『赤のミスティンキル』 第二部

§ 第六章 オーヴ・ディンデを目指して

(一)

 時は夕暮れとなった。シュバウディン森林からそう離れていない、頑丈で平坦な土地を選び、彼らはテントを張ることにした。ここから先には湿原地帯が広がっているという。ぬかるんだ土地ではテントの設営がままならないだろうと予想し、三人は安全をとってここで一晩明かすことを決めた。
 ロス・オム山を指し示していた小さな赤い球。魔法の産物たるそれをミスティンキルが納める前に、これから三人が進むべき方角に向けて木の枝を地面に突き刺し、つかの間の標識とした。明日また、魔法を発動して歩を進める。

「さあて、一体全体この呪いとやらはなんなんだ?」
 テントを設営して中に入り、真っ先に口を開いたのはミスティンキルだった。
「呪い……まったくやっかいだわ」
 まいったとばかりにウィムリーフは眉をひそめた。
「原因としてあたしが考えるのは……そうねえ。戦死したラミシス王国の魔術師達の怨霊とか怨念とか。あと、あたし達が竜《ゾアヴァンゲル》を倒した事が呪詛発動の引き金になってるとか。ぱっと考えられるのはそこら辺ね。でも分からないことだらけ。カストルウェン達がこの島に来た時とファルダイン様がいらした時。なんで呪いは過去、彼らに降りかからなかったのか、今あたし達が呪われたのはなぜなのか。そもそもこれは失われた魔導王国の呪いなのか、違うのか」
 “怨霊”と自分で言って思いだしたのか、あとで念のため悪霊祓いのまじないをかけておいたほうがいいかな、ともウィムリーフは言った。
「なんだ、ウィムも分かんないのか」
 ウィムリーフは鋭い目つきでミスティンキルを見た。
「分からないですって?! ええ、そうよ。こんな呪いを受けるなんてどの文献にも書いてなかったもの。ミストだってこんな事誰からも聞いていないでしょう?」
 声を荒げて彼に毒づくと、やれやれと息をついてウィムリーフは敷物に座り込んだ。今朝の出立の時とは打って変わって彼女は機嫌を損ねている。残り二人は顔を見合わせて、どかりと座り込む。
「あーあ。もっと順調にいくと踏んでたんだけどなあ。あたしも甘かったか」
 頭の後ろで手を組みウィムリーフは自嘲した。そして姿勢を正すと二人の顔をじっと見据え、真摯な面持ちで語った。
「うん。怒鳴ったりしてごめん。……いつ、どういう目的で呪いは仕掛けられたのか。これさえ分かれば呪いは無効化できると思う。あたし達の力を持ってすればね。そしたらまたアザスタンの背に乗っていけるんだけれど……あまりにも楽観的観測に過ぎるわね。むしろ分からない状況が続き、呪いはずっと解けないまま、と考えたほうが現実的ね」
 言うとそっと目を閉じ、ウィムリーフは自身を納得させるかのようにうんうんと頷いた。そして目を開け、
「やっぱり……歩いて行くしかないか!」
 ウィムリーフは結論づけた。それ以外方法がないのだ。まさかここまで来て怖じ気づいて引き返すわけにもいかない。絶対にオーヴ・ディンデへ乗り込むのだ!

 ウィムリーフは表へ出て、細い木の枝を折って持ってきた。そして敷き布を丸めて地面を露出させ、簡単な絵を描き始めた。
「ここがあたし達のいる森の外れね」
 彼女はメリュウラ島の地図を描き、左上部、森林地帯を抜けた自分達の位置をくるくると円で示した。
「……で、ずっと先、オーヴ・ディンデが――ここ」
 ウィムリーフは右下部に城を示す文様を描いた。やや離れ、城を守護するかのように四つの方角に建てられている塔も四つ描く。
 北東のシュテル・ギゼ。南東のゴヴラッド・ギゼ。南西のロルン・ギゼ。そして北西のヌヴェン・ギゼである。
「前にも言ったけれど、城に辿り着くにはここから先の湿原地帯と――平原を越えていかなきゃならない。直線距離にしておそらく六十メグフィーレ。歩きづめでも一週間かかるとみるべきね」
 ウィムリーフは湿原地帯を強行突破する事を告げた。ぬかるんだ土質は徒歩で進むにはやっかいであるし、野営に適した平坦で硬い土地はそうそう見つからないだろう。だから明日は、太陽が昇ってから暮れるまで歩き通す。その間に野営に向いた土地があれば迷わずそこでキャンプを張る。ウィムリーフの考えにミスティンキルとアザスタンは同意した。
 次に彼女は、一番重要な事として飲み水を挙げた。汚れた水や生水を飲めば体調を崩してしまうかもしれない。水をくむ場所は清流、しかも動物達が水飲み場としている地点に限る事。汲んだ水は必ず沸騰させたあとに使用する事。飲用時は配分を考え、唇をしめらす程度にする事。
 ウィムリーフは慎重に事を運ぼうとしている。それは臆病風に吹かれたわけではない。冷静で賢明な判断だと言えるだろう。こんな得体の知れぬ魔境の地においては。

