがおれ達の行く手を阻むとしたら?」
 それを聞いてウィムリーフは真剣な表情をしてミスティンキルのほうを見た。
「あり得るの? そんなことが。だって王国はずっと昔――そう、九百年前に滅んだのよ? 今は遺跡しかない。悪く言えば廃墟しか残ってないのに。呪縛を嫌い孤高を好むという龍が、いまだ居座っているなんて――」
「ところが違う。おれはエツェントゥー老から直に聞いたんだ。その昔、デュンサアルからたった一人でラミシス遺跡を目指したってえ、無鉄砲で馬鹿なドゥロームがいたんだと。そいつは島に近づくところまで行ったけど、そこから逃げ帰った。……ヒュールリットだよ。やつは島の近辺に巣を作って、人間が遺跡に入らないように見張ってるらしい」
「――遺跡には今も何かがあるのかしら? カストルウェン達も王都にだけは入れなかったと書いてあったし……あら? でもあたしの読んだ本だと、ヒュールリットについては一言も触れられてなかったわよ?」
「それはおれも分からねえ。詩人が詠った詩にしたって、いろいろと継ぎ足したり引いたりしてる部分があるんじゃねえのか? 鵜呑みにはできない。けれどエツェントゥー老の話は真実味がある。おそらくこの先、おれ達は朱色のヒュールリットを相手にしなきゃならねえんだよ」
「龍を相手にして、まともに戦えるというの?」
「……そうじゃねえ。話し合って解決するほかねえだろう」
 ウィムリーフはしばし黙りこくった。

「……あたしが交渉するわ」
 ウィムリーフは切り出した。
「だな。それがいい。アザスタンだってついている。それにおれ達は龍王イリリエンにだって会ってるんだ。きっとうまくいく」
 ミスティンキルの言葉を聞いてウィムリーフは小さくうなずいた。そして背負った荷物を外して手前に持ってくると、その中から本を取り出し――冒険を開始するに先立って、ラミシス関連の記述を彼女自身がまとめ上げたものだ――最初の頁から読み始めた。行動を起こすに際して準備は怠るべからずと学んだ彼女ならば、たとえ龍を――話す言葉にすら魔力が込められているという龍を相手にしても、対等に話し合えるに違いない。そして何より――
「せっかく東方大陸《ユードフェンリル》の南の端まで来たんだ。こんな機会は二度と来ないかもしれない……あたしは絶対、遺跡の奥にある王城にたどり着いてみせるわ!」
 ウィムリーフの強い信念。今回の冒険行において力の源は、彼女にこそあるのだ。

◆◆◆◆

 果てしなく続く青い空のもと、蒼龍はただまっすぐに飛び続けた。ミスティンキルが見るのは空の青と海の青。そして眼下に浮かぶ雲の白だった。本とにらめっこを続けていたウィムリーフは時折、気分転換のために龍の背中から舞い上がり、自在に空を舞うのだった。
 やがて陽が西に傾き、橙色に染まり始める。折しも前方、やや左側に小島が見えてきた。ウィムリーフが言っていた休憩場所だ。出発に際してウィムリーフの示した方向は正しかったのだ。彼女は満足げに笑みを浮かべた。
「ほっとしたわ。『方向を間違えていたらどうしよう』なんて、けっこう心配してたのよ?」
 ウィムリーフは言った。
 目指すべきラミシスの島はまだ姿を現していないが、間違いなくこの先にある。
「今日はここまでにしましょう。お願いアザスタン、左下に見えてきた小島の平地に降りて」
【応】
 アザスタンはゆっくりと降下し始めた。

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(四)

 ヨウコソ――
 宵ウ来ソ――

 ウィムリーフはその言葉を確かに聞いた。誰のものか分からないその声はしかし、不思議と彼女を心の底から安心させるものだった。
(ここはどこ?)
 どこかの室内。もしくは回廊。辺りは一様に薄暗く、間隔を置いて灯っているランプによって足場が照らし出されていた。
 そしていつの間にか彼女は、長く長く続いている狭い螺旋階段を下りているのだった。
(これは夢だ)
 ウィムリーフの意識は確信した。いつか見ていた、夢の続きを見ている。
 ふと前に焦点を合わせる。四段ほど前、ウィムリーフを誘うかのように人の影のようなものが階段を下りている。あれはいったい何なのだろうか? だがウィムリーフの足は近づくことができない。また、止まったり遠ざかったりすることもできない。一定の距離を隔てたまま、ただ階段を下りていく。