「靴も見ておかなきゃね!」
 ウィムリーフは言った。
「じめじめした湿地帯を歩いて行けば、靴の底からどんどん水分が入り込んでくる。足下が水浸しにならないようにしっかりと手入れしたほうがいいわよ、ミストもね」
 靴が壊れたらこれからの冒険行に大いに支障をきたす。ウィムリーフは自分の靴を片方ずつ手にとって、穴が空いてないか、靴全体に不具合があるか、事細かに検査した。少しでも不安を感じる箇所には手入れを施した。
 一方、ミスティンキルは鼻をひくつかせた。
「さっきから気になってたんだがよ。この空気の匂い、しめった感じ……ことによるとこれから雨が降るかもしれないな」
「なんてこと」
 ウィムリーフは天を仰いだ。
「もし豪雨になるというのなら湿原越えは見合わせるべきね。危険だもの。小雨程度だったら……そうね。状況に合わせて柔軟に対応しましょう」
 それきり、三人は口をつぐんだ。

◆◆◆◆

 夜となり、彼らは獣よけのたき火を起こした。そして湯を沸かして飲み水を確保する。
 またウィムリーフは先に言ったとおり、野営地の周囲に悪霊祓いのまじないを結んだ。九百余年を経ているとはいえ、かつての戦いで死んでいったラミシス王国の魔術師達や民達の怨念が、月の向こう――“幽想の界《サダノス》”に赴くことなく、この地に残留しているとも考えられたからだ。
 この頃になるとさすがにウィムリーフも機嫌を直しており、塩辛い以外に味気のない携帯食を口にしながら、この島で最初にとった美味しい食事について懐かしんでいた。
 やることのなくなったミスティンキルはテントに入ってごろりと横になったが、ウィムリーフはたき火のもとで冒険日誌を書き綴るのだった。やがて日誌を書き終えると深夜までの外の見張りをすすんで買って出た。

 未明、ミスティンキルは見張り交替のため目を覚ました。今はアザスタンが役を務めている。と、彼のすぐ横で眠っているウィムリーフが全身から青い光を放っているのを知った。その光はテントの中をほのかに青白く照らしていた。当の本人は眠りについたままだが、どうやら夢でうなされているようだった。ミスティンキルは慰めるように何度か彼女の頭をなでたあと起き上がり、テントの外へと出て行った。

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(二)

 それから数刻が経った。ミスティンキルは見張りの番に就きながら、東の空が赤みを帯びてくるのを見ていた。空気は薄ら寒く、やや湿り気を帯びている。彼の読みどおり、雨が降るのかもしれない。上空は一面、厚い雲に覆われている。
 そろそろ起床の頃合いだ。ミスティンキルはテントに入るとウィムリーフとアザスタンを起こした。深夜にウィムリーフが放っていた青い光は収束されている。本人はそのことにまったく気がついていない様子で、ミスティンキルとアザスタンにおはようと軽やかに声をかけた。
 そして彼ら三人は揃って簡素な食事をとり、手際よくテントを畳むと足早に野営地をあとにした。

◆◆◆◆

 太陽は昇ったようだ。ようだ、というのは太陽が雲に隠れて見えないからに他ならない。どんよりした鈍色《にびいろ》の空のもと、一行は前方に浮かべた赤い光の球を目印にしてやや早足で歩く。進む方角はゆるやかに登っている。南東――ロス・オム山がわずかでも見えれば珠に頼ることなくオーヴ・ディンデの方角へと歩を進められる。だが今や周囲はもやに包まれており、遠景まで見通すことは不可能だ。
 歩くにつれ、徐々にではあるが地面がぬかるんできているのを彼らは知る。これは雨のためではない。湿原地帯に入り込みつつあるためだ。ウィムリーフが合図を出すと、彼女を先頭に、ミスティンキル、アザスタンの順で一列縦隊を組んだ。西方大陸《エヴェルク》の北、山岳地方で産まれたウィムリーフは、その高原域にある湿原地帯を何度か訪れたことがあり、湿原についてそれなりの知識を持ち合わせていた。
 この湿原を強行突破すると先に彼女は告げたが、それは容易なものではなく危険が伴うと知った上でのことである。地面は滑りやすい上、底無し沼と知らずに足を踏み入れてしまうことすらあるから、常に足元には注意を払っておく必要がある。また熊のように危険な動物と出くわしてしまうこともあるのだ。それでもオーヴ・ディンデに辿り着くためにはここを越えていかなければならない。

 土壌が湿原の泥炭へと明らかに変わった頃、ついに分厚い雨雲からしとしとと雨が降り始めた。激しく降る気配はないものの、当分のあいだ雨模様となるだろう。ミスティンキルはそう推測した。彼は雨よけの術を使って雨を遮断する。三人の頭上には薄く透明な膜が一枚作り上げられた。
 次に彼らは寒さを防ぐことにした。ミスティンキルとウィムリーフがそれぞれたいまつを取り出し、魔力による炎をミスティンキルが灯した。これでいくらかは暖がとれるし、獣よけにもなる。またミスティンキルが制止しないかぎり火は燃え続ける。
 昨日受けたあの強力な呪いは空を飛ぶものに対して降りかかるようだが――事実、今朝の出立から今まで鳥の一羽も見かけたことがない――人が唱えるごく微弱な魔法についてはどうやら干渉してこないようだ。
 さて一方でアザスタンはというと、龍たる彼は体内に炎を宿しているためにそのようなことをする必要が無かった。
 こうして万全とも思えるほど守りを固めたとはいえ、雨の細かな水滴が彼らの服にまといつく。また、ぬかるんだ地面と雨に濡れた草が靴を濡らしていく。ミスティンキルとウィムリーフ、二人の体温は時間が経つにつれ奪われていくのだった。彼らは次第に口数が少なくなり、やがて押し黙って歩を進めるようになった。
 もし周囲が晴れ渡っていたならば、湿原ならではの花々など風光明媚な自然の美しさに心奪われたりもしただろう。しかし今の彼らにはそれに心を向けるまでの余裕はなかった。鹿の群れなどを見かけることがあったが、お互いに無関心だった。

 果たして朝も明けぬうちから何メグフィーレ歩き続けただろうか。やがて彼らはハンノキが茂る小高い丘に辿り着いた。足元の感触が変わったことで、ようやく一行は安堵した。堅い地面がこんなにありがたいものだとは――。丘を登ってみると、眼下は相変わらず霧に包まれているが、前方にアシの群生地がかいま見れる。
「……このまま進むと沼に突き当たるわね。いったん方角は外れちゃうけど、ぐるりと回り道をしていきましょう。……でも丘を降りる前に、ここで休みを取りましょうか!」

 三人は草むらの雨露を払い、布を敷いてその上に座した。濡れそぼった服に付いた水分を拭き取ると、いくぶん寒さが和らぐ。そして靴を脱いでしまうと足先が空気に触れてとても心地よい。
「なあ、この湿原には名前を付けなくていいのか?」
 携帯食をほおばりながらミスティンキルがウィムリーフにふと訊いてみた。他愛ない会話を交わすことで一行の沈んだ気分を晴らそうとしたのだ。
「“霧と雨の湿原”!」
 間髪入れずにウィムリーフが答えた。もしかするとずいぶん前に彼女の中では命名済みだったのかもしれない。それを聞いてミスティンキルは吹き出した。
「……なんだよ、そんな分かりやすい名前でいいのか? 昔の言葉でどうこう……ってほうがかっこうがつくんじゃねえか?」
 ミスティンキルはおどけてみせた。
「そんなことないわよ。たまにはこんな名前もありでしょ?」
 ウィムリーフは久しぶりに笑顔を浮かべた。彼女にも心の余裕が生まれたのだ。
「ほら、“世界樹”だって“黒き大地”だって、あたし達が使うアズニール語じゃないの。それにこの先にある平野は“枯れ野”って名前が付いてるみたいだし、なにも古い言葉ばかりに縛られる必要は無いわ。だから――決まり! “霧と雨の湿原”!」
「はは、まったくしようがねえな。その名前、しっかり日誌に書いとけよ!」
 ミスティンキルも笑ってみせた。一行の雰囲気は一転して和らいだ。