 やがて鉄の扉が彼女達の前に現れた。真っ平らな扉には取っ手らしきものは何一つ無く、鉄板の鈍色《にびいろ》が冷たさと重厚さを醸し出している。影はその前で止まった。ウィムリーフはやはり、影から数歩置いたところで動けなくなる。
 影が扉に手を触れると、鈍色の表面に変化が起きた。手を中心に細く青白い線が何本も放射状に延びていき、すぐに複雑な紋様を象った。この紋章が一瞬輝きを増すと、扉はそれに応えるように重々しい音を立ててゆっくりと開いていった。

 再び彼らは螺旋階段を下りていく。距離を置いて。もうずいぶんと降りてきた。この階段はぐるぐると廻りながらどこまで続いているのだろうか。どこに向かっているのだろうか。彼女はそんな疑問を持ったが、それとは関係なしに足は一歩一歩前へと進んでいく。何かに引き寄せられるように。あるいは前を行く影に。
 やがて第二の扉が行く手を阻んだ。影は先ほどと同様、その表面に手を触れた。今度は違う形の紋様が形づくられる。そして扉は音を立てて開いていく。
 その先にあるのはただ闇だった。影はしかし、躊躇することなくその闇の中へと消えていく。ウィムリーフもそれに続いた。

 背後で扉が閉まると、周囲はねっとりした闇に支配される。影は光の珠を魔法で作り出し、手のひらから離した。光球はゆっくりと上に向かっていく。それと同時に周囲の情景も明らかになっていく。
 ウィムリーフはしばし見とれた。ここは大きな空洞だ。周囲の壁はそれまでのような人工的なものではなく鍾乳石で出来ている。気の遠くなるような長い年月を経て、この天然の鍾乳洞はつくられたのだろう。

 影は――空洞のとある場所で立ち尽くしていた。ウィムリーフはそちらのほうまで歩いていく。影はゆっくりと腰を落とした。ウィムリーフはそろそろと、影の斜め後ろにまで近寄る。
 影の前の床は明らかに人の手が加えられており、そこには石造りの立方体をした箱がひとつあった。小動物の一匹くらい中に入れそうな、その箱の表面には文字がびっしりと埋め尽くすように刻まれていた。それらの意味するところはウィムリーフには分からない。
 影は、これを自分に見せたかったのだろうか?
 そう思うと同時に、影がぬうっと手を伸ばしウィムリーフの手首を掴んだ。
 刹那。
 魔力が――青い魔力が、爆ぜたかのように勢いよく放出されていく。ほとばしり立ち上る青の力。それは尽きることなく自分の内面からわき上がってくる力。
 当のウィムリーフは立ち尽くし、影に掴まれた手首を見つめながらも、たしかに快さを感じていた。愉快なまでに。
 影がゆっくりと振り向こうとしている。

 そして暗転――

◆◆◆◆

 夢から覚めたウィムリーフは目を開けた。まだ朝は早く、太陽も顔を出していない。篝火の小さな炎が暖かい。その向こう側ではミスティンキルが大口を開けて寝入っていた。
 ウィムリーフ達は小島で一晩を過ごすことにしたのだった。ここは海岸近く。寄せては返す波の音が心地よく聞こえる。
 昨晩はミスティンキルが釣り上げた魚を中心に、昼食の時とは比べものにならないほど豪勢な料理が味わえた。島に住む野生の動物を警戒するために篝火の火はつけたまま、彼らは眠りについたのだった。

 徐々に、空が明るくなってきた。しかし、それにしても先ほどから――いや、目覚めたときから目の前がうっすら青いように思える。薄い布で覆われているような青い色。これはなんなのだろうか。
「――!!」
 察したウィムリーフは、がばりと飛び起きた。この青い色には見覚えがある。自分の魔力だ! それが今、彼女の全身を包み込み漂っている。
(引っ込め!)
 彼女がそう念じると同時に、青い魔力は彼女の体内へと戻っていった。
(なんで……?)
 落ち着きを取り戻した彼女は疑問に感じた。彼女が魔力を開放したのはずいぶんと前のことになる。月の世界、魔導師ユクツェルノイレの封印核を打ち破る際、赤い魔力を持つミスティンキル同様に彼女も魔力をすべて解き放ったものだ。
 それが今朝、知らずの間に放出されていたなんて――ウィムリーフは訝しんだ。彼女は、今し方まで自身が見ていた夢の内容は覚えていない――。