 そして彼らはまた進む。
 昼過ぎになるとようやく雨が止み、霧もかき消えた。ロス・オム山がうっすら見えるようになったところで進行方向をやや修正した。道しるべを務めてきた魔法の球はここでお役御免となった。
 あらためて、ロス・オム山を目指してまっすぐ歩いて行くと、途中で小川を三本ほどまたいで進む必要に迫られた。迂回することはできない。こればかりは仕方なく、それぞれの川の浅瀬を選んで渡りきった。それでも膝上の高さまで水に浸かってしまい、上衣を濡らしてしまった。
 この午後は短時間の休憩を二回挟み、ひたすら歩き続けるのだった。湿原を早く抜け出すために。

◆◆◆◆

 日が暮れようとする頃、ついに一行は湿原地帯を踏破した。疲労困憊し、意識がやや朦朧《もうろう》としていたが、達成感もまたあった。三人はお互いの顔を見合わせ、喜びを分かち合うのだった。
「あのような水浸しの場所を歩くなど、もう御免被るぞ」
 龍にとって湿原はよほど相容れない地域だったのだろう。珍しくアザスタンまでもが音をあげた。
 すぐに野営地を決定すると木を集めてたき火を起こし、夜のとばりが降りる前にテントを設営した。泥にまみれぐしょぐしょになってしまった衣服は洗って乾かす。アザスタンはともかく、ミスティンキルとウィムリーフの二人は裸でいるわけにもいかず、それぞれ大きめの布を一枚身体にひっかけた。

 夕食後、たき火に当たりながらウィムリーフが日誌を書いていると、テントからミスティンキルが出てきて彼女の後ろから抱きついた。
「ちょっと! なにおふざけしてるのよ!」
 そう怒られるも、ミスティンキルは手を引っ込めるどころかますますウィムリーフに密着してきた。薄い布を隔ててお互いの肌がぴったりと重なる。それがとても心地よいものであるのは確かだ。
「……こうしたほうがもっとあったまるじゃねえか?」
 ちょっと甘えたような、しかし落ち着いた声で、ミスティンキルはウィムリーフの耳元で囁く。
「こら……!」
 やや当惑しつつウィムリーフはミスティンキルを見上げる。灯火を受けながら群青の瞳と赤い瞳が交差する。ミスティンキルの瞳は吸い込まれそうなほど実直だと彼女は感じた。そしてミスティンキルが明らかにウィムリーフを求めているのを知った。
 ウィムリーフは彼から目をそらし、神妙な面持ちで
「ばかね。アザスタンがいるのよ?」
 と、とりあえずやんわり否定の言葉を口に出した。
 ミスティンキルは自分の頬と彼女の頬を合わせ、
「気にすんな。『おれ達が見張りの番に就く』って言っておいた」
 そう言うとやや強引にウィムリーフの唇を奪った。
 厳しく困難な道のりのさなかだが、ひとときの情欲に身を任せるのもいいかもしれない。ウィムリーフは拒むのを止め、彼の思いを受け入れるのだった。

◆◆◆◆

 夜も更けてしばらく。
 愛を交わした恋人達はやがて手を取り合ってテントに入った。そしてアザスタンに見張りの交替を願うとそれぞれの寝具にくるまった。
「そういえば……」
 目を閉じようとして、ミスティンキルはふと今日未明のことを思い起こした。あの時、ウィムリーフの身体を青い光が覆っていたことを。それを聞いてウィムリーフは唸った。
「うーん……。なにかあまり良くない……不思議な夢を見ていた気もするわ……。でもなんだったのか思い出せない……」
 思慮深げにウィムリーフが言ったまさにその時、青い光がぼうっと彼女の内側から出てきて全身を包んだ。ウィムリーフ自身の魔力による光だ。
「なに?! なんなの?!」
 ウィムリーフは寝具から抜け出ると、青く光る自身の身体を見回して慌てふためく。この事象が発生するのはメリュウラ島にやってきて連日、もう三回目だ。
「ウィム! 大丈夫か?」
 がばりと、ミスティンキルは上半身を起こす。
「うん……平気。あたしの魔力が放出されているだけで、それ以外は何ともないわ」
 やや不安そうにウィムリーフは言葉を返した。
「収まれ、収まれって願っても引っ込まないのよ。どうしよう……。なんでこんなこと、あたしにばかり起きるの……?」
「ウィム……」
 狼狽するウィムリーフを見かねてミスティンキルは手招きする。ウィムリーフは頷くと、ミスティンキルの寝具にそろりと潜り込んだ。青い魔力は熱を帯びているわけではなく、ミスティンキルに影響を及ぼすものではない。それよりむしろ彼女の持つ柔らかさと暖かさ、匂いにミスティンキルの意識が集中した。
「大丈夫だ、ウィム。深く考えるな。そのうち引っ込むから怖がらなくていい」
 ミスティンキルはウィムリーフの背中を撫でた。ウィムリーフは切なそうな視線をミスティンキルに送った。
「お願い。あたしが眠りについても抱きしめていて。そうすれば悪い夢なんか見ないと思うの」
「……ああ……」
 恋人達は目を閉じた。
 二人が寝息を立て始めるまで、そう時間はかからなかった。

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(三)

 明くる日。身体を揺り動かされているのに気付いてミスティンキルは目を覚ました。視野に龍戦士アザスタンの姿が映り込む。
 ――と、ミスティンキルの胸元で銀髪の頭部がわずかに動き、毛布からウィムリーフが顔をのぞかせた。彼女はミスティンキルの顔を見上げて、一瞬怪訝そうな表情を浮かべる。が、すぐに納得がいったのか、決まりが悪そうにいそいそとミスティンキルの寝具から抜け出ていった。
「お、おはよう」
 そう言ってウィムリーフはそそくさと自分の髪を手櫛《てぐし》で整える。照れているのか、やや顔を赤らめているあたりが愛らしい。
「おはよう……すまねえアザスタン。すっかり朝になっちまったようだな」
 疲労のため深く寝入っていたようだ。ミスティンキルは長時間アザスタンを見張りに立たせていたことを詫びた。
「気にするな。一日や二日眠らない程度で龍はくたばらぬよ。……まあ時に我らは、長い眠りを必要とすることもあるがな」
 アザスタンはそう言うと笑ったようだった。龍頭ゆえに表情は読み取れないが、今までのつきあいからミスティンキル達には分かった。
 ミスティンキルは起き上がると大きく伸びをした。荷を背負って一日中湿原を歩き通し、普段使わない筋肉を使ったのだろう、身体の節々が痛む。
「……だりぃ……アザスタンみたいにピンピンとはしてられねえな」
 ミスティンキルは座り込んで大きくあくびをした。
「歩いていればそのうち身体の調子も良くなるわよ。たぶん」
 そう言うものの、ウィムリーフも今ひとつ元気がなさそうだ。起き抜けというせいもあるだろうが、語気に覇気が無い。ウィムリーフは咳払いをした。
「……まああれだけ頑張った甲斐あって湿原を抜け出たわけだし、まずは一安心していいわ。ここから先は平原が続くから、山を目印にまっすぐ進めばいいだけ。少しばかり遅れても支障は無いはずよ。今日は早めに休むことにしましょう。正直なところ、あたしも疲れが抜けてないわ。でも進まないと! ほら、出ましょう、ミスト!」
 ウィムリーフは自分を含めた皆に発破をかけ、テントから出て行った。追ってミスティンキルとアザスタンも外に出る。