「わしらがこれから行こうとしている魔導王国に、何かしら関係があるのかもしれぬな」
 振り返るとそこには龍戦士の姿に身を変えたアザスタンが立っていた。
「見ていたの? あたしの魔力が放たれていたのを」
 アザスタンは頷いた。
「無意識にやっちゃうだなんて、こんなこと初めてだわ。一体あたしになにが起こったっていうの? ミストにはなにも起きていないというのに」
「分からぬ」
 アザスタンは答えた。
「月の世界で魔導の封印を解いた時のように……あたし達は、なにかを起こすことになるというのかしら――?」
 真剣な表情でウィムリーフは再び訊いた。
「わしには分からぬことだ。わしは龍王様より言いつかって、このアリューザ・ガルドにおる。『私の目の代わりとなって、あの者達の紡ぐ物語の行く末を見届けるのだ』――龍王様はこうおっしゃった」
 アザスタンは言った。むろん“あの者達”とはミスティンキルとウィムリーフのことだ。
「わしから言えることはひとつ。今はただ進め、ウィムリーフ。運命を切り開く役割は、お前達人間にしかできぬことなのだ。我ら龍も、神々すらも、ただ傍観するか、助力となるしかできない」
 それを聞いてウィムリーフは頷いた。
「わかった。あたし達を見守って下さいましな、アザスタン」
「無論。それが今わしがここにいる意味。龍王様から下された課題なのだ」
 アザスタンは言った。
 その時ふと、ウィムリーフの脳裏を何かがよぎった。忘れかけていた記憶がよみがえってくる、そんな感覚をおぼえた。だがけっきょくなにも思い出せなかった。
「夢……? 寝ているとき、あたしはなにか夢を見ていたような気がする。――回廊、暗闇……階段――そんな情景だったはず。でも内容までは覚えてないな……」
 ウィムリーフはぽつりとつぶやいた。

 当人すら知らぬところで、“変化”は確実に起ころうとしていた。

◆◆◆◆

「うう……ん」
 半刻ほど経った頃、ようやくミスティンキルが目覚めた。
「おはようミスト。もう朝よ」
 ウィムリーフはミスティンキルの側に駆け寄って彼の顔を眺めた。
「ぽかーんって、大口開けて寝てた」
 ウィムリーフはけたけたと笑った。
「……見てたのか」
 ミスティンキルは口もとを腕でぬぐい、やや恨めしそうにウィムリーフの顔を見上げた。
「なんか夢でも見ていたの?」
「ん? ……覚えてねえな。ぐっすり寝入ってた気もする」
「起きて。食事にするわ」
 言われて、ミスティンキルはむくりと起きあがると周囲の様子を確かめた。
「雲が多いな」
 ミスティンキルの言うとおり、昨日はあれほど雲ひとつ無い青空が広がっていたというのに、今日は雲が多い。ただ雨雲らしきものは見あたらないし、雨独特の空気の匂いは感じられない。少なくとも雨が降ることだけはなさそうだ。
 このまま遺跡の島へと上陸できそうだ。そうミスティンキルが思っていた矢先――。

「龍の気配だ。こっちに来るぞ」
 アザスタンが唐突に言った。
「ヒュールリット?!」
 ミスティンキルとウィムリーフは表情をこわばらせる。だが龍の姿はどこにも見あたらない。アザスタンは同じ龍だからこそ感じ取れたのだろう。ミスティンキルは精神を集中して周囲の様子を感じ取ろうともしたが、アザスタンのようには分からない。
「どこから来るの?」
 とウィムリーフ。それに対してアザスタンは指を示した。入り江の方向、空高くに。一同はその方角を見つめるが、目をこらしてもまだ何も見えない。ただ白い雲が漂っているのみ。
 しばらく緊迫した空気が彼らを包み込む。誰もしゃべらない。
「――来た!」
 沈黙を破ったのはミスティンキル。魔法を用いて気配を感じ取ろうとしていたのだ。
「雲を突っ切って真っ逆さまに降りてきている。……もうすぐ見えるぞ!」
「あっ! あれ!」
 ウィムリーフが指さす空に、ぽつんと小さな影が見えた。それはぐんぐんと、とてつもない速さで近づいてくるではないか。
 大きな翼。龍の威容ある姿。その身にまとうのは朝日と見まごうばかりの鮮やかな朱《あけ》
「間違いねえな。ありゃあ朱色《あけいろ》のヒュールリットだ!」
 ミスティンキルは拳を握るのだった。

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