 昨日とは打って変わり、今朝はメリュウラ島の全域で晴れ渡っている。見渡すと、南東のロス・オム山も南西のロス・ヨグ山もくっきり鮮やかに見える。また気候は暑くもなし寒くもなく、ちょうどいい。ミスティンキルは大きく深呼吸した。
「うん。気持ちいいな!」
 気持ちを切り替えるようにそう言って、ミスティンキルは乾かしていた衣服へと着替えた。ウィムリーフもテントの裏で着替え終えたようだ。手足を動かして身体をほぐしている。
「飯を食おうぜ! ああ……美味い干し肉が食いてえなあ。たまらなく肉が食いたい」
 ミスティンキルがため息をつきながらそう言うと、ウィムリーフはにこりと笑って返した。
「あたしは蜂蜜をかけたパンが食べたいわね! それに牛乳も。……残念だけど今それは叶わないから、冒険が終わったあとの楽しみとしましょう」
 そして彼らは質素な携帯食を食べ終えると、今日の旅路の支度に取りかかるのだった。

 一行は“枯れ野”を闊歩する。この日は前日の疲れを取るために、二刻ごとにしっかりと休憩をとって体調を整えた。晴れやかで涼しいため、歩いていても前向きな気分のままでいられる。
 途中、土着の悪鬼の一隊に弓矢で攻撃されたが、“竜殺し”の一行は軽くひねるようにこれらを撃退した。以降、一行の行く手を阻む者はまったく現れなくなった。
 三人は夕方前には野営地を決め、ゆっくりとくつろいだ。そして夕食が済んだ頃、またしてもウィムリーフの身体は青い光に包まれた。だんだんと、光が現れる時間が早まっているのはなぜなのだろうか。オーヴ・ディンデに近づくにつれて。
 未明となり、見張りの交替でミスティンキルがウィムリーフを起こしたとき、彼女から青い光は消え失せていた。

◆◆◆◆

 こうしてまた次の朝を迎えた。メリュウラ島に着いて早五日目となった。

 一行が歩いていくと、やがて木や石で造られた建造物の名残のようなものが散見されるようになった。このあたりの平原はかつて、ラミシス王国の一般市民が居住区域としていた地域なのだ。だが九百年以上時を隔てているために今やすっかり風化している。
 住居跡がある程度集まって存在していることから、かつては町や村といった集団で人々が生活していたことが見て取れる。そして農耕や牧畜が行われていたであろう痕跡もかすかに残っていた。ウィムリーフは時々歩を止め、こうした周囲の風景を日誌に描写していた。
「肉体と魂の不死を追求した魔導王国――か。生け贄を使った悪魔的な儀式が連日のように行われていた――。この遺跡からはとてもそうは感じないわね。ここの人々は普通に生活していたとしか……」
「だけどそういった悪行が知れ渡って、アズニール王朝が軍を差し向けて滅ぼしたんだろ?」
「実際、歴史上そうなのよね。もっと奥へ――魔導塔から先の中枢域に行けば違った印象を受けるのかしら?」
「魔導の興った地だからな。もっと魔法的ななんかがあってしかるべきな気がするぜ。実際おれ達は呪いを受けたんだから」
「……そうね。目的地に着いたからって浮かれないで、気を引き締めていかないとね」
 うんうんと、ウィムリーフは自身を納得させるように頷いた。

 さらに進んでいくと、黒くてごつごつした巨大な岩塊が平原のところどころに見受けられるようになった。これは遙かな昔、火山だったロス・ヨグ山とロス・オム山から噴出した火成岩が集まってかたまったものだ。またミスティンキル達が通った湿原地帯にしても、その形成に際しては火山の堆積物が大きく関わっている。ウィムリーフは火成岩の小さな欠片を拾って熱心に眺めたあと、自分の荷物の中にしまい込んだ。彼女の住んでいた西方大陸《エヴェルク》北方域には火山がないため、とても珍しかったのだ。
 遺跡と岩塊が混在する奇妙な景色だ。やがて霧が立ちこめてくると、白いもやに包まれた風景は、まるでこの世のものとは思えないまでの不可思議さを醸し出すようになった。太陽は頭上にあり、光輪を作って幻想的に地上を照らす。
「なんていうか不気味な感じだな」
 とミスティンキル。もやで山が見えなくなったので、彼は魔法の球を発現させた。
「怖くなったの?」
 ウィムリーフがにやりと笑ってみせた。
「ばか言え。そんなわけあるか」
 ミスティンキルはぶっきらぼうに返答する。
「ふふ。でもまあ、まさにこれこそ魔境、遺跡って雰囲気よね」
「なんだろうな。いつか見たような気もするんだよな。そうだなあ……ピンと来たのは死後の世界ってイメージかな……」
「そうね。でも“幽想の界《サダノス》”のことは誰も知らない……死後の世界というのはこの世界最大の謎のひとつね」
 アリューザ・ガルドに生きるものは死後、月を通って“幽想の界《サダノス》”へ至る。これは誰しも知っていることだ。しかし“幽想の界《サダノス》”がどういう世界で、そこでは自分達がどのように存在しているのか、具体的に知るものは一人としていないのだ。それがアリューザ・ガルドを創造したアリュゼル神族であっても。
「ミストの言うことも分かる気がする。あたしも死後の世界って印象を感じるわね。それとも“幽想の界《サダノス》”に至る道……? うまく言い表せないけど……心象風景として、あたし達の心の奥底に存在する景色なのかしら」
 ウィムリーフは首をかしげて言った。
 とその時、ミスティンキルが鼻をひくつかせた。
「このにおい……ウィム、分かるか?」
「ええと……?」
 とっさの問いかけにウィムリーフは戸惑った。
「どうやらどこかで温泉が湧き出てるみたいなんだ。そんなにおいがする。ウィム、久々に湯浴みができるかもしれないぜ?」
「本当?!」
 ウィムリーフの顔が一転、ぱあっと明るくなった。
 島にある二つの山は死火山となったとはいえ、大地の躍動を今なお伝えている。それが温泉だ。
「野営する付近にもあるといいんだけどな、温泉。……なんなら一緒に入るか?」
「あはは、それはだめ。ちゃんと見張りの役をこなしてなさい」
 一笑に付すと、ウィムリーフは断った。
「ほおう。湯浴みを見張る役でもいいってことだな?」
「ばか言ってなさい。そんなことあるわけないでしょう」
 ウィムリーフはミスティンキルの右頬をつねった。
 奇妙な白い闇の中にあって、三人は足取り軽く歩いて行くのだった。

 夕方には霧は晴れた。一行は湯がこんこんと湧き出る泉を見つけ、そこを野営地とした。そして悲しいかな、ミスティンキルは己が欲望を果たすことができず、見張りの勤めをきっちり果たしたのだった。ウィムリーフが湯浴みしている最中に青い光が発現したようだが、その時の様子をミスティンキルが見ることは叶わなかった。

 それから夕食をとり寝るまでの間、彼女の身体は青く光り続けた。「気にしていない」と気丈にウィムリーフは振る舞うが、なぜ魔力が顕現しているのか、なぜ制御できないのかまったく分からないため、内心はかなり困惑していただろう。実際にミスティンキルは見たのだ。星空のもと宙のとある一点をじっと見つめ、ひとりで物思いに耽っているような彼女の姿を。

◆◆◆◆

 翌日の昼下がり。一行が歩を進めるにしたがい遺跡の数は減っていき、そろそろ居住域の終わりが近いことを知らせた。それまで道を形成していた石畳跡も姿を消していく。やがて彼らは何もない荒野を、ただひたすら歩くようになった。

 太陽が西に傾く頃、三人は大きな川に突き当たった。ぐるりと周囲を見渡すが、橋の形跡はまったく無い。川の流れはやや急で、川の深さも定かではない。けっきょく、ここを歩いて渡るのは危険だと判断した。ではどうするのか? 三人はしばらく思案に暮れたが、とりあえず川をさかのぼっていくことに決めた。
 その判断は正しかったようだ。川沿いをしばらく歩いて行くと、ちらほらと石畳の形跡を見受けるようになった。
「あたしの勘が正しければ、このまま上流に向かえば湖に行き着くはず。そしてそこに塔が立っていると思うの」
 湖畔に立つ塔。
 かつてのカストルウェン王子達の記録によると、その塔こそ魔導王国中枢の四つの塔のひとつ、ヌヴェン・ギゼ。ラミシス中枢域の北西域に立つとされ、他の三つの塔と同様に魔導の研究に使われていたほか、中枢域を守護する役割も担っていたとされる。
 いよいよオーヴ・ディンデが近くなってきた。そのことは一行の士気を高めた。

 しかし日はもう没しようとしている。はやる気持ちを抑え込んで三人は野営地を決め、テントを張った。
 そしてウィムリーフが発する青い光は早くも設営時に現れたのだ。
「またこんなこと。じゃあ明日には昼過ぎにあたしは青くなっちゃうというの? あたしはどうかなっちゃうの……?」
 膝を抱えてウィムリーフは座る。そして目を閉じ、顔を伏せると彼女はひとりふさぎ込んだ。
「……ウィム……」
 ミスティンキルはそれ以上何も言えなくなってしまった。

 長い時間を経て、彼女は考えるのを止めたのかゆっくりと目を開く。そしてぼうっとした表情で立ち上がり日誌を取って帰ってくると、何か――今日の出来事だろうか?――を黙々と記し始めた。
 だが、なにかがいつもと違う。気軽にウィムリーフに話しかける、そんな雰囲気ではないのだ。かといって他者を拒絶しているというわけでもない。異質な感じ。時折ウィムリーフは記述を止め、ぼうっとした眼差しで天上の月を見上げる。月は真円を描いていた。
「ふふっ……」
 彼女は目を細めてほくそ笑む。その様子を見てミスティンキルは言いようのない畏れを感じたのだ。ふと、彼は同じような経験があったことを思い出した。二週間ほど前のこと。ウィムリーフが一人でデュンサアルを後にしようとしたあの夜。互いに滞空したまま、無言で対峙したあの時を。
(そういや、あの時は新月だったっけな……。月でおれは魔導の力を得た。あの時、ウィムはなにか違ったものを得たのか?)
 ミスティンキルは訝しんだ。と唐突に、ウィムリーフはついと歩き出し、テントの中へと入ってしまった。

 その後、三人は奇妙な雰囲気に包まれたまま各々食事を取り、夜を迎えた。
 そして夜半には、彼女を覆った光は収まった。

◆◆◆◆

 島に到着してとうとう一週間が過ぎた。
 三人は旅支度を整え、川をさかのぼっていく。昨夜の奇妙な違和感はどこへやら。一行を包む雰囲気はまったくいつもと変わらないものとなっている。
「川の名前は決めてあるのか?」とミスティンキル。昨夜のことはウィムリーフにはあえて訊いていない。
「この先にあるのがヌヴェン・ギゼの塔だというのが間違いなければね。決めてあるわ」
 ウィムリーフは今までどおり、得意げに言った。
「湖の名前と川の名前は一緒のもの。ヌヴィエンにするわ」
「今度は塔の名前からとったのか」
「そうよ。塔と関連性のある場所だから、同じ系列の名前にした方がいいと思ったのよ」

 そうこうしているうちに道は森へと入り込んでいく。ここまで来ると川幅もずいぶんと狭くなってきている。一行は石畳が導く先、薄暗い森の中へと足を踏み入れていった。
「森、か。シヴァウムの森林みたく、だだっ広かったらどうする?」
「“シュバウディン森林”ね」
 ウィムリーフは訂正した。
「……この森はあんなに広い大森林だとは思わないわ。ヌヴィエン川の流れ方から察すると、半刻もこの川をさかのぼっていけば開けた場所に出るはず」

 ウィムリーフの予想は違わなかった。
 ヌヴィエン川は大きな滝に行き着き、滝の側面の急な傾斜地を一行はよじ登っていく。そうして苦しみ抜いて登り切ったところに――
「……着いた」
 森の終わりがあった。一行はヌヴィエン川のはじまり、ヌヴィエン湖へ辿り着いたのだ。そして彼らの目は、湖の左手側の岸をなぞっていく。
 そこには乳白色をした石造りの塔がひとつあった。高さは半フィーレほどだろうか。“壁の塔”ギュルノーヴ・ギゼには遠く及ばないが、湖畔のどんな木々よりも高くそびえている。
「ヌヴェン・ギゼの塔よ。とうとうここまで来たわ!」
 ウィムリーフは目を輝かせた。
「塔に到着したらお昼休みにしましょう。そして塔を探索してみるの。冒険家としてね!」
 そう言ってウィムリーフはミスティンキルに目くばせをした。

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